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2015年10月19日17:04

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031 生きてゐるヴォイツェク 1/

生きてゐるヴォイツェク
これは連作戯曲「風土と存在」第三十一番目の試みである





人 フランツ
  マリー
  鼓手長





1.沼

暗い木々を映す澱んだ水面。晩鐘。
小舟にふたりの男が乗って釣りをしている。

鼓手長 おや、何どきの鐘だろう。
フランツ (無言)
鼓手長 ちぇ、また切られた。

鈍い水音。

鼓手長 おい、食ってるじゃないか。ぼんやりするな。
フランツ あ、すいやせん…。
鼓手長 ニゴイだな。でかいぞ。無理するな。

切れる。

鼓手長 あ…、お前、引きすぎだろう。切れるに決まってるぜ。
フランツ (無言)
鼓手長 俺のを見ろよ、ケタもんだ。軍医先生のお気に入りにならあ。実験材料バルボー。(歌う)
In einem Bächlein helle,
Da schoß in froher Eil
Die launische Forelle
Vorüber wie ein Pfeil.
Ich stand an dem Gestade
Und sah in süßer Ruh
Des muntern Fischleins Bade
Im klaren Bächlein zu.
フランツ (ぼんやり続ける)むごしとわれはいきどおれど…
鼓手長 (凝視する。長い間)
フランツ (苛々して)ぜんたい今は何刻(なんどき)なんだ。まるで時間が止まってるみてえだ。鼓手長殿、見えますかね、あの岸の、あの毒きのこが次々生えるあたり、そらが真っ赤に燃えて天道が南に止まってさ、あのそらに棒(ボ)ッ杭さ突っ込んで、こン頸でも括りたくなりまさあ…、あの岸、鬼ふくべでさ、そら、どくろのぼだしが…転がってまさあ。
鼓手長 さっき鐘が鳴っていたな。
フランツ さむしいもんです。
鼓手長 うむ。北ドイツなぞ、来るものじゃねえ。体を毀すよ。
フランツ この陰気さは嫌いじゃねえんだが…なんしろ、プラーグ訛りが懐かしいや。
鼓手長 里心か。新米にゃ旅団は辛えやな。

間。

フランツ ねえ、鼓手長殿。
鼓手長 なんでえ。
フランツ お願えがあるんです。
鼓手長 なんでえ藪から棒に。
フランツ 堪忍(かに)して頂きたいんで。
鼓手長 堪忍って…まず…言ってみねえ。
フランツ 他でもねえ…、マリーのこってす。
鼓手長 マリーって、俺のイロのマリーのことか。
フランツ でがす。
鼓手長 …何のこってえ。
フランツ ええ。とうからぶちまけて話そうと思ってたんでがす。ライプツィヒに戻っちゃあまた時宜さぁスカしますんで…。お、鳥だ。(耳を澄ます)
鼓手長 話を待ってるんだぜ、フランツ。
フランツ 鼓手長殿。――いやさ、アンドレース。昔のよしみだ。遠慮はいらねえ、俺を嗤ってると言ってくれ。
鼓手長 何いってやがる。
フランツ 面目もねえんだが、許してくれろ。
鼓手長 うーむ。待てや。(葉巻を点ける。ふかす。すすめて)どうでえ一服。ハバナだぜ、ブレーメンの連隊から流れてきた。
フランツ いや察してくれ、俺は承知の通り実験体でさ、痰から小便まで軍医殿のもんで、尿素ゼロコンマ10、塩化アンモニウヌうんぬんかんぬん。酒も煙草も許されねえ。
鼓手長 ばれやしめえに、律儀な奴だな。
フランツ 契約だからな…。アンドレース、この年月の友達面も恥ずかしい。堪忍してくれ。人の口にもあけすけにのぼってる今ともなってのめのめ許せもすさまじい、そう思うおめえの気持ちは痛えほど分かる。分かるがな、アンドレース、分かるんだが…! 分かるんだが。どうだろうか、マリーをきれいに俺にくれ。
鼓手長 なに?
フランツ くれと言うんだ。俺の女房に。

間。

鼓手長 お前な。…でえいち、兵隊は女房を持てねえ。
フランツ え…。
鼓手長 え、じゃねえよ。だから夫婦(みょうと)にならなかったんだろ。俺だってもさ。俺たちゃあ、どんなに惚れても所帯は持てねえ。まずはそこを諦めろ。なあフランツ、俺たちぁ貧乏人だ。誰が好んで軍に来るもんけえ。貴様は床屋の鋏さ銃把に持ちかえた、そうするしきゃなかったんだろ。俺だって似たり寄ったりさ。芋のスープをすするために、ただそのために、家庭だの、洗礼だの、マリア様の御(み)姿だのよ、そういうもんは封じたのよ。皇帝陛下に誓ったろ。今さらどのつらで女房なんど言えるもんけえ。
フランツ 女房についちゃたしかにそうだ…、
鼓手長 でえにに! お前よう、そんな俺でもイロはあるんだぜ。それをどうして奪(と)ろうてんだ。ええ? いいかフランツ。よく聞けよ。どうしてお前ゃ、こんなことを、こう口に出すんだ。
フランツ どうしてって…、はっきりお前に談判して…、
鼓手長 ばかだな。そもそもマリーの気持ちを考えろ。おんなし境遇の俺とお前を引っ較べてそれで俺とくっつくんだからお前にはもう目はねえのだ。なりゆきずるずるで続いてるかも知れねえが、お前らにあるのはいいか、未練だけだろう。違うかよ。
フランツ そう思うのか。思うならなぜ黙ってた。なぜ俺には目はねえと、こう長い間言わずに黙ってた。俺は、終わったと思っちゃいねえぜ。
鼓手長 それをマリーに言ったかよ。
フランツ 言った。
鼓手長 それで。
フランツ …。
鼓手長 俺とお前で談判しろといったか?
フランツ …。
鼓手長 やつがどう言ったかは知らねえ。また、お前の未練を責めても仕方ねえとも思う。だがね、もうこりゃあのっぴきならねえぜ。フランツよ、誤解があっちゃあ困るが、俺はお前を立てたわけじゃねえんだぞ。はばかりながらこのアンドレース・ハイヒマン、名もねえ軍楽の棒振りだが、これがやりたくて歩いてる道だ、十六の歳からタクトを持った。そんな芸人の端くれとして、たかで旅団狂いのひとつやふたつ、寝取られたのどうのと騒げはしめえ。
フランツ なんだと。旅団狂いと言ったか。
鼓手長 なんでえ。
フランツ 旅団てお前、お前よう…、マリーの気持ちを、旅の兵隊との情事と言うかよ。おいアンドレース、お、俺とマリーは四年越しのつきあいなんだぜ、ガキまでできてよ、それを…。
鼓手長 ヴォイツェク、お前はいい奴だ。だが徳がたりねえな。ガキのことを言うなら俺だって言うぜ? お前にガキの面倒がみられるか。ええ? クリスチャンはお前を親父だと思ってるのか。思ってるのか。どうなんでえ。
フランツ 徳! 徳! そりゃガキの洗礼のことを言うのか? 俺は教会に通いつめたぜ。それでも洗礼はして下さらなかった。親の俺がこんなブショクの体たらくだから教会の方でせいぜい祝福してやっておくんなせえと、どうでえ、これ、まっとうな言い分だろ?
鼓手長 それをお前は気にしてる。ふむ。だが兵隊はそこを気にしちゃ生きていかれねえんだ。
フランツ なんでだい。同じ人間だろう。
鼓手長 同じじゃねえぜ。おいフランツよく聞きな。クリ坊は俺をちゃんと呼ぶぜ。
フランツ なに。
鼓手長 たしかに種(たね)はお前のだろう。だが責任は俺が取るんだ。お前にそれができるか。できるかの前にやるつもりがあるか。
フランツ ねえのはつもりじゃねえ、金だ。
鼓手長 ほほう。それをマリーに言えるのかよ。
フランツ 俺はマリーを愛してる。
鼓手長 分からねえ野郎だな。ならクリ坊ごとまるっと愛せよ。それができねえからお前はダメだってんだ。何のことはねえ、お前は買われたんだぜ。
フランツ 俺は惚れてもいねえ女に手を出すような真似はしねえ。愚痴も極道も惚れたればのことだ。手すさびの色ごとで太鼓打ち風情のイロに手なぞ出すけえ。
鼓手長 なにを。人の女を盗んでおいて、船中で引き抜きの大見得だな。どこの荒事だ、ふざけるな。
フランツ …。
鼓手長 盗人猛々しいとは手前のことだ。
フランツ 言葉が過ぎた。俺はどうかしてるんだ。どうか何もかも許して、あいつを俺にくれ。頼む。俺はどうしてもマリーを思い切れねえんだ。諦められる恋なら、こんな嫌な頼みはしねえ。
鼓手長 それはマリーと相談の上か。
フランツ …。
鼓手長 ああ、聞くんじゃなかったぜ。俺が道化かよ。
フランツ (慌てて)違う。きょうでえ。これは俺の一存だ。分かるだろう、マリーは優しくって気の弱い性分だ。俺とお前に挟まれて年中おどおど暮らしてるんだ。俺たちがどうぞうまくいきますようにって自分を後まわしに祈ってるような女だ。だからお前に頼むんだ。あいつはお前を振ってこっちへ来られるようなたちじゃねえ。俺だって引きむしってまで奪いたくはねえんだ。お前の気持ちを頼むしか、俺たちには仕様がねえんだ。ガキからのつきあいのお前に言いにくいことを頼むんだ。どうぞ押して、俺らふたりを地獄から救ってくれ。
鼓手長 で、代わりに俺に地獄に堕ちろってわけだ。勘定が合わねえな。(怒って)俺はいやだ。どうあってもな。いやなこった。あたりめえだろ。

間。

フランツ なぜいやなのだ。
鼓手長 俺の女だ!
フランツ …。
鼓手長 いやで一緒にいるんでねえぞ。
フランツ …。
鼓手長 お前の考えは分かってら。俺があいつの浮気に愛想を尽かしてるのは見え透いてるからここらで焚きつけていっそ放逐させちまえ、後釜にぁ腹のきれいなケーテでも入れてやれば御の字だとこうだろう? ケーテが言ってたぜ、近頃妙にフランツが俺を薦めるってな。筒抜けなんだよ気楽人が。いいか、お前が好くほどの女なら俺も好くんだ、ケーテで替わりになるもんけえ。男一匹、嘗めてもらっちゃ困らあ。
フランツ …。
鼓手長 気の毒な野郎だ。とうから詰んでるのに手前だけ気づかねえでやがる。マリーにかかずらってひょっと損の目を掴んでるかも知れねえ。出世の蔓もはずしてな。結句お前には何も残らねえんだぜ。
フランツ 構わねえ…。
鼓手長 ほう? そんなら遠慮はいらねえ、お前の男っぷりであの女をかっさらってみろ。男同士の小手先の手管であいつの気持ちが動くと思うか、あいつがお前を選ぶなら俺にはどうしようもねえじゃねえか、何故そうしないんだ。
フランツ 二枚目ぶりてえのは山々だが、本気で惚れたら生野暮一筋、手管でどうなるもんでもねえ。
鼓手長 そりゃあとんだお生憎だな、手前の魅力を頼まねえで女の気持ちが動くもんかよ。まずやるだけやってみるんだな、邪魔はしねえ。
フランツ それじゃ、どうあっても聞いてはくれんのだな。
鼓手長 間抜けが…、聞くも聞かぬも手前らの話だ。まず俺とマリーは鴛鴦(おしどり)だがな。
フランツ 離れ鴛鴦にしてやらあ…。
鼓手長 (まじまじと見て)お前の夢は無茶すぎる。月下美人を知ってるか。俺はブレーメンで一度見た。無理を求めて地獄に堕ちるな、ものは潮時が肝心だぜ。
フランツ 聞いた風な。俺たちゃどこまでも翔ってやるんだ。
鼓手長 いかれた物言いは実験のせいか?
フランツ うすら嗤っている暇、寝酒に一服盛られねえよう気をつけろ。
鼓手長 なんだと。(顔色を変え)それはどういう了見だ。
フランツ 手段は選ばねえってこった。
鼓手長 この野郎…。口が過ぎたな。
フランツ 過ぎたがどうした。叶わにゃいずれ死んだ身だ。
鼓手長 正真、死んだ身にしてやらあ!(銃把で殴る)
フランツ ぐあっ。

鼓手長、フランツを水に蹴り落とす。舟べりに這い上がろうとするをオールで殴る。

鼓手長 この世にゃ俺が控えてる。てえげえで諦めろ!
フランツ (血濡れで浮かんでくる)
鼓手長 まだ生きてやがるか。(銃剣で刺す)







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