mixiユーザー(id:14160920)

2022年08月21日04:45

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鹿島鉄道廃止に伴う攻防秘話(のようなもの)

 2007年4月1日に廃止になった鹿島鉄道は、航空自衛隊百里基地用のジェット燃料輸送と、おまけのような旅客輸送で細々と営業している非電化ローカル私鉄だった。沿線に霞ケ浦があるが、観光地化されておらず、常磐線の石岡駅とはつながっているが、終点の鉾田駅は鹿島臨海鉄道の新鉾田駅とはそれなりに離れていて繋がっていない。よって鹿島臨海のコンビナート輸送とは切り離されていた。

 2001年に航空自衛隊が燃料輸送系統の老朽化を理由にトラック輸送に切り替えたので、主な収益源を失った鹿島鉄道は廃止の方向に進んでいったので、町関係が補助金を出しながら協議会を組織し、沿線の高校も存続のため応援団を組織して、存続をはか り駅周辺を飾って最後の無駄なあがきをしていた。しかし車が当たり前の茨城では利用は減る一方で、状況は逆に悪くなるありさまだった。
 
 そしていよいよ行き詰って2006年に廃止届を鹿島鉄道が出すという話が出たので、外野であるが見かねたわしは協議会だかにメールを送ったが、貨物が無くなって成り立たないなら、ジェット燃料輸送を復活すればいいという内容だった。そのメールが効いたかはわからないが、その後役所が廃止したがっている鹿島鉄道に打診したところ、それならいけるかも知らんという話になったと新聞だかの記事で見た。しかし、どの程度の強さで国に要請したかはわからないが復活はならず、町は少しの補助金で現状のまま廃止延期を願い出たが、もうこれ以上やっても駄目だと鹿島鉄道は廃止を決定した。

 自分が貨物輸送の事を言ったのは、貨物で生きながらえていたものが貨物を廃止したら、ヤマト運輸が貨物を止めるようなもので、商売にならないという事を誰もわかっていない風だったのと、百里基地に民間用の茨城空港(2010年開港)が出来る事で燃料輸送の儲けが大きく増えて廃止が消し飛ぶのが見えていたからだ。また自衛隊としてもうるさいF15戦闘機の離発着に反対をされても困るので、地元を冷たくあしらう事は出来ないだろうという思惑があった。

 ともかく陳情の押しが弱かったのか、無策から補助金だけ使って鹿島鉄道は野垂れ死んだ。思うに廃止間際でなく、燃料輸送廃止の一報から上の方向で国と強く交渉をしていたら、今頃は黒字路線になっていたと思うと勿体無い事例だった。
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