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2015年05月13日07:07

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構成 アクサイチン戦記 2/

歌声 ♪沖の小島で見張りの神よ カモメが騒ぐ
 静かな内海(うつみ)をたゆとう木の葉 嗤いもしない
 咽喉に鉛をぶち込まれて 歌えない巫女は
 もぐりの小舟に身を横たえて 冷たく廻る





と、そこは満州、曽根たちのアジト。五燭の暗い電球の明かり。

ハイホァ 戦局はどうしても三つ巴にならざるを得ないわ。戦力で劣る私たちにはとりわけきちんとした作戦が必要ね。第一、これが信用できるチームなのかも、まだ分からないわけだし。
ムスタファ うん。では今一度現況の確認をしよう。呑気なようだが、こう呑気にしていられるのも満州圏にいるうちだけだからな。
ハイホァ 今のところ目立った戦闘は起きてはいないようね。去年あたりまでみたいな、一気に中共政府が崩壊して、アメリカが国軍に乗り換えるっていうシナリオは一応、消えたと思っていいのかしら。
ムスタファ うーん、それはまだ微妙だろう。国共両軍の力はあぶないところで拮抗しているというところだろうな。いずれにしろこの長春は情報収集にはうってつけの町だ。レポはほぼ毎日届いてる、すぐと戦端が開かれることはないと思うね。
ハイホァ でも時間の問題でしょう。海岸地方はすべて中共が押さえてるわけだから、内陸の勢力はどうしても補給線を確保しなければならないわ。それに国軍は多民族軍とはいえ所詮は漢族の軍隊ではっきりとした敵を想定しなければ統制を保つことすらできはしないけれど、そうすればするほど地方の民族部隊は離反思想の温床になっていく。現に新疆のトルコ側とはちっともうまくやれてないみたいじゃない。馬倒懸の外交技術で何とか敵同士にはならないでいるとはいえ。
ムスタファ ハイホァ、君ら甘粛方面部隊の働きには感謝している。
ハイホァ (厳しく)そんなことはいいんだ。私の出身は銀川だけど、回族の軍閥とは犬猿の仲だからね。いずれ故国を失った者でなけりゃあ、この戦争は戦えないよ。滅びかけた満州族の末裔としては、溥儀の住んだこの町にいるのは実に喜劇的ね。
ムスタファ …済まなかった。
ベニート 俺は昨日着いたばっかりでよくは分からねえが、何しろはっきりしてるのはここが中共勢力の限界だってことだろ? 旅順いらい随分ものものしい警備だったが、この町じゃあ酒場で国軍の噂をしても平気なようだな、それもいい方の噂をよ。
曽根 そうだ。丁度、義和団前夜の上海といったところかな。何でもありさ。満州なんぞに縁もゆかりもない上に、これからだって地元農民のためになんかなろうともしない俺たちの侵入を許してるんだからな。
ベニート 何だおめえ、日本人、喧嘩売ってるのか?
ムスタファ (割って入り)この男のペシミズムは持病のリューマチみたいなもんだ、気にしないでくれ。曽根よ、そう卑下したものでもないさ。北京の橋頭堡が崩れれば、ここからカザフまではわずかに一週間で行き来できる。乾隆帝以来の交易圏の復活というわけだ。
曽根 SL王国中国万歳ってとこですね。
ベニート 一週間! それで近いっていうんだからアジアの広さにぁ恐れいるね。まあいいさ、さあ、どうやって潜りこむ? ここから先は無法地帯だろ。
ムスタファ うむ。いちおう調べてはみたがやはり北京経由では何人(なんぴと)もティベット入りはできないようだ。広東から上陸しなかったのは正解だよ。そこで、ここはハイホァの土地勘を信用するのが最善だと思う。ハイホァ。
ハイホァ ハイ、説明するわ。最終的に目指すのは約三〇〇〇キロ西によこたわる無人の高原なわけだけど、まず私たちはハルビンまで北上し、東清鉄道のどこかで下車をして、大興安嶺を越えてモンゴル領に抜けることにする。
ベニート 待てよ、北か? 方向が逆じゃねえか。国軍の方へ行かなくて大丈夫なのかい?
ハイホァ 私から見ればあなたたちの偽装はまだまだね。ベニートはもちろん曽根、あなたのみぶりだってまだ到底中国人には見えない。外国人がいてもそう不思議じゃないこっち側の勢力圏に敢えてしばらく踏みとどまるから、その間にものごしから徹底してもらいたいの。了解?
ベニート …明白了(ミンバイラー)。
曽根 その後は?
ハイホァ チョイバルサンからサインシャンド、ハンボグドとゴビ砂漠を大回りしたあと、越えられそうなところからまた南下して国軍の実勢圏に下るわ。おそらく寧夏地方のどこかになるわね。省都蘭州までは黄河に沿ってのぼり、そこからたぶん自動車を調達して真西に向かうことになると思う。
曽根 なるほど、事態に静観を決めこんでいるモンゴルを通るのが何より安全てわけか。
ハイホァ ゴルムドから先、どこかで車を捨てて、冬のティベット高原を歩くことになるはずよ。それまではできるだけ体力を温存していきたいから。
ベニート なるほどな。だがひとつ分からねえことがある。これから少なくともふたつの国境を越えるし、臨検だって何度あるか分からねえだろ。いったい何の名目で通行許可を取ろうてんだい?
曽根 それは俺が説明しよう。(新聞を出し)英語、読めるかい?
ベニート 馬鹿にしてんのか?――ちょっとはな。(読んで)何だ、これ。ロンギスクアマ?
曽根 最近、キルギスで見つかった爬虫類の化石だ。背中に九枚の、何ていうんだろう膜みたいなものがあって、それでこう、空に浮いたらしいんだ。
ベニート 動物が空に? ふん、それで。
曽根 アジアには淡水性の巻き貝がいて、俺たちの方じゃタニシとかカワニナとか呼ぶが、こいつらの原産地はどうもインドだ。
ベニート 何の話だよ。
曽根 ご存じの通りもともとインドは大きな島で、五〇〇〇万年くらい前にアジアにぶつかってこれから行くティベットやヒマラヤが隆起したわけだが、インド原産なはずのそいつらの化石が、陸続きになる前の中国や日本で出てるんだ。どうやって渡ってきたと思う?
ベニート 見えねえな、話が。
曽根 こいつは長年の謎だったんだが、もしかしてその爬虫類が、空を経由してふたつの陸地を行き来したとしたら?
ムスタファ 小さな貝類だ、そいつの体にくっついて、インドから渡ってきたかも知れないと、こういうわけか。
曽根 そうです、ムスタファ。
ベニート それがどうしたんだ。俺はあんまり敬虔な方じゃねえが、空に浮く話は気分悪いぜ、天罰が下らあ。生めよ、殖えよ、地に満ちよ、そうはいったが神さんは、人間に空はくれなかったぜ。
曽根 化石の調査に行く。
ベニート な、なに?
曽根 目的地は旧ワディスタン、ポトワール盆地。俺たちはヒマラヤを越えてティベットの生物相を調べに行く、合同調査団なんだ。――

間。ベニート、やがてククク…と笑いだす。

ベニート こいつぁ傑作だ。いったい俺が大学の教授に見えるかい? 小学校しか出てないんだぜ。漢字なんかおめえ、七を書く時にまず十を書いてから右へ行くのか左へ行くのか、今でも分からねえんだぜ。――気に入った。おい、日本人。あらためてよろしく頼むぜ。俺はカタルニアのベニート、ベニート・モンセラートだ。
曽根 曽根だ。Encantat de conèixer-lo――。
ベニート ほほ、分かるのか! ところでおめえ、軍人らしくねえな? 本当に調査に行くみたいだぜ。
曽根 ある意味では本当に調査に行くのさ。ウラン鉱の正確な位置はインドだけが握ってる。俺たちの進軍はいわば測量隊みたいなもんだ。
ムスタファ そうだ、場合によっては本当に武器を携行せずに、高地に上がることになるかも知れん。ジャマヒリアの本隊と連絡はやがて取れなくなるが、相当の裁量権が俺たちにはある。やれることをやろう、中央アジアの聖地のために。
三人 聖地のために!

四人、手を取りあい、そのまま静止…。と、高みに、イスラム風に正装した恰幅のいい男の姿がモノクロで映写される。ニュース映画だ。やがて映像に重なって、まったく同じ姿の男が立つ。マイクロフォンのノイズ。ファンファーレ。歓声。

フン=ジン ワディスタン共和国一億の人民よ! 本日、神聖なるヒジュラ暦一四一八年のラマダーン第十二日は、我々にとって忘れがたい日付となるだろう! 我々はヒロシマ・ナガサキの二の舞になるわけにはいかない。我が国はこれまで国民生活の向上を国政の第一義として、隣国インドの挑発的な超大国主義に踊らされないよう努力を重ねてきた。ところがこのたびインドは何をしたか。世界中からの警告を無視して核実験を強行し、あろうことか我がワディスタンに航空魚雷の矛先を向けたのだ。これは南アジア地域の軍事バランスを根本から揺るがせる愚挙ではないか。国連は早い時点で速やかにインドを厳しく罰するべきだったが、無能なことに、実際にはほとんど何もしなかった。我々としては防衛のため、やむなく対抗措置としての核実験を行わざるを得なかったのだ。核が恐ろしいものであることは充分承知しているし、潜水艦攻撃で壊滅したふたつの都市をもつ被爆国ニッポンの国民感情も理解できる。また米国による仲介の努力にも感謝を惜しまない。だが既にギルギットとクエッタに照準を合わせた砲弾に悪魔の核弾頭が搭載された今となってはもはや情勢は緊迫しており、我々は自分の力でみずからを守る以外に方法がないのだ。不安なのだ。過去三次にわたる対インド戦を経験した我が国は決してこれ以上の紛争を望むものではないが、災害に対する場合よりもはるかに高い危機感をもって戦災に備えざるを得ないであろう。願わくば友邦中国をはじめとする列強諸国がインドに対して軍事的な圧力をかけるのではなく、穏健な話し合いの場において彼らを懐柔してくれんことを。なぜならワディスタンの軍事力はインドの攻撃を充分撃破防衛しうるものではあっても、彼奴(きゃつ)らを制圧し完全なる勝利を得るほどに強力とはいえないからだ。もっとも理解できないのはインドが恥知らずにも表明している包括的核実験禁止条約への参加について、加盟国側がこれをまともに検討しようとしていることだ。我々の核実験は我が政府自身にとっても手痛いイレギュラーだったのであり、この地域の軍事バランスが安定するならばすぐにでも核を放棄するのが理想なことは明らかなのであり、またその準備もできており、従って当然ながら核保有国としての国際的承認などを求めはしない。このままインドだけが核保有国として認知されてしまうことが来たるべき次世紀の世界をどれだけ脅かすことになるか、国際社会は想像力を働かせるべきである。ワディスタンに対する米国の経済制裁はインドに対するそれの出足が極めて鈍かったのに較べて実に速やかに実行に移されている。これは到底承伏できない不公平ではあるが、ホワイトハウスは共和党に両耳をもがれてしまったらしく聞く耳を持たない。人々よ、全て民草はアッラーのもとに平等である、全国民が生活水準を下げてでもこの困難に耐えねばならぬ。私もまた総理大臣フン=ジンである以前にラダックのいち貧農の小せがれであり、ナンと水と塩だけで誇りを失うことなく耐えてゆくであろう。まず私が首相官邸を出、質素な生活に甘んじることとしよう。そこで、おお、国民よ! 人間としてのプライドと、最低限の生命の安全のために、共に闘い抜こうではないか! これはもはや対インド戦ではない、我々自身の生存のための戦いなのだ!
群衆の声 ジン、ジン、ジン! ジン、ジン、ジン!…

スクリーン、めらめらと燃え落ちる。





そして花道。砲弾の飛来音、続いて近くで着弾、爆発。雪をごっそり被って曽根の一党、逃げてくる。

ベニート ウヒョー、やってくれるぜ、馬賊ども!
ムスタファ みんな無事かっ?
ハイホァ 迫撃砲のお出迎えね、目が覚めたわ!
ムスタファ 姿勢を低くして走れ、この雪だ、逃げ切れる。
曽根 車はスクラップだ、これからは歩くことになるぞ。
ベニート 構うもんか、遅かれ早かれだ。Fuig! Fuig! Fuig!――
ハイホァ 走(ゾー)! 走(ゾー)! 走(ゾー)! 走(ゾー)! 追ってくるよ!

あっという間に四人、駆け去る。





と、遠く断続的な、機銃の掃射音。大雪。花道を幻のように、曽根と一党が逃げてくる。里程標が雪に埋もれている。

ハイホァ ベニート! しっかり! 走れないんなら置いてくよ!
ベニート (肩を支えられて)大丈夫だ、だから大声出すな。傷に響かあ。
ムスタファ クソッ、鉄隆灘(ティエロンタン)なんて町ぁどこにあるんだ? 軍閥政府の地図も当てにはならねえな! 
曽根 ムスタファ、これ以上戻るのは危険でしょう、昨日の宿はもう張り込まれてるに違いない。
ハイホァ だって、じゃ、どうするの。
曽根 仕方ない…街道を外れ、荒地をまっすぐ東へゆこう。
ハイホァ 東? 戻るの? それにすぐ、崑崙の屋根じゃない!
曽根 だから越えるんだっ。見ろ、ここは丁度幹線の分岐点だ。奴らもよりによってここから平原に下りたとは思うまい。馬賊どもの裏をかいて少しでも進もう。
ムスタファ 成るほどな。危なっかしいアイディアのようだが、案外イケるかも知れないぞ。うまくすればアクサイチン湖のあたりでウイグルの別隊と落ちあえるかもな。
ベニート しかし、この雪の中をか?
ムスタファ 情けない声を出すなよ、カタルニア解放の闘士だろ? どうせ挟み撃ちにするには一方が迂回しなきゃならねえんだ。
ベニート 俺はごめんだぜ。(ハイホァを突き放し)分からねえのか? 冬なんだ、マイナス三十五度で、貧弱な装備、しかもこの大雪だぜ! 山に入るってか? 誰一人たどり着けやしねえぞ、狼の餌になるのが関の山さ!
曽根 どうせ一か八かだ。
ベニート そっ、そんなのは作戦じゃねえ、ただの自殺じゃねえか、認められるかっ。(よろけて里程標に突きあたると、バサリと雪が落ちて字が出る)う、こりゃあ何の標識だ…。
ハイホァ あああ、これは…!
ベニート 見ろッ、こ、ここが鉄隆灘(ティエロンタン)だ! 町なんかじゃねえ、ただの立て札がここの地名だったのさ!
ハイホァ 何てこと…中央がこれしきのこと、知らないはずないのに――。
ベニート なあ、どうやったって無理だ。標高五千メートル近いんだぜ? 暴走した野ネズミじゃねえんだ俺たちゃあ、生き抜かなけりゃあならねえだろうが!
ムスタファ 生き抜くためさ。
ベニート (息を呑み)ムスタファ…。
ムスタファ 簡単な引き算だ。前にも後ろにも進めはしないし、見つかった以上すでに追っ手は掛かってるとみた方がいい。――決を採ろう。曽根。
曽根 どうせ、死ににきたようなもんさ…。
ムスタファ (厳しく)その意見には烈しく反対するが、当面の生きのびる意志と受け取っておこう。同志陳海花(チン・ハイホァ)、君は。
ハイホァ ジャマヒリア建国のことがなくても――、
ムスタファ うん?
ハイホァ 馬(マー)軍閥は生涯の敵よ。もうすぐ満族はこの世から消えるけど、生きてる限り、奴らは許せない。
曽根 何があったんだ。
ハイホァ …回族全体に恨みはないわ。でも寧夏のゲットーで亡くなった親類や…、ええい、今は急ぐのよ。ひとりでも行くからね。
ムスタファ ベニート・モンセラート。君はどうだい。
ベニート ――Á bout de souffle…。
ムスタファ うん?
ベニート 引き算なら俺にもできらあ。勝手にしやがれ、着いてくぜ。
ムスタファ 決まりだな。下は雪だまりになってる、気をつけろ。よし俺から行こう。(花道を下りる)
ハイホァ さ、ベニート。肩を。
ベニート おう。おい曽根っ、何してる。いいだしっぺが、早く来いっ。
曽根 (ひとり)レミングか…。
三人 はん?
ベニート 急げよ、日本人! てめえ後でおごらせるからな、覚えとけ!
曽根 フフフ、いま行くとも!(下りる)

四人、素早く消えてゆく――。





声 アクサイチンは中華人民共和国、インド及びパキスタンの国境が交差するカシミール地域の約3万平方キロメートルの地域で、中国により実効支配されている地域の名称。インドが領有権を主張している国境係争地域であり、インド側の呼称はラダックである。
アクサイチンはチベット高原北西部に位置し、ホータンの南部崑崙山脈とカラコルム山脈に挟まれた盆地である。南東部には多くの阿克賽欽湖、薩利吉勒湖、騰格湖などの塩水湖が分布し、北西部には喀拉喀什河が流れタリム盆地に流れている。盆地の海抜は4,000メートルを超え、山岳部は6,000メートルを超える高山地帯である。気候も高山性気候となっており康西瓦では年間平均気温は摂氏-0.6度、夏季で当たる7月でも9.8℃と、年間を通して降霜日は355日となっている。また南西からの季節風がヒマラヤ山脈により遮られているため降水量は100ミリメートル未満ときわめて少ない。
地下資源に関しても近年調査が進み、良質な雲母や各種レアメタルの埋蔵が確認されている。
1962年の中印国境紛争以降、中華人民共和国の実効支配下に置かれ、その大部分は新疆ウイグル自治区ホータン地区、南部の一部地域はチベット自治区ガリ地区の管轄である。インド政府は現在もアクサイチンに対する主権を主張しており、アルナーチャル・プラデーシュ州と共に両国間の政治的対立の要因になる可能性を秘めている。
古来より新疆とインド、またタリム盆地と西域を結ぶ交通路とされ、ウイグル族のメッカ巡礼でも多用された古来からの交通の要衝である。1960年代、中国政府はアクサイチン盆地を横断する新疆とチベットを連絡する新蔵公路を建設している。この際、インド政府はアクサイチンは荒地であるという認識から工事の事実を把握せず抗議活動を行っていない。





と、機銃掃射、烈しく。倒れるハイホァを支えて曽根、逃れてくる――。

曽根 ハイホァーッ! 気を抜くな、まだくたばる時じゃないっ。
ハイホァ …う…う…聖地へ…聖地へ…。
曽根 何もなかった――。アクサイチンには誰もいなかった。ただの凍った湖だった。ウラン鉱はどこにある…? これがジャマヒリアの答えか。異教徒は捨て駒か、何てこった! 海花(ハイホァ)、もう追っ手は来ない、逃げ切ったぞ!
ハイホァ 曽根…。死ぬ時くらい、晴れてればいいのにね…。(死ぬ)
曽根 ハイホァ?――ちっくしょうーっ!

ハイホァを抱く。やがて…、

曽根 草ひとつない高原に、海という名の娘がいた――。(風、止む。呆然と)そうか、ここは第四海堡だ…。そして今は昭和二〇年九月、敗戦の硝煙いまだくすぶり止まぬみじめな日本の爛れた夏だ。俺の右腕に血がたぎる。それは俺じゃなく俺の先祖の祈りのせいだ。ああ、寒かろう、腹も減ったろう、それが芸だ、と教えてくれた先生の髭面が一月の凍てついた街道に消えていった。失われたパンソリの演題ならば三〇数編もあったろうか、永崗(ヨンガン)のイシミは本当は七つの物語に登場する破天荒なおろちだったのだ。俺の腕をあやつる血潮よ、玄能はあやまたずたがねと岩とを捕らえるが、いかなる真言を俺は掘り続けたのだかいっかな思い出せないのだ。肉体は夢を離れ、浮遊する。浦賀水道の干満に浮かび流れる一滴の油のごとく、黄色く俺は、分離してゆく。いつか薄く薄く展がって海を笑わせるかすかなシグナルになるのが俺の望みでもあり、運命だ。ああ真言よ、オン・マニ・ペメ・フム、六字を顕す文字がない。長山鼻(ちゃんさんこ)には文字がない。呪符を打ち込むにはアジアの大陸は邪魔すぎる。ダルマは風のごときもの、文字に固定できようはずもないのに…。構わぬ、血の命ずるままに、文様でもよい、俺は彫る。祈りと怒りと透きとおる笑いとを…!(風、戻る)くそ、まだ死なないぞ。稲さーんっ!









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