きのうの午後、バッテリーがあがりましてん。
知り合いの整備屋さんに来てもらって、変えてもらいましてん。バッテリーってえのは、毎日乗らないと寿命が短くなるんだそうで。ウチのは2005年のちょうど今ごろ変えてました。
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ふと思いましてん。
なぜ、“バッテリー” は “あがる” んだろう
ってね。
同じバッテリーでも、デジカメやパソコンなどの充電式のバッテリーの残量がなくなった場合は、
バッテリーが切れる
って言いませんか。なぜ、“バッテリー” は “切れた” り、“あがった” りするんだろう。
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『日本国語大辞典』 で “バッテリー” を引くと、いちばん古い用例が1876年 (明治9年) にあります。
『改正増補物理階梯』 1876 〈片山淳吉〉
「硝罎数箇を排列したるもの、之を電気の抜帝里(バテリー)と名づけ」
なぜ、これが 「切れた」 り、「あがった」 りするのかは、辞書を引いてもわからない。
こういう “特定のコトバの結びつき” のことを 「コロケイション」 collocation と言います。日本語では 「連語」 と訳されるようです。
なんでえ、「慣用句」 のことか、と思っちゃいけない。たとえば、
きれいな夕日 / 美しい夕日
きれいな絵本 / 美しい絵本
という結びつきでは、「きれいな=美しい」 ですが、
きれいな水 / 美しい水
では、「きれいな≠美しい」 です。こういう結びつきを 「コロケイション」 と言います。
慣用句というのは、「目を三角にする」 とか 「尻が重い」 とか、ある種の結びつきが “化石化” したものです。コトバというのは、つねに、新陳代謝を繰り返しており、ある種の慣用句が死語になるとともに、ある種の不安定な 「コロケイション」 が 「慣用句」 へと変化します。
つまり、「コロケイション」 というのは、一定の傾向をもって、ある言語のネイティヴたちに使われる “コトバとコトバの結びつき” と言えます。
こういう研究が盛んになってきたのは、1990年代からで、これは、コンピューターによる 「自然言語処理」 と関係があります。エンジニアたちが言う “自然言語” というのは、フツーのヒトが言う “言語”、“コトバ” のことです。
エンジニアは、ふだん、“プログラミング言語” と格闘しているので、一般の言語を、わざわざ、“自然言語” と呼ぶんでしょう。
「コロケイション」 というのは、ニンゲンは、経験的に自然に覚えてゆきます。「きれいな水」 を 「美しい水」 と言い換えられないことには、
ナンの法則もない
のです。まったく恣意的な選択であって、これは経験的に覚えるしかないんですね。
ところが、機械翻訳の場合は、すべての 「コロケイション」 をコンピューターに教えてやらなけりゃならない。
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日本語の場合、コロケイションの研究は、あまり進んでいません。コロケイションを研究するには、「コーパス」 というものを構築する必要があります。今日、この日まで、ニンゲンが書いたり、しゃべったりしたコトバを、すべてデータベースにして、検索できるようにしたものが 「コーパス」 corpus です。
英語では、早くから corpus が構築され、すでに、その結果を踏まえた辞書がたくさん出まわっています。
辞書のタイトルの中に、Collocational が入っているものとか、Corpus-Based と謳っているものなどは、その手の辞典です。あるいは、Collins COBUILD という辞典もそうです。
日本語の辞書を見てみればわかりますが、「コロケイション」 を本格的に扱ったものは見られません。「慣用句」 どまりです。
日本語では、まだ、「コーパス」 が構築途中なんですね。国立国語研究所の “KOTONOHA計画” なんてのがありますが、現在、モニター公開中で、企業を含む研究機関、もしくは、大学などの教育機関に所属する研究者しか、申し込みができません。
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ハナシをムズカシクしてしまいましたが、「コロケイション」 のモンダイですね。たとえば、
パーマをかける ── 東京
パーマをあてる ── 大阪
こういうコロケイションの違いは、「パーマ」 という外来語が新しく、どの動詞と結びつけるか、まだ、安定していない状態である、ということです。
つまり、「バッテリー」 のような新しいコトバが入ってきたとき、これと動詞を結びつける必要が生じたとき、どれを選ぶのか、というのは、ひじょうにビミョーで、言うてみれば、
「スマートボールの玉が、何点の穴に入るか」
というような状況に似ているわけです。だから、パーマの場合など、東京と大阪で違う穴に入っちゃったんですね。
東京の場合は、
ミシンにかける、フィルターにかける
などと同じ発想でしょう。「機械や器具などで処理する」 という意味です。
大阪の場合は、
コテをあてる
から来ているんでしょう。
実は、「パーマ」 は、それに先行する 「アイロン」 のコロケイションを踏襲したようなんです。
アイロンをかける ── 東京
アイロンをあてる ── 大阪
さらに遡 (さかのぼ) りましょ。「アイロン」 は、古くは炭火を入れて使う 「火熨斗」 (ひのし) でした。「火熨斗」 は江戸時代初期に中国から入ってきたようで、『日本国語大辞典』 の用例では、1632年が最古です。
で、「火熨斗」 と動詞がどう結びつくか、という例を探すと、『日国』 では、次の2つしか見つかりません。
滑稽本 『早変胸機関』 (はやがわりむねのからくり) 1810 (文化7) 〈式亭三馬〉
「あの袷の表は布布(のんの)に解いたら、火のしをかけたがいいぜ」
『明暗』 1916 (大正5) 〈夏目漱石〉
「膝の上に載せた紅絹の片へ軽い火熨斗(ひのし)を当ててゐた」
あれま、これでは引き分けになっちゃう。
ただ、式亭三馬は、江戸の話しコトバに執着したヒトで、当時の江戸弁の重要な資料とされています。だから、江戸では、昔から 「火熨斗をかける」 が普通で、これが、現代の 「パーマをかける」 にまで遺伝している、とも考えられます。
いっぽう、夏目漱石の家系は、三河 (愛知県) の出身なんですね。漱石じしんは東京生まれとしても、
家庭の中で、方言のコロケイションが残る
というのは、よくあることです。家庭外で使わない表現では、なおさら、その傾向があります。
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で、「バッテリー」 は、なぜ、“あがる” んでしょうか。
『日国』 の “あがる” の語義を詳細に見てゆくと、「ははあ」 と思い当たるものがあります。
【 あがる 】 物事が終わりになる。
(1) できあがる。 ■現代ではあまり使わないですね。
「一丁あがり」 (化石化した表現)
「普請があがる」 (普請=工事。江戸時代初期の用例)
(2) すごろく、ゲームでコマが最後のマスに入る。
(3) トランプ、麻雀などで、手札を出し尽くしたり、役をつくったりすること。
(4) 雨などがやむ。
(5) ある金額で片がつく。
「安くあがる」
(6) 商売、仕事、生活が立ちゆかなくなる。
「商売あがったりだ」
(7) 脈・母乳・月経が止まる。
(8) 魚介・虫が死ぬ。草木が枯れる。
だいたい、この路線ですね。『日国』 の語義分類にないんですが、
(9) 道具が使えなくなる。
という用法もあります。たとえば、『不精床』 (ぶしょうどこ) という落語に用例があります。『不精床』 というのは “不精な床屋” の略で、客の扱いもぞんざい、ヤル気もない、カンコドリが鳴いている、という物騒な床屋です。
ここに、ナニも知らないイチゲンの客が飛び込んできます。まず、ヒゲを剃るにあたって、親方は見ているだけ、年端もいかない小僧に 「ヒゲを剃れ」 と命ずるだけ。
小僧は、不器用な手つきでヒゲを剃り始めるんですが、客が、
「イテッ! イテテテ! 痛い、痛いよ、親方!」
と叫びます。すると、親方が小僧を叱りつける。
「客が3回 “痛い” って言ったらヤメろ、って言ってるだろ!」
ってんですね。
でね、親方が 「ちょっと貸してみろ」 と言って、小僧の手からカミソリを取り上げる。で、そのカミソリをシゲシゲと見て、
「なんでえ、こりゃ、あがっちまったカミソリじゃねえか。
今朝、これで、下駄の歯ァ、削ってたろ!」
と言うんですよ。こういう用法ですね。
たぶん、
「バッテリーがあがる」
というのは、こういう連想からなんでしょう。
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