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2023年07月19日05:18

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ドイツ鉄道01型ファミリー

何処の国でもそうなんだが、自国のものは自慢したい。蒸気機関車とて同様で、自国の機関車に対して批判的な事を言う人はまぁ居ない。ましてや批判的な著述は稀だと思う。日本ではほぼ唯一齋藤晃さんが世界的な視野で日本の機関車に対する批判を試みている。ただし、彼は日本の機関車をこよなく愛している事も明言しているので、愛情は主観的、批判は客感的と振り分けている。彼と色々話して明らかになった事は、モノを作った人間、そして組織を理解しなければモノを批判・評論する事は出来ないという事だ。機関車の場合は更に鉄道という枠組みの中で、まず線路ありき、線路次第で機関車の設計も変わらざるを得ないという事実を確認しておく必要がある。

という大袈裟な序論を踏まえて、ドイツの著名な機関車である01型ファミリーについて考えてみたい。

ドイツでも代表的な急客機である01型を批判する人は稀である。蒸気機関車の専門家の間でも正面切って01型を批判する人はいない。唯一といえるのが、戦後西ドイツ鉄道で機関車試験局のトップを務めたテオドール・デューリング。彼は自身の著作、Die deutschen Schnellzuglokomotiven der Einheitsbauart-Die Baureihe 01 bis 04 der Typenreihe 1925(ドイツ帝国鉄道制式機01から04)、の中で当時機関車課長だったワグナー主導で設計製造された急客機の設計上の間違いを明確に指摘している。そのせいでデユーリングはドイツの機関車ファンの間では逆に批判的に取り扱われているというのが皮肉ではある。これは日本で島安次郎・秀雄親子に対して批判する事が許されないような状況と良く似ている。

閑話休題、、01型という機関車、登場した1925年という時期を考えると悪い機関車とは言えない。飛び抜けて素晴らしい機関車とも言えないが、少なくとも第一次生産分はそれなりに良く纏まった設計と言えるだろう。勿論、5800mmという煙管長は既に相当長いんだが、1930年の第三次生産分から煙管長は6800mmに延長され、改良ではなく改悪でとなった。もともと動輪間軸距が長めで、必要以上に全長が長いとも言えるが、プロポーションは悪くない。急客機としての一種の威厳を備えているとも言えそう。煙管を延長せずに燃焼室を設ければ性能は向上したはずだが、ワグナーはこれを頑に拒否し続けた。

プロイセン出身のワグナーは出来るだけ単純な構造を重視して、複雑な機構を排除しようとした。設計が始まった時点では、南ドイツでだけでなくプロイセンでも4気筒複式の急客機が使われていたが、ワグナーは個人的にこれを嫌悪していて、鉄道省の提案した2気筒単式機と4気筒複式機を同一仕様で設計製造して性能比較するという事にも様々な難癖をつけて、4気筒複式機が優位性を発揮出来ないような条件下で設計させ、2気筒単式機の量産化を取りつけた。この辺り、非常にセコいというか人間臭い確執が繰り広げられ、4気筒複式派は相当徹底的に叩かれた。ワグナーは1920年から40年辺りまでドイツ蒸気機関車設計界に君臨し続け、ドイツの機関車設計は段々他国に遅れて行く。

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01の概要図。ブレーキが軸中心に付いていたりして何となく全体に長い感じがする。これは5800ミリという長い煙管長を納めるためだったのかもしれない。
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この図面を見ると、スペースがまだ空いているように見えるんだが、実は後期型で採用される6800ミリというやたら長い煙管を納める事が前もって計画されていたのかもしれない。極めて長い煙管は抵抗が増えるとか、走行の振動で撓んだり熱膨張で端末の結合部にひびが入ったりする。蒸気機関としての熱効率も良くならないし、蒸気発生能力の向上にも寄与しない。といった良いとこ無しの設計を、ドイツ鉄道はワグナーの主張によって20年近く続ける事になる。ニューヨークセントラル鉄道の設計主任だったキーファーは、これを偉大なる失敗と評した。
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01型は一次から四次型まで製造され、3次型からデフが大きくなったり様々な変更が実施された。

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これは01型模型の設計図面なので、実物とは結構違う(車輪のクリアランスのためにフレームの形を変えてある、とか)。

一次型の模型はドイツの模型メーカーだったミクロ・メタキット製。精密な模型だが走らせるというよりは飾るための設計。オーナーで設計者だったラウヘンエッカーさんはシンガポールに住んで設計作業をして、韓国で製造させていた。残念ながら亡くなってしまった。
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緑と赤の塗装は一次型10両で「こうだったのでは」という想像。確たる資料は存在しない。一次型のテンダーは、当時まだ各地のターンテーブル規格が小さかったため短い。

3次型の模型はスイス、メトロポリタン社が日本で作らせたもの。メーカーはNakayamaということになっているが、銀座にあったナカヤマ模型が請負ったのかどうか、、当時日本の模型メーカーは米国型メインで、前金じゃないと製造を請負わないとか色々あったらしい。欧州型は既にスイスのフルグレックス社が入り込んでいて。メトロポリタンは製造を請負ってくれるメーカーを探すのが大変だったろうと思う。後に、アメリカの新しいインポーターが日本のメーカーに相手にしてもらえず、韓国のメーカーに走った、という話もある。韓国メーカーの台頭は円が高騰したせいだけではないようだ。
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この模型はロッド類を総て新たにスケールに近く作り直してある。

01型は軸重20トンで設計されているが、幹線の20トン対応作業が進まず(ドイツは第一次大戦後、不況に苦しんでいるだけでなく、ドイツ銀行やドイツ鉄道の債権をアメリカに握られており、自由な出資は不可能だった)、やむなく最初の標準機関車計画には存在しなかった軸重18トンの急客機を製造せざるを得なくなった。これが03型。設計はほとんど01型に準じており、主にボイラを細くして重量を制限した。これもまたワグナーの設計がもろに出ている。長煙管ボイラの機関車で01設計から約10年経ったが何の改善も見られなかったということになる。
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模型はフライシュマンのプラ。フライシュマンの最盛期の設計で、プラ製品としては大変出来が良い。こういったプラ製品は金型の製造に非常に金がかかるので、毎年新製品を幾つも出すのは難しいんだが、そのせいでフライシュマンもロコも倒産してしまった。今あるロコ社はまぁ別会社と考えるべき。フライシュマンはロコ社内のNゲージブランドとしてのみ残存している。そういえばメルクリンも倒産して別途の資本を得て再建された。

30年代も後半になると欧州ではスピード競争が繰り広げられる。ナチドイツとしては負ける訳にはいかない。しかも国内では1933年からディーゼルカーであるフリーゲンダー・ハンブルガーがベルリン・ハンブルク間を最高時速160kmhで往復しており、蒸気機関車はこれに対抗せざるを得ない状況になっていた。しかもフランスでは天才的なエンジニアであるアンドレ・シャペロンが燃焼・排気の革命的な改善を実現しており、ドイツとしては技術界をリードするというより遅れを取り戻すのに躍起、という状況に陥っていた。

にもかかわらず、ドイツが出した解答は相変わらずのワグナー的長煙管ボイラーを備えた3気筒単式の機関車だった。それでも当時流行の流線型カバーを付けた1935年製造の05型2C2機関車で世界記録となる200kmh越を出している。

これをもとに、550トンの列車を平地で120kmhで牽引する事の出来る機関車として01.10型が1939/40年に製造された。これもまた01型を3気筒化しただけのような機関車で、新たな技術はほとんど投入されなかった。流線型なので形態的には大きく異なるが、内容は6800ミリの長煙管ボイラ他、1920年代前半の01と変わるところはなかった。
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戦争が激化して急行列車は廃止され、急客機の出番も激減し、終戦を迎える事になる。01.10型は終戦間際にソヴィエトの進攻らら逃れるため、全機ドイツの西方へ移動させられた。

戦後急行列車が復活すると急客機の需要も増加し、01型は引き続き第一線で活躍する事になる。東西ドイツに分散された01型は各々戦前滋養のまま、または改造を施されてバリエーションを生み出す。

西ドイツで戦前の仕様で使い続けられた01型はデフが所謂門デフに交換された。
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東ドイツで戦前の仕様のまま運用された01型はデフがそのままだったり、切り詰められたりだった。
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西ドイツでは01型に新たなボイラを載せ性能向上も目指した。この新たなボイラは煙管長5000ミリ(健全な長さ!)で、燃焼室付き。これでワグナー型のボイラの大きな欠点が取り除かれた。性能は10%程度の向上だった(はず)。形態は少しモダンになった。
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この写真はDB01の1番ゲージの模型。
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西ドイツでは01.10型も近代化改造が施された。当然流線型カバーは全廃され、01型同様の新たな燃焼室付きボイラが搭載された。重油専燃機も33両製造され、1969年以降、石炭炊きは011、オイル炊きは012型となった。
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ドイツの標準機での見所の一つは動輪。スポークの造形や補強の水かきは非常に繊細で谷類を見ない。日本だとC55型の水かきが相当するが、設計の妙という点で一歩も二歩も劣る。
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模型はスイス、レマコ社が日本の水野マイクロキャストに作らせたもの。非常にキッチリとした優れた模型だと思う。
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対して東ドイツは、01型の高性能化改造で3気筒の01.10よりも高性能な機関車を設計。これは01.5型と呼ばれ、煙管長5500ミリに燃焼室が付く。01ファミリーの中で最もパワフルな機関車となった。これもまた石炭炊きとオイル炊きがある。
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形態的にはチェコやソヴィエトの機関車の影響が見て取れる(チェコは戦前から高性能な蒸気機関車を設計製造していた)。クセのある造形だが、迫力満点。
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模型はレマコ社が韓国サムホンサ社に製造させたものでボックス動輪バージョン。
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他にロコ社からもプラ製モデルが出ていた。これもまた各種バージョンがあった。
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ドイツの機関車は日本の設計者にとってベンチマークだった事は疑いない。国鉄はドイツの設計を手本にしていた事も間違いない。が、設計者各人は米国寄りだったり英国寄りだったりしたはずだ。ただ、蒸気機関車の頂点を行ったのはフランス、シャペロンの設計で、これは国鉄にとっては逆立ちしても真似が出来ないものだった(勿論技術的な理由以外にも運転者の理解と技術や、工場からの簡便な保守性の要求など様々な理由があったが)。1930年代後半において、ドイツ的なシンプルな設計を旨とする機関車の結晶は急客機よりも貨物機・汎用機である50型や、その戦時型である52型等の方が優れていると言えるかもしれない。
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