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2020年01月19日20:56

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ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動 説明 2002 勁草書房 ディミトリ グタス, Dimitri Gutas, 山本 啓二

http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=5160461&id=598872

p.82
アリストテレスの自然学をアラビア思想に導入することになったのは、二元論と原子論的宇宙論の教義を論争の部隊に上がらせたことからであったように思われる。
p.83
原子論の相手は、それ以上に強力な武器を見つけることはできなかった。
p.88
マームーンの母親はペルシア人(おそらくマンスールに反抗したウスターズスィースの孫娘)であり、間違いなくこの事実は、ハールーン・アッ=ラシードが彼をホラーサーン総督に決める際に重要視された。しかし、マームーンがゾロアスター教的なサーサーン朝の帝国イデオロギーにまったく矛盾していないように見えるのは、マンスールによって初めてイスラーム帝国に適用されたそのイデオロギーが吹き込まれた教育のためであった。
p.117
アブド・アッラーフ版の夢が対象とした、専門家ではないが教養あるアラビア語読者にとってのアリストテレスは、すでに見たように、医学におけるガレノス、そして実用数学におけるヘルメス・トリスメギストスに似た、単に古代の知的、または哲学的な事柄におけるかなり立派な権威者を意味しただけであったのに対して、ヤフヤーにとってのアリストテレスは、ペリパトス学派とペリパトス学派哲学の伝統の創始者を意味していた。
p.133
カリフであるマンスールを治療するために765年にバグダードに呼ばれた医者ジュールジース・イブン・ジブリール・イブン・ブフティーシューウが、病院長をしていたティグリス川東のジュンディーサーブールというイランの都市から来たということだけは覚えておく必要がある。
p.147
28彼の行政上の経歴については、SourdelによるVizirat, pp.254-70と"Ibn al-Zayyat," EI III,974bを見よ。Al-Marzubani, Mu'gam as-su'ara', Cairo, 1960, p.365は、彼がペルシア出身であることを明確に述べているが、Fihrist(338.16-77)は、彼がおそらくマニ教徒(zindiq)であろうと報告している。
p.152
ネストリウス派は、マンスールにがブフティーシューウ家の最初の人物をバグダードに招く前に、既にジュンディーサーブールにおいて医学で頭角を現しており、まだそこには翻訳運動のようなものは何も起こってはいなかったのである。
p.168
75[訳注]著者からの私信に基づいて注釈を加える。概念化や説明が本質主義的な歴史理解に基づくということは、すなわち、歴史上の出来事が、社会的・政治的・経済的・個人的な状況ではなく、ギリシア人の「精神」(善いもの)とかアラブ人の「気質」(「怠惰」、「非合理」を意味する悪いもの)のような、思い込みとしての民族の基本的特性に依存しているということである。
p.180
したがって、ミフナに対する彼らの抵抗は、本質的には、ミフナを押しつけてきた神学、すなわちムゥタズィラ派(哲学的神学という内容と、弁証法的討論という方法)に対するものであり、翻訳された学問や「異国の」学問に対するものではなかった。
p.186
その中にある2つの前提、すなわち、イスラームの「正統」とは正確には何であるのか、また、その中の「古い正統」とは何なのかということは、この論文自体には述べられていない。
p.192
 話を元に戻すと、モンゴル人が中東に侵略した時期に、アゼルバイジャンのマラーガに天文台が建設された。
p.213
バグダードを建設し、そこにイデオロギーが互いに中立になるような住民を住まわせることによって、マンスールは、政治的中枢からアラブ部族主義というウマイヤ朝に顕著だった特徴を排除した。


【今週はこれを読め! SF編】斬新なアイデアで展開される、決定論と自由意志をめぐる哲学的洞察
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=90&from=diary&id=5889049

 今年五月に原書刊行されたばかりのテッド・チャンの第二短編集。この早さでの邦訳は嬉しい。(12月4日発売)

 収録されているのは、2005年以降に発表された九篇。うち二篇が書き下ろしだ。

 ゼンマイ式全自動乳母による育児(見方を変えればスポイル)をめぐる「デイシー式全自動ナニー」もあれば、主による天地創造が事実とされる世界を舞台に天文学上の発見によって地球の特権性が揺らぐ神学SF「オムパロス」もあり、作品ごとにテイストはさまざまだが、一冊を通して読むと、チャンにとってもっとも重要なテーマが「決定論と自由意志」にあることがわかる。

 もっとも端的なかたちで示されているのは、最高権威の学術誌〈ネイチャー〉に発表されたショートショート「予期される未来」だ。信号を過去へ送る回路を搭載した予言機は、外見上はボタン一個と緑のLEDがついたゲーム機にすぎない。動作も単純だ。つまり、ボタンを押す一秒前にライトが光る。いや、操作者の感覚でいえば、ライトがついたら必ず----どんなことがあっても----一秒後にボタンを押してしまう。日常的な意味での自由意志に反する現象であり、さまざまな反応を呼び起こす。

 この作品では「自由意志は存在しない」という概念が、予言機なる具体的ガジェットとして体現される。しかし、テッド・チャンの洞察が優れているのは、自由意志を否定してみせる手つきにではなく、私たちがあまりに自明に捉えている「自由意志」そのものを根本から問い直す姿勢にある。

 この短篇集の掉尾を飾る書き下ろし作品「不安は自由のめまい」では、「予期される未来」から一歩も二歩も精緻化したテーマ展開がされる。物語の中核をなすガジェットは「プリズム」と呼ばれる歴史線分岐/通信装置だ。赤と青のLEDがついており、起動すると装置内で量子的サイコロが振られ、現実がふたつに分岐する。赤のランプがついた世界と、青のランプがついた世界。それ以降、両世界はプリズムを介して情報のやりとりができる。

 ポイントは、もともと多世界があるのではなく、プリズムの起動によって分岐することだ。つまり、プリズムの数だけ分岐が起こり、分岐した現実はそのプリズムによってしか媒介されない。プリズムには容量的限界があり、それが尽きると分岐世界間の通信は不能となる。ひとびとはプリズムをいかに用い、そこからどのような価値・願望・葛藤・依存が生まれるか? プリズムのアイデアを自由意志の問題へフォーカスすれば、自分がおこなう決断は唯一無二のものではなくなる。分岐した別の現実には、違う決断をした自分が生きているのだ。

 まったく別な設定で自由意志のありようにアプローチするのが、表題作「息吹」だ。アルゴンの気圧勾配によって駆動する小宇宙の物語で、人間はいっさい登場しない。語り手は金属製の身体をした研究者「わたし」である。わたしは自分たちの意識と記憶の機序に強い関心を持ち、自作のマニュピュレータで自分の頭蓋を解剖する。一般的な仮説によれば、記憶は脳内の薄箔に刻みこまれ、時間経過によって箔の配置が乱れて忘却が起こる。しかし、わたしはその仮説が間違っていることを発見した。記憶はスタティックに固定化されているのではなく、ダイナミックなパターンとして絶え間なく揺らいでいる。この発見の情景が感動的だ。まったく自律したメカニズムであるにもかかわらず、人間の意識のありかたにも通じる。

 ただし、それは物語のひとつの局面にすぎない。脳内の微細な機序についての知見が、やがて小宇宙全体を待ちうける運命という大きなヴィジョンへつながっていく。結末で敷衍されるのは、生命と知性の本質についての思惟だ。

 意識が神秘的なものではなく電気的化学的に構成されるものであり、物理宇宙のおけるすべての現象と同様に因果の連鎖で定まる(決定論)としても、なお、知性は「自分がおこなう決断」(自由意志)を放棄しえない。

 知的昂奮や情緒的感動のみならず哲学の領域へと読者を導くSF。テッド・チャンは、スタニスワフ・レムに肩を並べる強度に達している。

(牧眞司)


『息吹』
著者:テッド・チャン
出版社:早川書房


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