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2020年12月13日01:35

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西田幾多郎、スピノザ、木村敏 の「思想」を「理解」する

今、私は
去年(令和元=2019年度)の
京大文学部の集中講義
(講師:美濃部 仁 明治大学教授「西田の具体的一般者について」)

京大大学院 文学研究科 博士後期課程在籍中の
スピノザ専攻の院生の諸論文(卒論、サーベイ、修論、学術論文)

京大医学部6回生の
木村敏を専攻研究する学部生(東大文学部卒)の
学会(日本精神病理学会、日本精神医学史学会)発表諸論文

対して

それらに対する
「リアクション(感想文)」

書く為に

(1)西田幾多郎の哲学(「具体的一般者」を中心とした理解)
(2)スピノザの哲学(「概念の概念」を中心とした理解)
(3)木村敏の精神医学思想
(人間学的精神病理学的時間論
 =アンテ・ポスト・イントラ・フェストゥム論を中心とした理解)
について
同時並行的に
図書館から本を借りてきたりしながら
(京大最後の在籍年であり
 教育学研究の大学院時代最後の成果も追求しつつ)
色々と勉強している。

けれども
ちゃんと答えようと
し過ぎて
あまりにも時間が
かかってしまい

3名の方々(美濃部先生、E さん、S さん)に
ずっと待たせてしまい
迷惑をかけている。

それだけではなく
東京の西田哲学研究会のメンバーの方から
近著を贈呈していただいた
(2020年8月19日『西田哲学とその彼岸ー時間論の二つの可能性ー』
にもかかわらず

「ちゃんと読んで感想を含めて
 お礼のメールを送ろう」
と思っていて
上記の著書の
「時間」が「存在しない」
という考え方の理解に困って
(なぜなら
 西田哲学にとって
 「時間」は「個」が成立する為の「基礎」であり
 また同時に
 「他者(汝)」との「応対(関係)」が
 「時間」の「成立」の「不可欠要素」として
 考えられており
 (この場合の「他者」は「絶対の他」としての「汝」であり
  その意味で、通常考えられる「他者」ではなく
  「意識」の「根底」で出会われる「他者」であるから
  宗教の原理としての「絶対の他」)

  そういう意味で
  「時間が存在しない」という考えは
  西田哲学では
  「他者(絶対の他)が存在しない」
  ということを言っているのと同じ事になるので

  西田幾多郎は
  そうは言ってないと思うから
  その考えの理解に
  時間がかかってしまっている)

いまだに
お礼のメールも
送らないままで居る。

なので
「時間が存在しない」
という
重久先生の以前からの考え方

を含めて

自分の「考え」を
纏(まと)める為に
時間が掛かり過ぎてしまっている。
(こういう場合
 重久先生なら
 「時間は最初から存在していないから
  掛かり過ぎているなんて
  気にしなくていいよ」
 とおっしゃっていただけるのだろうか。)

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

という事で
以上の4名の方々へ
ちゃんと返事する為に
次の4項目に関して
自分の考えを整理しておきたい。

(1)西田哲学について(美濃部先生の講義や論文を中心に)
(2)スピノザ哲学について(E さんの諸論文を中心に)
(3)木村敏の精神病理学思想について(S さんの学会発表論文を中心に)
(4)重久先生の西田哲学理解について

さらに
今年(令和2=2020年度)の
京大大学院最後の研究成果
として
(来年=2021年の1月11日がおそらく
 「年次研究結果報告書」の提出締め切り日であろう)
今年(2020年)の4月8日に提出した「研究計画書」で
「予告」した「研究題目」

「教育原理としての〈自律性無底〉と、その教育方法
 ー原理認識法としての自律性療法と、原理表現法としての中動態系文法ー」

についても

考えている事を
頭の整理のために
纏めてみたい。
(というか
 今頃纏めているようでは
 遅すぎるのだが。)

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

そうだ忘れてた
それらに加えて
「研究公正チュートリアル」の
「受講証」を
「今(令和2)年度中」に
取得しておかなければならない。
(「課程博士号」を「取得」する場合には。
 「論文博士号」の場合は
 「研究公正チュートリアル受講証」の
 「提出」は求められないが
 研究者として必要不可欠な「倫理」であるので
 テキストを熟読して内容を承知しておく必要がある。)

「研究公正チュートリアル」

「受講証」を
「取得」するには

指導教官と
一対一または
一対三くらいまでの人数で
対面して
(1)テキストの内容について
   口頭で正確に概説できるかどうか
がテストされ
(2)自分が専門としている領域において
   注意すべき事項について
   指導教官と確認し合う
という審査が行われ
テキスト内容の熟知と
専門研究領域における注意事項についての準備が
出来ていることが
指導教官によって
確認されなければならない。

この「審査」を経て
「研究公正」に関して
十分な知識と意志を持っていることが
「確認」されている必要がある。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

ところで
「研究公正」に関しては
私が受けた
「パワーハラスメント問題」に
どのように対処すべきであるか
ということも
同時に含んでいる。

私が受けた
パワハラ問題は
「研究公正チュートリアル」の
審査の場で
処理できない問題であるので

「ハラスメント相談窓口
(部局内、及び、部局外=学外からの派遣カウンセラーによる窓口)」
あるいは
学外の
「弁護士」に
相談すべき事案
である。

「ハラスメント」の
「現実問題」は
「現実に存在している相手」が
居るので
とても厄介な問題だ。

誰でも「自分」が
「正しい」と
「思いたい」し
「お前が間違っている」

「正誤のなすりつけ合い」になれば
「利害関係を持たない第三者」による
「紛争問題の調停」が必要になる。

けれども問題は
この「第三者」が
いくら「公正で中立」な立場を貫く
「賢者」であったとしても

「パワー」即ち「権力」が
「働く場」においては
「中庸」が
純粋に機能せず
(テレビ時代劇『破れ傘刀舟悪人狩り
 1974年10月1日〜1977年3月29日
 NETテレビ(現:テレビ朝日)系列で放映された。全131話
 の主人公「叶 刀舟(萬屋 錦之介)」のように
 「てめえら人間じゃねぇ、叩(たた)っ斬(き)ってやる」
 とばかりに
 「不可抗力」の「権力関係」を「超越」して
 「ハラスメント問題」を「解決」する
 という「話」は
 「劇」としては「成立」しても
 「現実問題」としては
 「権力によるパワーバランスの歪曲(ヒエラルキー化、階層化、階級化)」は
 「治癒(改正、改革、革命)」することは
 実際には
 「極めて困難」な
 「超難問」である。)
「パワーバランス」の「上位」に位置する者が
「理不尽」であっても
「勝利の美酒に酔う(喜ぶ)」結果と成る場合が
多い。

そうであるからこそ
「権力」で
「歪められた」
「本来機能すべき」
「中庸(素直な心)」を
「機能させる権力を超越した力」である
「命を賭けた勇気ある行為」が
「讃(たた)えられる(称賛される)」
のである。

私の父
濱田 耕助(はまだ こうすけ)も
環境を「汚(けが)す」「権力(国家と企業)」に対して
パワーバランスを「越えて(超越して)」
長期に亘(わた)って「裁判闘争」し
「世界的な環境再生に対する人類の自覚の潮流」にも支えられて
「国家と企業」と「住民」という
「勝ち目のない戦い」に
「和解」という
「勝利」を導く
「原動力(牽引者)」と成った。

もちろん
父の「強い意志(勇気)」のみで
勝ち得た勝利ではないけれども
「苦しんでいる多くの人々」の
「辛(つら)い思い」を
「代弁」し
「癒す為に身を削る」という
「一肌脱ぐこと」の「出来る人」が
居てこそ

「パワー・アンバランス(本来中庸であるべきバランスの歪み)」

「正される(糺(ただ)される)」
のであり
「心の病の具現としての権力
 (ヘーゲルの「具体的普遍」の発想から推量すれば
  「具体的特殊」あるいは
  「具体的悪(具体的不正)」または「具体的逸脱」。
  ヘーゲルが言うような「具体的普遍(die konkrete Allgemeinheit)」
  だけが現実を動かしているわけではない。
  むしろ
  「必然」に
  「反する特殊(不届き者)」の方が
  「必然」よりも
  多く見かけるような気がする。
  しかし
  「必然に反する特殊としての逸脱行為」は
  「目立つ行為」であるので
  「目立たない、その他大勢の正常行為者」よりも
  目についているだけで
  実際には「必然性に沿った正常な人々」が「大半」
  なのだろう。)

「治療(修復)される」
のである。

「治療者」が「居なければ」
「正されない(糺されない)パワー・アンバランス」を
「正して(糺して)こそ」
「本物の人間」であり
「人格者」である。

「勇気」
とは
そのような
「パワー・アンバランス(理不尽)」
つまり
「固定(具現・社会構造)化して
 覆すことが出来ないようにされた
 しかしそもそも根源は
 心の歪みから生じた病巣としての権力」

「横暴
(その「行為」は
 体内で正常細胞を食い尽くす
 「癌細胞」と「同等」)」

「敢然と立ち向かう意志」
である 。 
 
☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

私はいつでも
「結論」だけ
直観で最初に出るのだが
その突然直観によって出てきた「結論」に
「誰もが理解できる普遍的論理的形式」を
与えることが
苦手で
苦労する。

けれども
「直観」は
「主観」であるから
それがたとえ
「主観的確信」であっても
また
「主観的客観性」だと
いくら
「自分」が「思って」も

それが
「客観的で論理的な形式」を
「備えて」いなければ
「誰もが納得して理解すること」が
そもそも「出来ない」。

だからこそ
大阪市立大学を卒業し(1984年3月)
関西大学大学院修士課程を修了(1994年3月)した
にもかかわらず
京大へ入り直して学部で7年間(2002年4月〜2009年3月)
京大大学院で12年間も(2009年4月〜2021年3月)
在籍し続けながら
(途中3年の休学を挟むが)

「学術の方法」
について
修得しようとしているのだ。

けれども
歳をとり過ぎていて
いろんな判断ができるようになったせいで
現在の
「教育内容」に
「疑問」を感じたり
「反発」することが
「原因」で

「研究者」を目指す誰もが
身につけていなければ
「自立した研究者として承認されない」
「最低限度」の
「3条件」
としての
(1)「2か国語以上の語学運用能力」

(2)「留学経験」

(3)「査読論文を通過しうる論文作成能力」

「完備」出来ないまま
61歳に成ってしまっている。

そりゃ誰でも
「この者には研究者としての能力が無い」
と判断するでしょう。

でも私は
「自分にしか書けない哲学がある」
と思っているので

少なくとも
学生であれば
誰でもいつでも
読もうと思えば
読めるように

全国の大学図書館や
デジタルアーカイブに
私の思想を

「ずっと残る形式」で
残ったのを
見届けてから
死にたい。

それまでは

萬屋錦之介版のテレビ時代劇
『子連れ狼』の第三部、最終話(第26話「腕」)での
主人公
「拝 一刀(おがみ いっとう)」
台詞(せりふ)
じゃないが

「死ねぬ、まだ死ねぬ」
という
「念」が残る。

そもそも
そういう
「念」
を持つことが
既に
「煩悩」
と言われるが

私が
1990年11月5日以来
持つように成った
「念」は
単なる
「私個人の念」
ではなく
「私の直径祖先全体の意志(遺志)」
(その意味で「人類に普遍的で、且つ、具現化された念(意志)」)
だと
思うので

そういう「直径祖先全体の遺志」は
子孫と同じ意味か
それ以上の意義を持ちうると
思うので

やはり
私に託された
使命として
完遂しておきたい。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

それから
これは
祖先で思い出したことでもないのだが

2019(平成31)年2月25日に亡くなった
母への鎮魂曲として
私は

母が亡くなる前日に
母の孫である
私の妹の長男が
私の母(彼からすれば母方の祖母)の為に
母が入院していた独立型ホスピス(薬師山病院)の
A 棟2階フロアのホールに設置してあるグランドピアノ

フォト

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3曲弾いてくれた

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それらの3曲を

母は
憔悴仕切っていて
グランドピアノの前で
聴くことが出来なかった
(薬師山病院では、
 ベットごと、
 ホールのグランドピアノの前まで
 移動することができるようなベットに
 寝かせてもらっていたのだが
 母は、それすら「よう行かんわ」と
 孫のピアノ演奏を聴きに行けなかった)
ので

私は
iPhone XR で録画して
ベットで横たわる母に
聴いてもらったところ

母は
とても
喜んでいた。

でも
直接聴くことは
出来なかったので
私は
母が亡くなってから
それらの3曲を
母への鎮魂曲として
ずっと練習している。

1曲目に弾いてくれた
小瀬村 晶さんの「Light Dance」

坂本 龍一さんの「energy flow」

だいたい弾けるようになったんだけど

(母が亡くなった一周忌に、
 ちょうど亡くなった時刻(午後9時55分過ぎから午後10時4分の死亡確認時刻)に
 右手に数珠を掛けながら
 坂本龍一さん作曲の energy flow を
 弾いたら、
 それまで何度弾いても失敗して、全体を通して間違わずに弾けなかったのが、
 奇跡的にほぼ間違わずに、全体を通して弾けた時の映像。
 目の前のディスプレイに映っているのは、
 私が京大大学院の修士課程を修了した時に、
 無理を言って修士課程修了式
 (京大の卒業式に引き続いて、博士号授与式と同時に開催された式典)
 に出席してもらった時(2012年3月26日)に、
 京都の自宅の北東角で、下鴨中通を背にして撮った
 嬉しそうな母の写真。)

久石 譲さん作曲の
「あの夏へ(One Summer's Day)」
(宮崎 駿 監督映画『千と千尋の神隠し』のオープニング曲)

様々なアレンジがあるので
その中から
「自分が気に入った弾き方を
 自分なりに組み合わせて弾きたい」
と思ったので
一つの楽譜に従って弾くのではなく
様々な弾き方を自由に組み入れる為に
一つの決まった楽譜があるわけではない為に
練習が十分に出来ておらず

母が亡くなって
もう
1年と10ヶ月ほど経ったのに
未だに弾けるようになっていない。

なので
2021年2月25日は
母の三回忌(亡くなって2年目に三回忌を行う決まりらしい)
であり

しかし今回は
新型コロナウイルス感染症の拡大で
大阪から副住職さんに来てもらうこと

静岡から妹夫婦と妹の息子2人に
来てもらうことが
出来ない為に

三回忌は
私たち夫婦で
お経をあげて行うことになっている
のだが

その日に
3曲全部を
母に
鎮魂曲として
弾いて聴いてもらえるように
練習しておきたいと
思っている。

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最終更新
令和2(2020)年12月15日 午前8時35分
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