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2021年11月18日09:31

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林雅志氏の坐について1

先日、「生きる!意味と方法」にも登場する林雅志氏の坐について
聞きたいという人が同修のK君にアクセスして来られ、私に相談する
事も可能である由をお伝えすると、挨拶して去ってゆかれたそうです。

最近でも尚、林氏の坐を修養の拠り所にしている人が居られるのですね。
それは個人の自由ですが、他者に強く勧めて挫折させる結果になった事例も
少なくない現実は、誰よりも林氏が憂いておられる状況であろうと思います。

これから修養を始める方達のためにも、このままでは宜しくない、私が今、
そのような事態になった経緯を振り返り、客観的に問題点を明らかにして、
伝説やイメージではない事実をお伝えしておく必要がある、と感じました。

林雅志氏の本名は林木で雅志は道名です。私の訪問した1984年当時は
ご家族と共に台湾南部の高雄に住んでおられました。簡素な佇まいでした。
道慈のために資金倍増を計られた事が失敗して資産を崩されたそうです。

現在の台湾には、事業で築いた資産で後進を支援している修方もおられ、
店の奥部屋に祭壇を設えて繁盛の秘訣としている人気飲食店もありますが、
天命によっては、善い動機でも損得勝敗のゲームを戒められる事があります。

そういう場合は、表面的には損失のように見えても、無形のものに、例えば
寿命や健康、危険の回避や好チャンスなどにエネルギー変換されるようです。
林氏は、「仕事の心配などしていると坐はできない」と言っておられました。

彼は日本語で教育を受けた世代で、日本人にも違和感を持たれない言葉で
話されていました。少年時代は運動が得意で、特に野球をされていました。
最初の来日は、高校野球の台湾代表チームの投手としてであったそうです。

彼は十分に常識を弁えた紳士で、旧台湾銀行の副頭取まで勤められました。
頭取は日本人と定められていた時期です。銀行の様々な業務に精通されて、
台湾人銀行マンの最高位にまで上られました。奥様は元ミス台湾でした。

料亭での飲食など日常的で、お酒の限界に挑戦された事もあったそうです。
一般庶民が紅卍字会に入り難かった時代に、ガンで入院されている部屋を
当時の台北市長が訪問されたのが道院求修のきっかけと聞いております。

胃の手術を受けられた後も複数個所に問題があって深刻な症状でした。
それ故に、道院の坐に集中する堅い決意と実行する時間がお有りでした。
そして、既に色々な体験を経て世事に未練の無い状態だったそうです。

そのような個人情報を私が知っているのは、K君から聞いたからです。
彼は多分、林氏ご夫妻と親しくお話できた時間が日本人では最長でした。
他の人達が都合で次々抜けていったお話会に一人参加していたそうです。

それは我慢して続けていたのではなく、道のお話が面白くなったそうで、
そのような事もあってか林氏はK君の道の将来を大変気に掛けておられ、
彼の修養が挫折しないよう見守りと協力を私に切に頼んでおられました。

さて、林氏は超熱心な坐や参経の結果、健康体と言える程回復されました。
そして正確な日時は手許に資料がありませんが、林氏のお話から推測して、
数年以内のような早い時期に、真人成功を公式のフーチで認定されました。

私が面会した当時は全く健康そうで、見るからに真人らしいご様子でした。
又それより少し前、香港総母宗に伺いました時、院内に坐院のトップとして
雅志の道名が掲示されているのを居合わせた人達と共に確認しております。

道院の初期には、フーチで坐の個人指導が行われた時期もありましたので、
黙真人はじめ何人も成功者が出られたようですが、その人達も帰道されて、
その甲子の年の頃には林氏くらいしか真人は居られなかったのでしょう。

それ故、坐の指導、特に日本の修方を指導するよう訓示も下りていました。
「あまり得意な事ではないのに、話を聞きに隣に引っ越してきた人まで居る。
本当はもっと自分の修養に集中したい」と私に漏らされた事もありました。

けれど当時の林氏が、御神意で指示されている使命感とご自身の実感を以て
坐の事を熱心に語られれば、その一語一語には自ずと説得力がありました。
多数の修方が彼の坐の方法を尊び信頼を寄せたのは当然であったでしょう。

林氏に対して私は今も、善良で誠のある先輩修方として尊敬しております。
そして特に高雄訪問の際は、求修して間もなかった私のために誠意全開で
道を語って下さった十数時間のシーンは鮮明に脳裏に焼き付いています。

ただし、善良で誠意のある人であるという事と、持論が正しい、或いは
利き手にとって適切であるという事とは別です。その点を明確にする事は、
ご当人にとっても、利き手全員にとっても有意義である筈と私は思います。

林氏の慈行としての来日は笹目秀和氏のご希望で、奥様とご一緒に多摩に
ひと夏ご滞在。K君を含む約十名の青年達と共に食事、合坐や誦経をされ、
夜の自由時間に道のお話をされたそうです。私が求修する少し前の事です。

その頃のメンバーはその後、帰道した人や道院から離れていった人など、
それぞれの道を進まれました。現在、林氏の坐を拠り所にしている人は
他の機会に氏と面識のあった人や彼の信者から勧められた人のようです。

私の場合は、高雄から戻って以来、何度か道慈に関する書簡の往復があり、
私がK君の個人的な学習目的で日訳した経典を林氏が視られた事もあり、
そういう道の研究のようなお付き合いを数年間させていただきました。

最後の来日の直前、林氏から大阪の私宛に封書が届き、「面談したいので
東京まで来てほしい」という内容でした。再会は嬉しくもありましたが、
経典日訳などについて面倒なお話になりそうで、気が重く感じました。

また、既に林氏の坐と異なっていた私の坐について相談するのも憚られ、
と言って自信を持って坐の提案ができるには至っていなかった状況でした。
それで、折角のご連絡でしたけれど、上京は遠慮させていただきました。

林氏は銀座の道院訪問の後、多摩道院で北極真経の解説もされました。それが、
お元気で道慈をされた最後になったらしく、帰国後に心身の調子を崩されて、
隔離されるような状態で帰道された、と道院の古参のM氏から聞きました。

M氏は、帰道時のフーチで林氏が真人から後退されていた事を不審に思い、
高雄まで出向いて事情を確かめたそうです。彼は私に嘘を言う必要も無く、
道慈に関しては実に真剣な人でしたので、私はその情報を信じます。ただ、

ご遺族から私宛に届いた訃報は、無事な帰道を祝うような赤い体裁でした。
それを手に取った時、私は大変安堵を感じて、思わず「ご苦労様でした!」と
呟きました。1992年の早春の事です。寿は86歳と記されていました。

邪心の無い修方であった事は確かですし、致命的な転落でもなかったので、
たぶん、帰道されてから指導神霊方の指示誘導で適切な霊修の機会を得られ、
現在は真霊を回復されて大道に繋がるお役を頂かれている筈と私は思います。

その後、ご遺族は道院から離れて行かれたそうですが、現在の台北や香港で
親族の方達が要職に就いておられますし、雅志氏に好印象を持つ古参の人や
もはや伝説的となった林木坐のファンもあちこちに居られるようです。

さて、いよいよ、林氏の坐について考察してまいりましょう。

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