mixiユーザー(id:2223977)

2020年12月11日00:36

108 view

同時に「形相」としての「心」の健全を目指す

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」
と言われることを
我々は知っているけれども

この言葉が
古代ローマ時代の
風刺詩人であり
弁護士でもあった
ユウェナリス
(Decimus Junius Juvenalis デキムス・ユニウス・ユウェナリス 60〜128年)
の代表作
『風刺詩集(Satvrae=Satura サトゥラ)』
の中の言葉で
(「健全な肉体に健全な精神が宿る」
 というのは「誤訳」で)

本来は
「... 強健な身体に健全な魂があるよう願うべきなのだ。」
(... orandum est ut sit mens sana in corpore sano.)
であり
この言葉は
「幸福を得るため
 多くの人が神に祈るであろう事柄
 (富・地位・才能・栄光・長寿・美貌)を
 一つ一つ挙げ、
 いずれも
 身の破滅に繋がる
 ので
 願い事は
 するべきではない
 と戒めている詩」
の中に
出てくる言葉で

その意味は
「もし祈るなら
 (富や地位・才能・栄光・長寿・美貌などを祈る
  のではなく)
 強健な身体と健全な精神こそを
 祈るべきだ」
という
「戒めの言葉」
だったということは

あまり知られていない
のではないだろうか。
(以上は Wikipedia の「ユウェナリス」より)

ユウェナリスは
その詩の第10篇で
次のように言っていたようだ。

「... 強健な身体に健全な魂があるよう
 願うべきなのだ。

 勇敢な精神を求めよ。

 死の恐怖を乗り越え、
 天命は自然の祝福の内にあると心得て、

 いかなる苦しみをも耐え忍び、
 立腹を知らず、何も渇望せず、

 そして、
 ヘラクレスに課せられた12の野蛮な試練
 を、
 サルダナパール王の贅沢や祝宴や財産
 より良い
 と思える精神を(こそ求めよ)。

 私は、
 あなたたちが自ら得られることを示そう。
 必ずや
 善い行いによって
 平穏な人生への道が開ける
 ということを。」
(...orandum
 est ut sit mens sana in corpore sano.

 fortem posce animum mortis terrore carentem,
 qui spatium uitae extremum inter munera ponat naturae,
 qui ferre queat quoscumque labores,
 nesciat irasci,
 cupiat nihil et potiores Herculis aerumnas credat saeuosque labores
 et uenere et cenis et pluma Sardanapalli.

 monstro quod ipse tibi possis dare;
 semita certe tranquillae
 per uirtutem patet unica uitae.)
『風刺詩集(Satvrae=Satura サトゥラ)』第10篇 356-364行

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

ということで
我々は
体の健全」と
並行して
「心の健全」を
求める(気遣う)べきで

人生の目的は
「その2つ」で
「必要十分」である
ということを
ユウェナリスも戒めていた
と思うので

「体の健全」
と同時に
「心の健全」
を考えて
実践したい。

「心」は
カントでは
「悟性(der Verstand=知力・思考力・理解力・判断力;分別)」

「感性(die Sinnlichkeit=感覚性・知覚性・具象性;官能性・性的衝動)」

区別されていて

悟性と感性が
産出的構想力(die produktive Einbildungskraft)の
図式的直観(die schematische Anschauung)によって
理性(Vernunft)としての
統一が保たれていることを
言っていた。

カントは
感性の「具象性」や「官能性(性衝動)」を
あまり分析しなかったけれども
理性が
統一性を保って
安定して働き続ける為には

「悟性」と「感性」とが
「互いに拮抗して
 どちらもが
 どちらもを
 一方的に排除したり抑圧しないこと」
が求められ
この
「互いの拮抗を保つ
 つまり
 互いの対等性を保証する力」
として
「産出的構想力の
 図式的直観」

機能しなければならない。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

簡単に言い換えると
(カントが提示した
 「理性が自分自身で越えられないアンチノミーの
  克服法
  としての
  超越論的観念論」
 は踏まえるとして
 それに加えて)

意志(意欲)
特に
激情(暴走した意欲)
に対する
「処方(対処法)」

(1)自分自身の激情に対する処置法

(2)他者の激情
   及び
   他者の激情に支配された行為
   に直面した時の
   処置法
について
熟達しておく必要がある
ということ。

誰でも
平穏な人生であること
願っていると思う。

けれども
自然災害や
不慮の事故や
突然の不治の病への罹患
などと共に
「突発的な激昂した人間への遭遇」
という事態に
出会(でくわ)す可能性が
誰にでもある。

そういう
「できれば避けたいけれども
 遭遇してしまった
 不可抗力」
に対して
如何に対処するのが
最善(賢者の判断)か。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

私の父
濱田耕助は
もともと小学校の教諭だったけれども
(最初は新大阪駅がまだ出来ていなかった頃の西中島あたりの小学校
 次に大阪市西淀川区の姫島小学校、
 最後に大阪市福島区の海老江西小学校に勤めていたけど)
西淀川区の汚染された空気を再生する為に
西淀川公害訴訟の原告団団長として和解までの
17年間の裁判を経験したが
その父が

「こちらを潰すことだけを目的にしている者を
 相手にしてはならない。

 相手にすべきは
 こちらを批判する者であっても
 論争が
 互いに高めあう結果を導く相手だ。

 潰す目的で攻撃してくる相手
 ではなく
 互いに高め合うことができる相手に
 人間関係は
 限るべきだ」

というような意味のことを
言っていた。

だから
「相手」を
「よく見て」
「相手」の
「本性(性格の必然性)」を
「洞察」して

その「本性」が
「悪性腫瘍(癌)のように
 正常細胞を破壊することだけしか
 目的として持つことのできない者」
である場合は
「この者と
 関係することは
 可能な限り
 避けるべき」
だということ。
(ただし
 「悪性腫瘍」のように
 「正常細胞を破壊することしかできない細胞」
 を
 「敵」としてのみ捉えて
 「これ」への対処を
 「排除」に限る
 という判断は
 未だ十全ではなく

 「敵」が
 「なぜ敵として機能しているのか」
 の意味を考え
 「それが敵であるのは
  受け手が敵を敵たらしめている
  からであって
  敵を敵として機能し得ない受け手の対応は
  全く存在しないのだろうか」
 ということを反省し
 「敵」が「味方」として機能しえる
 「受け手の対応法」を
 見出すのが
 十全で健全な判断である。)  

逆に
「批判者であっても
 関係することで
 互いの成長に繋がる相手」
である場合は
むしろ
積極的に関係して
互いが気づけていない「成長可能性」を
指摘しあって
「生産的な成果」を
産出すべきだ。

「紛争」は
(1)互いが譲らず平行線を辿る「泥沼の争い」である
   「不毛な消耗戦」

(2)互いの「成長可能性」を「指摘」し合って
   「互いが成長し合えた建設的な結果」を
   産出する
   「互いの成長を生むライバル戦」

区別できる。

(1)の「泥沼の争い(不毛な消耗戦)」は
   「骨折り損の草臥(くたびれ)儲け」であり
   最初から「君子危(あやう)きに近寄らず」で
   避けた方が良い。

しかし逆に
(2)の「互いの成長を生むライバル戦」と成りうる関係は
   避けるべきではなく
   その「戦い」を通じて
   「互いの成長」を「獲得」すべく
   「勇気を持って関係すべき」である。

この場合
「最も肝心なこと」

「互いのリスペクト」
である。

「ライバル関係」は
「互いにリスペクトし合っている関係」
でなければならず

相手を見縊(みくび)ったり
相手を嫌ったり恨んだり嫉妬したり
相手を下にみたり
とにかく
相手に対して
「悪い感情を抱いて関係する」

「泥沼の不毛な関係」

悪質化して
「生産的」で
「建設的」な
「関係」は
築(きず)けない。

========================================
最終更新
令和2(2020)年12月11日 午前1時00分 
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年12月>
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

最近の日記

もっと見る