昨日、民放のボウ番組で、
「浅草」 の語源は、チベット語の 「アーシャクシャ」
と言うていた。「アーシャクシャ」 は “聖なるものがいる場所” の意味だそうである。
画面には、
諸説あります
と注意書きがあったし、この説が、地元のガイドブックのようなものに載っていることも呈示していた。
…………………………
つくづく思うんだが、「諸説あります」 と言えば免責される、ってもんではない。
それと、ネット時代になって、ますます、思うんだが、
典拠バカ
が増えているように思う。
Wikipedia の各項目には、
編集される皆さんへ: ウィキペディア日本語版に編集を行う際は、
必ず検証可能な出典をつけてください。
というような注意書きがある。
「出典」 ってのはナンだろう、と思うわけだ。
もちろん、書かれている内容が 「誰かにオンブにダッコ」 である場合、
誰にオブサっているのか
ということを示す “義務” のことだろう。これは、論文の習慣である。
…………………………
しかしだよ、イッチャン重要なことは、
書いている当人が、誰よりも、真実を知りたい
と切望していることではないか、と思うわけだ。
実は、
当人が知りたいことを、現時点で、当人が納得できるような説明
それがあれば、出典なんか、どうでもいいのだ。ある疑問について、それをいちばん知りたいと思っているニンゲンが選んだ説明だからである。
「論文」 に客観的な典拠を求められるのは、
学者が 「真実」 を掘り起こすのを職業としている
からだろう。それで飯を食っているか、将来、食うつもりだからだろう。
…………………………
「トリビアの泉」 あたりから、
こういう “論文” の空疎なマネ
というのが目立ち始めた。
すなわち、
○○ という本にも書かれている
というタグイの “権威付け” なんだな。しかし、
放送作家は、数字を取ることに興味があるだけで、
たいていは、「真実」 に興味がない
ので、逆に、
番組で採用した “キャッチー” な説が載っている本
を探してきて、
「典拠です典拠です書かれてます書かれてます」
と、涼しい顔して言うわけだ。古い時代からのものを合わせれば、本に書かれていることの、きわめて多くの記述が誤りなのは間違いがない。
(a) 「真実」 を知りたいから、より的確な説を探してくるのではなく
(b) 番組に都合のよい説を載せているものを探してくる
という “本末転倒” が起こっているわけだ。
…………………………
最近では、「○○という本に書かれている」 という権威付けでは物足りなくなったのか、
学者を引っぱってくる
という例が多くなった。そういうのは、たいてい、
責任感のない学者とか、家のローンでカネの必要な学者を
引っぱってきて、放送作家が書いた台本を、
「そのとおりです」 と言わせているように見える
のだな。
以前、「タイムショック」 で、北野大センセが、「ヘチマの語源」 というのを講釈していたが、北野センセみずからが 「へちまの語源」 などを調べているわけがなく、
明らかに、放送作家が Wikipedia で拾った説を読ませている
にチャイナイ。
フジテレビ。以前の 「ジャポニカロゴス」 とか、現在の 「ペケポン」 の “MAX敬語” は、日本語に関して、あきらかな誤りや、奇妙奇天烈な珍説のオンパレードなのだが、
一般の人が “監修者” と思っている、ボウ名古屋大学教授
は、専門が 「生成文法」 という抽象的な言語学であり、フランスに留学したことはあるようだが、日本語に関する論文を発表している気配はないのであるよ。
…………………………
TV というのは、もっと、アナーキーで、どうでもいいことをやるメディアだっただろう、と思うわけだ。「めちゃイケ」 とか 「ロンドンハーツ」 とか、そういうことだろう。
「学び」 のブームにも食い込みたい、と考えるなら、
マジメにやれ
と思うわけ。単純なことだ。もっと、真摯に仕事をしろ、だよ。
「浅草」 の語源は、「アーシャクシャ」 です。
ただし、諸説があります。
典拠はこちらの本です。
あとは知りません。
たとえば、「ホンマでっかTV」 とかだったらいいだろう。そういう番組です、という看板を提げてやっているからだ。しかし、
クイズ形式で、教養チックな番組のフリをしながら、
楽屋裏では、「学び」 なんかに興味のない放送作家が、
Wikipedia あたりをコピペのコピペ
みたいなのをタレ流されてはたまらん、と思うわけだ。
アッシは、アメブロのほうで、
学術ぶって、実は、ベニヤの書き割り
みたいなクイズ番組の “尻ぬぐい” を、頼まれもしないのにずいぶんやった。「ヘチマ」 の語源とか、 glamour の語源とか。しかし、
声のデカいバカの勝ち
なんだよ。ザルで水を汲むようなもんだ。
数ヶ月前に、かなりガッカリしたんだよな。
2、3年ほど前のこと、テレ朝の 「タイムショック」 で、ハデに、「ヘチマのウソ語源」 を講義していたので、そんなバカな説は、まっとうな学者は取り合わない、ということをアメブロに書いた。
しかし、数ヶ月前に、またもやテレ朝が、今度は 「Qさま!!」 でその 「ウソ語源説」 を使ったのさ。ガッカリだよ。
…………………………
「浅草」 の語源がチベット語だなんて、チヤンチヤラおかしい。このクスリを飲めば、放射線の被曝が治ります、みたいな、バカげた話だよ。こんな説を信じるなんて、
合理的思考と、想像力が欠如してる
んだよ。
江戸時代までに日本語に入ったチベット語彙は1つもない。当たり前だ。チベットに、直接、入った日本人などいなかったからだ。
日本人で、初めて、チベットに入ったのは、河口慧海 (えかい) で、1900年 (明治33年) のことである。六代目 三遊亭圓生が生まれた年だな。
もちろん、チベット語を、中国語に転写したと見られる語がないではない。しかし、それは、日本人にとって、
中国で音転写された西蔵由来の中国語
なのだ。江戸時代までの日本人にとって、「漢籍」 というフィルターは “絶対的存在” だったし、学者にとっては中国語で書かれたコトガラが全世界だったのであるよ。
ちょうど、今の学者にとって、英語で書かれたコトガラが全世界なのと同じだ。
たとえ、チベット語に 「アーシャクシャ」 という語があったとしても、それが 12世紀というような古い時代に、
「浅草」 という訓読みで転写されることはゼッタイにない
これは 100%保証する。
「あさくさ」 というコトバは、普通名詞としての用例もある。13世紀。藤原為家 (ふじわらのためいえ) の歌にある。
『新撰六帖』 1244ごろ
「古川の 岸のあたりの あさ草に つばな浪よる 夏の夕風」
この歌が詠まれた時代、浅草は江戸湊に面する海辺の土地だった。“あさくさ” というのは、「水辺に生える丈の低い草」 を言った。
…………………………
トンデモ語源説というのは、たいていの場合、
原語の綴り字の呈示がない
のである。
チベット語で 「アーシャクシャ」 が由来
という記述はネットにあるけれども、チベット語の綴りはまったく見当たらない。
「パンダ」 はネパール語で “竹を食べるもの” という記述が、ネットに 38,900件ほどある。しかし、 panda という音の単語を、実際に挙げているものは、まったくない。
まさに、“検証可能” な出典がない
のである。出典がないまま、4万件のゴミ情報が転がっているわけだ。
放送作家は、
「浅草」 の語源はチベット語の 「アーシャクシャ」
と書いた本を出典として示すが、この本じたい、カタカナでしか書いていない。
それは、出典をあげたことにならない
ということを、よく肝に銘じるべし。
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