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2015年06月24日11:16

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未稿 このしろ伝説 4/

 ――溯って三月十二日のこと。志村さんとともに息子を連れて、隣町の埼玉県庄和町字西宝珠花の宝珠花神社、もどって宮代町内字山崎の浅間神社、および同字東五社神社とみっつの「富士塚」を見にいった。江戸期に隆盛を極めた新宗教「富士講」は、簡単にいうと、富士山を神格化して崇敬の対象とし、お金を出しあって代表を富士に派遣してはお札をもらってきてもらう、というような組織活動をしたわけだが、代表以外の残された人たちにもある程度の登山の実感を共有させるため考えだされたチープでアクロバティックなモニュメント、それが関東各地に遺るミニチュア富士――「富士塚」――である。十メートル足らずのジオラマが江戸期の信仰を支えたのだ。東京とならんで埼玉は富士塚のもっとも濃厚な分布域だ。中でも庄和宝珠花神社境内に遺る塚は高さ九メートルと現存するすべての富士塚の中でも最大級という。すぐ近所なので軽い気持ちで出かけた。
 この塚については県立庄和高校地理歴史研究部の編んだ私家本に、面白く述べられている。なかなか雰囲気を伝えてくれるいい文章なので全文を引いておく。

十三番 浅間社
宝珠花神社は大王寺から北に行くと、すぐの所にある。札所十三番の浅間社は、今は天神社や香取社、出雲社とともに、明治四十年、合祀して宝珠花神社に変わっている。以前は、浅間神社の通りを浅間横町といい、商店が並んでいた。戦後の宝珠花移転でこの富士塚も移転したのだ。この通りの最後に北野神社(天神様)があったため、浅間横町はちょうど浅間様と天神様に挟まれるかっこうだった。
浅間社に行くと、子供達が遊んでいた。ここはどうやら近所の子供達の遊び場の一つなのだろう。子供達が遊んでいるのをよそに、私たちは、実際に富士山を登ることができない庶民が地元にミニチュアの「富士山」を作り、その山を「登山」し、信仰した人工の山、富士塚を調べた。ここの富士塚の作りは、大きさから言ってたいへん立派なものだ。
しかし江戸川の改修のため昭和二十八年六月、西方に三百メートル程離れた、現在地に富士塚は移転した。移転前の山と比べると、三分の二位の大きさになったと言う。それでもこの富士塚は、庄和町では一番大きい富士塚である。近所ではこの富士塚を「浅間様」と呼び崇敬している。尚、浅間神社の「浅間」は富士山を指す。
富士塚の近くに、うずくまっている猿の石像をのせた石碑がある。「宝珠山寄附マル宝一百度」と書かれてあった。浅間信仰の神使として猿はしばしば登場する。猿の姿がどこか現代的な彫刻的表現である。富士塚を登ってみたが、とても面白い。登ると、「五合目」などと書かれた石標があり富士山を登る気分にさせてくれる。上に登れば登るほど、雨後のせいかかたつむりが多い。そのため踏まれたかたつむりを見る場面があった。七合目あたりに亀の形をした石像がある。カッパ石と呼ばれているものだ。しかし、これで「富士登山」とはちょっと虫が良いのではとも思った。
頂上は眺めが良く、東の方向を向けば千葉県の東宝珠花の町を一望できる。これほどの大きな富士塚が宝珠花にあるというのは、宝珠花にあった巨大な財力がうかがえる。神社だから、弘法大師関係のものはなかったが、庄和町を代表する史跡の一つと言えるだろう。(高屋敷)(『庄和町の巡礼』一九九三)

 補足しておくと昭和二八年の江戸川改修とは、例のカスリン台風による被害に起因する工事である。もともとこの付近は江戸川の狭窄部にあたり、そこに宝橋と呼ばれる船橋が渡してあった。船を並べてその上に板を渡したものが船橋である。つまり東西の宝珠花集落は渡し場として栄えた過去を持つのだが、狭窄部だけに洪水には弱く、巨大台風の襲来にはひとたまりもなかった。現在は川幅も堤防間の幅も拡張されコンクリート橋が架かっている。
 さて、塚の登り口の鳥居には「山國第一山」の扁額が掲げられ、町教委による次のような解説があった。

庄和町指定有形文化財 宝珠花神社扁額
庄和町西宝珠花七七番地 平成十四年三月二十三日指定
宝珠花神社に伝わる扁額で、寸法は縦九一センチ・横五六センチです。銅板製で、表に「三國第一山」、裏に「武州粕壁住鋳懸師/駒田文吾恐惶謹造/天保四年癸巳正月吉日/不二登山一百二十一度/當所氏子中/行者禄行三志書」とあります。これにより、この扁額は天保四年(一八三三)西宝珠花の人々が富士登山一二一回を記念して奉納したもので、「山國第一山」は富士山を意味し、行者禄行三志の書体を粕壁の鋳懸師が鋳造したものであることが分かります。
禄行三志は、近世後期鳩ヶ谷宿出身の不二道指導者小谷三志(一七六五〜一八四一)の行名です。富士塚と共に当地域の富士信仰の隆盛を示しており、著名な民間信仰の指導者との関連を示す貴重な文化財です。
平成十四年九月 庄和町教育委員会

 ちなみに「三國」とは駿河や甲斐のことではなく、日本・中国・天竺を指すというからスケールはでかい。また小谷禄行(ろくぎょう)なる人物は富士登山における女人禁制を廃止し、信仰を広く開放したことで知られている。
 では登ってみよう。なるほど、てっぺんは、すぐ隣にある江戸川の大規模な土堤よりまだ高かった。見渡せば対岸の千葉県関宿町側の河川敷はグライダーの練習場で、遠く、白い機体が春の日に眩しい。此岸は五月の節句には河原に大きさ百畳敷き総重量八〇〇キロという巨大な凧が曳きだされ、町内対抗の大凧揚げ大会が催される。つまりこの地はきわめてだだっ広く吹き晒しな関東平野のど真ん中に位置するわけで、わずか九メートルとはいえそれ以上の高みなど地平線まで見あたらない土地柄、この富士塚はけっこう「凛と立つ」風情で存在している。
 登山道はいくつもつけられ、各合目を示す標石、奇岩、そして山頂付近には本当に富士から背負ってきて置かれたかのような「黒石卜」(石卜の字はボクと読み、後に述べる角行系宗教が独自に作った異体文字である)と呼ばれる溶岩群と、ちょっとしたテーマパークである。あまりの規模の小ささに照れくさくなるが、けっこう本気で楽しい。息子は大喜びで走りまわったりツクシを摘んだりしている…。
 次に登山道に配された碑文を列挙するが、ここにも女性登山に関する記念の文字が見える。遺憾ながら私は碑文を読むことは不得手で、だいぶ欠落の多い資料になってしまったが。山頂から順に下る。

浅間大神 萬延元年庚申三月十五丁丑日 神祇伯資訓王□書文(緑泥岩製)
九合目
烏帽子岩
龜岩
龍譚帝
七合目
女人□□□江石川のぶこ
六合目
伊勢大三講 奉納金廿両 天保九戊戌歳三月五日 東都廣耳氏書
西宝珠花町 講頭  村瀬榮蔵
世話人 同 藤七
同   同喜兵衛
同   芝田八右衛門(以下大勢のため略)
五合目
四合目
(判読できず)
二合目

 続いて町内に戻る。まず浅間社の方だが、どうもこれは先ほどの富士塚とはだいぶちがうように思えた。第一、盛り土はしてあるが溶岩がない。溶岩がないと富士のミニチュアとしては体裁不足なのではなかろうか。もっとも町資料によるとこの地の富士講はだいぶ本格的に行われていたようで、「先乗り」と呼ばれる登山時のリーダーの家系が今なお当社の宮司を務め、初山などの祭りも旧講組織によって行われているという。なお塚の麓は今は隣接する町工場の駐車場になっているが、八〇年代まではそこに、塚を築いた時にできた池があった。現在は池の埋立時に立てられた生類慰霊碑が、広場の片隅に残っている。
 いっぽう五社神社の富士塚は、クマザサに蔽われていた。高さ四メートル程度とこちらはだいぶ小ぶりなものの、敢えて移植したに違いないササの効果は抜群で、登って浅間さんの丈一尺ほどの小さな祠の前に立つと、ちょっとした風にも塚ぜんたいにザザザザ…と大きくどよめく葉ずれに外界の車の排気音だの生活音はたちまちかき消され、異界に迷いこんだ雰囲気が見事に演出されているのだった。折からかき曇った天気に息子は、怖いからはやく帰ろうとせがんだ。――
 「千駄ヶ谷富士」について、ここで少しだけ触れておこう。JR総武線千駄ヶ谷駅から歩いてすぐの鳩森八幡宮境内にそれはある。高さ七メートルあまりと都内最大級の規模で、無形文化財として整備も行きとどき、常に開放されて誰にでも登れ、なにより私の営業ルート上にあるという運のよさもあって、お百度を踏んだ。メモによれば通算二十五回登っている。すぐ隣には能舞台が結構されており、ある晩新人ヨクナをともない薪能を見にいった。演し物は狂言「蚊相撲」と金春流の謡曲「端蔀」(立花供養)で、残念ながら「富士」でも「富士太鼓」でもなかったが、客席でない、山頂からという妙な正面からの見物は、薪能のほんらい意図したであろう瞑想――風景への観客の解きほぐしと開放――の効果をはからずも演出して、なかなか良かった。ただやはり、区事務所や雑居ビルやエクササイズスクールといった都市の爛熟の谷間にある富士塚と能楽堂、これは居心地のいいロケーションといいがたいことは確かだった。能舞台自体も鉄筋コンクリートにアルミサッシ、敷地面積の都合で橋掛かりは途中で折れ曲がり、音声はBOSEのスピーカーで拡声されるといった具合で幽玄さを欠くことおびただしい。富士塚の方も通いつめた結論としては、庄和や宮代のそれとはどうにも似て異なるように思えて仕方がなかった。どことはなし、信仰のレクリエーション化が見え透く気がするのだ。現世利益に偏った江戸繁盛期の富士講を体現しているように思えてしまった。偏見だろうか。
 江戸期信仰の俗化と、かろうじてそれに堪ええた富士信仰およびコノシロ説話。これに関する事例をもうひとつ紹介する。
 ――四月十九日。こんどは栃木大神神社行きである。東北道を使えば一時間足らずと、こちらもなかなか近くてよろしい。有馬皇子説話の残るこの社にはこのしろ池はないけれども、万葉の時代から有名な霊池「室の八島」があるというので見ておこうと思った。この時もヨクナをともなった。駐車場は裏参道の方にあり、裏口から入る形になった。まず、ひじょうに平坦な土地に「みわ神社」があることに奇異な感をもった。奈良の大神神社は背後の三輪山を御神体とするあきらかに山岳信仰の社であり、その末社であろう石巻山の神社も、石巻山そのものを神体にしているのであろうことはすでに述べた。だがここには山岳はおろか丘も、盛り土さえもない。どうなっているのか(のちの調べで、過去のある時期に社が移転したことが判明)。まばらな杉林を抜けるとすぐ境内で、拝殿前をとおり反対側の参道というか細道を進むとあっという間に畑に出た。あれ、池はどこだ? 境内にとって返し、よく眺めまわすとあった。小さすぎて気づかずに通りすぎてしまったのだ。
 室の八島とはどういうものか。古来、神秘な煙が常にたち昇っているとされ、東国エキゾチズムの代表として歌枕などに頻繁に用いられた。栃木市史にはそのうち四十七首が引かれているがこれは氷山の一角で、まだまだいくらでもありそうである。とにかく室の八島を歌う時はかならず「煙」の語も歌いこむことになっており、前出「東路の室の八島に立つ煙たが子の代につなし焼くらむ」もその伝を踏んでいる。比較的新しい資料としては「奥の細道」の冒頭近くに参詣の記事が見える(芭蕉らは千住を出て二日後には当地に達している!)。

室の八島に詣す。同行曾良が曰く、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室(うつむろ)に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより室の八島と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将(はた)、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨世に伝ふ事も侍し(一六八九)

 「ちかひ」とは記紀にみえる故事で、早すぎる懐妊を夫である天孫ニニギから不倫の子であろうと疑われたコノハナサクヤが、潔白を証明せんと火中出産の行をおこなったのである。どうやら元禄の頃にはようやく「コノハナサクヤ+富士」の観念がこの神社にも達していたことが分かる。それにしても興味深いことに、奈良の三輪三山が土着の観念であろう山岳信仰を今なお貫いているのに対し、東国の末社ともなるとこのように信仰の対象にさえはげしい混乱が生じてくるのだ。そして面白いのは地元の氏子らはそういった混乱を平気で受け容れ、たちまち身体化するのである。中世ヨーロッパなどお国柄によっては「神を乗りかえる」ことなど死にあたいする罪だろうに、わが国の民草はこういうことを実に呑気にやってのける。やおよろずの神を擁する日本神道に顕著な現象といえよう。
 それはともかく、ここでコノシロへの言及があることは見逃せない。本文を見るかぎり、芭蕉は有馬皇子の説話を知らないようである。それどころか富士とコノシロとの関係についても理解していないようで、「将(ハタ)」とはすなわち「?(ハテ)」であるから、なぜこの神社でコノシロを禁じているのか、いったいなんのことをいっているのか、てんで分からない、との記述であるように見てとれる。それではなぜこんなこと(立て札でもあったのか、在地の人から聞いたのかも分からないが)に引っかかるのか。コノシロをめぐる伝承の不穏な雰囲気をさすがに詩人は感じとったのだろう、との議論も可能だが、そこまでいくと深読みにすぎると私は思っている。自分なりの仮説はあるのでこれについては四章で述べる。
 現今の室の八島は、面積にして目測でざっと五〇坪内外であろうか。浅く広い池に一坪あまりの小島を八つ、ひと筆書きの橋でつないで配してある。それぞれの島には小祠が据えられ、浅間社をはじめ主な神社がずらりと並びさながら七福神というか、有名どころの揃い踏み、いかにも江戸情緒らしい明るく俗な箱庭である。むろん煙なぞたち昇ってはいない。ヤシマは古語で釜を指すともいい、八つの島を配したのは後世の付会であるとの説がある。としても、富士山頂外輪山の八峰を「おはちめぐり」として巡歴する習俗とこの室の八島との関係はどうやら明らかであるように思われる。富士では八峰の中心にこのしろ池があるが、この地では逆転して池の中心に八峰があるのだ、と考えてほぼ間違いないだろう。
 下って十一月二五日、大神神社の御鉾祭りなる神事を見物しにいった。夜祭りである。事前に社務所に問いあわせていったいどういう意義の祭りなのか訊くと、意外に明解な返答は帰ってこず、何人かの方が電話口に次々出てしどろもどろともいえる返辞をしたあと、最後に「つまり人身御供なんです」との応えが帰ってきた。うん、それは興味ある、行こう。家族で電車で向かった。東武日光線の野州大塚駅より徒歩十分あまり。しっとりと冷えた霜月の晩だが、普段はひなびた境内も、今夜ばかりは灯明がともされ屋台も出てなかなかに賑々しい。やがて晴れ装束に身をつつんだ童女を囲む祠祭らの一団が人混みを分けて現れ、神楽殿に上ってゆく。楼には紙が貼りだされ、今年の「童女」は某地区の八歳の某さんと掲示されている。さて、なにが始まるのだろう。人身御供というからには、コノシロ伝承と無関係とは思われない。観衆が集まってくる。わずかなお囃子。祠祭がなにかいって――なにかが撒かれた。子どもらが一斉に伸びあがって手を伸ばす。バラバラと大量に撒かれはじめる。大騒ぎになる。なんだ?――駄菓子だ! 祠祭と童女が一緒になって、大量の駄菓子を撒いているのだ。まるで建て前だ。驚いた、なんだろうこの祭りは。あっけにとられているうちに興奮の一場はたちまちに終わり、楼を下りた一行はふたたび行列を作って拝殿に向かう。ついていったが以後は非公開で、見ることはできなかった。
 もしふらりとこの祭りを通りかかったら、これが人身御供の祭りであり、ましてコノシロの身代わり説話が下敷きになっているであろうことを推理することなどはまず不可能である。表面上はどう見ても、豊作儀礼としか思えない。なんという変化であろうか。社務所の対応がはっきりしなかったのもうなずけた。なるほど、こうやって神社は生きのびていくのか。たくましいというかなんというか…。そもそもの謂われが分からない神社が沢山あるのはこういうわけなのだ。どんどん神を乗りかえる日本の民、ということをここでもまた考えた。生活がすべてじゃねえか、との百姓の哄笑が聞こえてきそうである。それでも――この大神神社の場合は、ほんのかすかに、古い習俗が意識され、遺されている。祭りの結構にも、記されたいくつかの伝承にも、そして何より土地に刻まれたモニュメント「室の八島」として――。
 ほかの事例の検討を進めよう。
 福岡市営地下鉄で西の終点まで行き、JR筑肥線に乗りかえしばらく。筑前前原駅で降りると「糸島富士」こと可也山は目の前である。第四の「このしろ池」はここにある。遠方で訪れかねている私に代わって、わざわざ出むいてくれた方が現れた。低山登山の愛好家でいらっしゃるらしい。以下はネット上のやりとりの一部始終である。

2006年10月08日02:39
110: 竜
初めまして。まったく畑の違うところからお邪魔いたしております。
可也山についての質問なのですが。
実はわけありまして、「コノシロ池」と名のついた池を、全国的に探しまわっております(魚のコノシロです)。
糸島半島の可也山に、どうやらその名で呼ばれるのがあるらしいことまで、何とか突き止めました。「らしい」というのは、実際にそこまで行った方の証言はなくて、『コノシロ池 こちら』という看板を見た、そしてその看板の写真撮った、という方がいらしたためです。写真は私も見ました。
実は、年末にも遠方ながら(当方、埼玉です…)可也山までうかがって、この目と足で池を確認したいものだ、と考えておりまして。
そこでお願いです。それは、どう行けばたどり着けるのでしょうか。ていうかそもそも、あるんでしょうか(笑)。どなたかご教示くださいませんでしょうか。ひらにお願いいたします。
あるいは、なぜ「コノシロ池」と呼ばれているのか、その理由(民話??)などご存知の方がいらっしゃいましたら、併せてお教え願えませんでしょうか。
どうぞ何分、よろしくお願いいたします。

差出人 : イナゴ
日 付 : 2006年11月25日 14時21分
件 名 : コノシロ池
はじめまして。
山歩き@福岡のコミュからきました。
可也山のコノシロ池、まだ探されてますか。
さきほど行ってきたのですが。

宛 先 : イナゴ
日 付 : 2006年11月25日 15時39分
件 名 : Re: コノシロ池
初めまして!
> さきほど行ってきたのですが。
ええ!本当ですか!
探してます!もちろんです!
ちょっと今まだ勤務中ですので、後ほどまたご連絡させていただきます!
なにぶん遠方につき情報が少なくて…。どうぞよろしくお願いいたします。
ではでは

差出人 : イナゴ
日 付 : 2006年11月25日 17時02分
件 名 : Re: コノシロ池
了解です。
私は今から出かけますが早めに詳細をお伝えできるようにします。
写真は撮りました。地図でもおよその位置を示せます。
でも…
早めに言っておくと、たぶん落胆されるのではないかと。
歴史はわかりませんけど池と呼べる代物ではないですよ。

宛 先 : イナゴ
日 付 : 2006年11月27日 14時16分
件 名 : 改めましてよろしくお願いいたします。
遅くなりました。コノシロ池の件、どうぞよろしくお願いいたします。
まず、当方、民俗学的興味でコノシロ池を追いかけています。景観美を求めているわけではありませんので、現地の様子がショボショボでもぜんぜん大丈夫です。
事情をお話しますと、実は、私の住む埼玉の宮代町というところにもコノシロ池があるのです。埼玉は海なし県ですので、その池でコノシロが獲れるとか、昔は海に通じていたために獲れたとかいうこととは、どうも違うらしいのです。同じような事例を探すうち、全国に散在するコノシロ池は(私にとっては未知の「可也山」の事例をのぞいて)すべて、まるでわざとのように「海と関係ないところにある」ことが分かってきました。
そこで、可也山の場合にも、何がどうコノシロと関係あるのかを知りたく思っております。私本人も遠からず糸島まで出かけるつもりでおりますが、千キロをまたぐ距離のこと、思うように動けずにいます。どんなところだったか、お聞かせいただければ幸いに存じます。いったいコノシロがどうしたという事情で「コノシロ池」という名が残っているのか、そしてもし由来があるのならば、現在の現地の風景ははたして、その由来となじむ景色なのか…。そういうことを知りたく思っております。
楽しみにご連絡お待ちしております!ではまた

差出人 : イナゴ
日 付 : 2006年11月27日 15時50分
件 名 : このしろ池
ご丁寧なメッセージありがとうございます。
遅くなりましたが、日記に詳細をアップしましたのでご覧下さい。
あとコミュの掲示板にも返事の形で1枚写真をのせました。
なぜコノシロなのかという肝心のところは残念ながら私にもわかりませんでした。
ご不明な点などありましたらどうぞいつでもご遠慮なく連絡ください。
それでは。







5/→ http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=63544184&id=1943460352
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