学生の時から、社会人になり、ほんの昨年までファンであった、レミオロメン藤巻亮太氏。
だが、今年に入った頃からファンを卒業すべきだろうと考えた。
それは、ニューアルバムのインタビューにて、次のような発言があった事からも、その『決心』が、自分の中でついたからであった。無論、それだけではないが。
藤巻氏「これらの曲は、全てが自分を鼓舞するように、作ったのです。」
??
一瞬、文字通り意味が分からなかった。
え、自分を鼓舞?
「最高の人生を歩いていこうぜ」
「長い夜、高い壁、揺れる時代、サバイサバイ…」
「へこたれずに輝いて」
「この道どんな道」
「心が羽ばたけば、足取り更に軽く、歩き出せる」
「サンシャイン、いつまでも、僕たちは友達さ」
「親子とか夫婦とか友達とか」
「好きさ好きさ好きさ
好きさ、好きなのさ」
「心の闇を吐露する」ではなく、
「自分自身、それも『俺は間違えてないぜー!!』という、何の根拠もない自己肯定」ってか?
「どん底」から這い上がってきた時、「自分は間違ってなかった」という、絶対的な自信。
かたや、「とっくに卒業しなくてはならない」対象に対して、「盛り上げる」と言って、居場所を、「かつて有能ぶる」事ができた時間に固執する「状況限定」の自信。
盛り上がるものなんて、基本的に放っておいても、盛り上がるものだと、私は思っている。
卒業しなくてはならないのは、「楽しかった時間」である。それを存続させようとすると、つまり藤巻亮太氏に即して言えば「世間受けしたレミオロメン」を、終わりにすべきだろう。
スキマスイッチのように、2人の掛け合いで支持を得る、という手法に、舵を切るということが難しいのではないか、と思えた。ドラムの神宮司治氏はともかく、ベース前田氏は、音楽には戻らないだろう。藤巻亮太氏に劣等感を感じるのであれば、彼に限らず、別の分野で勝負するのはもっともであり、それが前田氏にとっては、オリーブの世界だったのだろう。
両者とも、主義主張が強く、かつては藤巻氏が前田氏と袂を分かち、ソロアルバムを出した。ファーストソロアルバムである。
そして、前田氏はというと、もはや自分が干渉できないレミオロメンには未練がなく、新しいフィールドに、活躍の場を移したように思えてならなかったのである。むしろ、未練がましいのは藤巻亮太氏のようだ。自分の責任を、と言えば酷な話だが、少なくとも今回のソロアルバムを聞いたとき、「あ、俺はこの人から、卒業しなきゃいけねーな」と思えたのである。
とはいえ、長い間「どはまり」したアーティストである。ただ、熱中したゲームの喜びを、今はそうじゃないけど、と慰めるのは、流石にそれは違ェだろ、と。しかも、リスナーに垂れ流すんじゃねえ。「あるあるネタ」と、「惨めな自分を、他者目線で肯定してくれ」っていうのは、根本的に違うのである。
そして、俺も卒業しなくてはならない。
「心の牢獄」から。
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