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2024年01月17日09:40

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「八甲田山遭難死」に新事実!?

年末に放送された『何だコレ!?ミステリー4時間SP』の番組宣伝で、「兵士199名が遭難し死亡! 原因は通説の "未曽有の大寒波" ではない!? 今年マル秘真実が発見された」とあり、大いに気になっていた。明治35(1902)年1月23日、駐屯地を出発した青森歩兵5聯隊の雪中行軍隊210名が八甲田山山中で遭難した事件のことだ。日本山岳史上最大の惨事として知られている。

 登山家で気象予報士の大矢康裕氏はたまたま聴いていた、ラジオの八甲田山遭難事件特集の内容に違和感をもったという。当時、第5聯隊が事件の顛末を記した『遭難始末』では「未曽有の大寒波襲来による異常な低温(-25℃)で遭難」とされていたからだ。大矢氏は現地に出かけ、八甲田山遭難事件当時の実際の風の強さ、気温がどれほどだったかを調べることにした。気象庁には過去の天気を再現したデータベースがあるが、八甲田山のデータは1958(昭和33)年までしか遡ることができない。その後、日本の気象庁にあたるアメリカ海洋大気庁(NOAA) のデータベースが1836(天保7)年まで遡れることを2023年6月に発見。そのデータを基に大矢氏は自ら天気図を書き起こす。風の強さについては、事件当時と同じと判明したが、気温については解析データから「-15℃」だったことが読み取れた。気象庁の過去100年の「青森市内の歴代最低気温ベスト10」を見ると、1位は「-24.7℃(1931年)」で、10位でも「-19.1℃(1934年)」。要するに、「-15℃」は青森市内では普通の気温であり、決して未曽有の大寒波ではなかった、というのだ。それでは、何故、青森第5聯隊は遭難したのか?

 番組ではここから陸上自衛隊青森駐屯地に向かい、八甲田山遭難事件について研究し、事件に関する著書も出している元陸上自衛官(最終階級は三等陸佐)の伊藤薫氏を訪ねる。駐屯地内にある資料館「防衛館」には、八甲田山遭難死の謎を解く鍵があると伊藤氏はいう。それは、当時の下士官以下が着用していた「木綿製の肌着(シャツと股引)」だった。木綿は一度濡れてしまうとなかなか乾かず、汗をかいた身体に密着した肌着が低体温症を誘引したと考えられる。さらに、伊藤氏は第5聯隊が現地の案内人をつけていなかったことが遭難死の第二の要因だと語った。青森出身者ばかりの第5聯隊雪中行軍隊は目的地田代までの「田代街道」を歩いたことがなく、吹雪けば現地の人間でさえ道に迷う場所だ。「もし、兵士たちが木綿ではなくウールの下着をつけ、また、現地の道案内をつけていれば、八甲田山の遭難死は避けられたのではないか」と番組は結んだ。

 気象に関する新事実や、元陸上自衛官の伊藤氏が自身、参加した八甲田山冬季演習の体験談を語られた内容は面白かった。しかし、「これが遭難死発生の大きな要因だ」との結論には少々、納得できないものがある。第5聯隊が大隊長判断で中隊編成としたため、「そり隊」が必要となり、これが行軍速度を著しく低下させたこと。さらには、大隊長以下大隊本部まで随行し、結果的に雪中行軍隊の指揮命令系統を乱すことになった点については、一切、言及がない。やはり、元陸自幹部の立場からすれば、「指揮系統の乱れによって、青森第5聯隊雪中行軍隊が暴風雪の中を迷走し続け、結果的にそれが大量遭難死を招いた」とはとても明言できなかったのだろう。

 ちなみに、年明けの『世界仰天ニュース』で100年前と同じ装備でエベレスト山頂を目指す登山隊の模様を観たが、旧式装備は粗末で耐寒性能、機能性安全性の極めて低いものだった。素人が考えるより厳寒期の登山装備は飛躍的に進化していることをあらためて痛感した。

過去日記『それぞれの、八甲田山遭難事件』
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