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2022年06月20日08:35

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心坐の習慣とフーチ

今年も夏至が巡ってまいりました。皆様、如何お過ごしでしょうか?
道院では、夏至の坐は冬至の坐に比べて重視されていません。けれども、
陽の極から陰の極へ向かう折り返し点を意識する事は有意義と思います。
特に、これから陽が減ってゆくという順序が決まっている時期ですから、
薄氷を踏むような用心を確認する事が重要な心得とも謂われています。

方法は、尾閭で基を固める冬至の坐に対して、元頂から炁を頂く感覚で、
正午頃に最も心地よい集中状態になるように坐を行うのが適当と思います。
ただ、正午の頃に形坐の時間をとるのが難しい方も多いかもしれませんね。
その場合は無理をせずに、心坐だけでも誠意を持って行いたいものです。
また、冬至の坐と同じ零時頃に試してみましても問題ありませんでした。

さて、前回はS.L氏の話をいたしました。守窔心坐を基としている印象は
これまで私の出会いましたフーチ関係者全員に共通しているように感じます。
なにぶん大切な神事を執り行う訳ですから、各役職、特に纂方を務める方達は
日頃から体調を整えたり色々と工夫努力をされていると思います。その中で、
守窔心坐の練習は不可欠なのでしょう。今回はそのような話をいたします。

香港のY氏もそうでした。私が香港のフーチ見学の機会を頂いた当時、Y氏は
副纂方を務めておられました。甲子の年最初のフーチの翌日、そのY氏は道院内で、
林雅志氏に坐を褒められていた多摩のY氏と私に、各祭壇での作法や道慈について、
英語で丁寧に話して下さいました。その間も、ずっと心坐されている感じでした。
「守窔って、あんなふうなのですね〜」と後から感心し合った記憶があります。

その道院内に、経院や坐院などのトップの名が掲示されていました。その中で
坐院の欄に雅志の道名が記されているのを多摩のY氏が見つけて、香港のY氏に、
「この人をご存じですか?」と尋ねると、「ノーノー」と手を振っておられました。
両者とも多摩に来られていたのに、直接の縁は無かったようです。当時の両者なら、
北京語と広東語でも心坐状態で意思疎通できたのでは、と私は想像いたします。

そこへ、フーチの重要役職でもある方々が集まって来られ、日本から来た二人を
歓迎して下さいました。文字を読み上げるお役目のG氏は見るからに知的でした。
主纂方を務められている老修も我々の為に激励に来て下さいました。真面目そうな、
暖かい印象の方でした。奥様に支えられて懸命に歩まれる様子はフーチ本番の時の
颯爽としたお姿とは別人でしたが、深い心坐状態を維持されている感じでした。

その主纂方は経済的に余裕の少ない境遇であったそうです。纂方としての訓練中、
道院の費用負担で個人的に太極拳と書を習うよう、それもフーチで指示されました。
彼はその事を大変心苦しく思われたそうですが、天命遂行に必要だったのでしょう。
また、誠実な人柄を見込んでか、経済援助を惜しまない人にも支えられて来られ、
私がお出会いした時の歩行を支える奥様も、そういう応援者であったそうです。

纂方を務める方達の血筋や経緯は様々で、特定の家系の者だけが伝承資格を
授与されるような規定はありません。けれど先ず、誠がある事は必須でしょう。
そして集中力と申しますか、しっかりと守窔心坐ができなけば務まりません。
必ずしも専門学識は不要ですが、ある程度以上の言語や漢字の素養も必要で、
実際に文字を書く運動能力も必要でしょう。色々必要条件があるのですね。

ただ、道院の経典には辞典辞書に無いオリジナルな文字も沢山使われます。
それらも含めて、文字や図形が砂盤上に、または纂方の目前に表れてきて、
それを見えた通り書けばよい状況だとも謂われています。長い文章なども
視覚的に目に焼き付いて、半月以上記憶に残っている場合もあるそうです。
運動能力については、本番の間は特別にエネルギーの補充もされるようです。

香港の道院で行われていたフーチと現在の台湾のフーチは違いが色々あります。
先ず、日時や雰囲気が全く別です。香港主院のフーチは夕刻から始まり深夜まで、
休憩を挟んで行われ、厳粛な雰囲気の中で関係者のみの対峙で行われていました。
一寸の靴音でも注意された程です。台湾の道院では昼間、大変オープンな部屋で、
同室で形坐も可。隣の広間で家族や知人と会話していても注意されない環境です。

砂盤の大きさも若干違うようで、香港では一字一字力の籠った勇壮な棒さばきで
砂に書かれた文字を各役職者が素早く読み上げて記録し、副纂方が棒で消します。
台湾でも基本的所作は同様ですが、小文字の連結が印象的で、別の神事のようです。
砂ではなく紙に筆で書画を示される時も各々は別印象です。道院の発祥以前から
中国各地に伝わるフーチは、台北の書画壇のように一人で行っていたそうです。

現在の台湾のフーチの主纂方K氏は学校の教員だったそうで、急に倒れた時に
道院に運ばれたのが道縁のきっかけになったとM先輩から聞いた事があります。
我慾の薄い人だそうです。もちろん本番中は真剣な表情態度ですが、一段落して
退場される際に話しかけた時には、無邪気な満面の笑みで応えてくださいました。
やはり、日常生活も纂方のお役目を担うモードになっておられるのだと思います。

ところで、香港道院のフーチが終息した少し後に、Y氏ご夫妻に再会しました。
その時、Y氏は相変わらず親切ではありましたが、相当気落ちされた様子でした。
食事をご一緒した際も、「フーチは開かれていない」と諦めたような感じで話され、
お役目上自粛されていたらしい喫煙をされ、守窔心坐の印象はありませんでした。
良し悪しの断定などできませんが、やはりモチベーションは大事と感じました。

過去世や幼少時から自然に身に付いたり、不退転の境に達している場合以外は、
守窔心坐は各自己の意志に支えられているようです。強い必要性や明確な目標を
自覚できれば、本気で修養に取り組めるでしょう。そして好循環の波に乗れれば、
習慣化が進みます。日々微細な変化にも張り合いが感じられ、やがて修養が楽しい
糧の如くになってくれば、無理なく心は道を離れず、神は窔を離れないでしょう。

それが難しければ、「纂方のつもり」になってみるのも宜しいのではと思います。
実際のフーチを一度も見ていない方は、私の説明だけでは中々イメージが湧き難い
かもしれません。台北の書画壇は過日、日本のTVで紹介された事がありましたが、
道院の壇は、たぶん現在でも撮影禁止と思います。まして動画のネット配信など。
ですが、幼少期のごっご遊びから色々模擬体験ができる以上に有益と思います。

ともかく、スッと背筋を伸ばして、余計な力を抜き、静かな気持ちになる、
という状態はどなたにも想定できますでしょう。その状態でゆっくりと呼吸し、
頭部の元頂から泥丸に自然に入ってくる先天炁に純任します。そうするだけでも
気持ち良くなりますね。そうするうちに心身が静止安定してきます。あるいは、
その時に必要な動作が自然に起こってきます、というような感じでしょうか。

もちろん、軽い好奇心や安直な気持ちで纂方ごっごをするのはNGでしょう。
けれど、修養目的で纂方の状態を見習ったからと咎められる事は無いはずです。
炁気の工夫をしながら日々坐を続けるのは善事であり、また道の楽しみ事です。
修養の成果など考えず、フーチ風の感覚で食事や入浴、簡単な作業をされて、
新しい発見、意外な気付きを体験されるのも宜しいのではないでしょうか?
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