mixiユーザー(id:14108240)

2021年05月07日10:57

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ネット・バッシング

「悲恋もの」のドラマや映画というのは大きく分けて2つのパターンがある。
ひとつは恋人が、しかも大抵女性が不治の病で死んでいくというもの。

古くは「椿姫」から新しいところでは「世界の中心で愛を叫ぶ」
もっと古い作品や、もっと新しい作品があるかもしれないけど、私の知る限りではそんなところだ。

そしてもう一つは「身分違いの恋」というパターン。
でも最近「身分違いの恋」はあまり見かけなくなった。
少女漫画原作のドラマ「花より男子」のように、あってもそれは悲恋ではなくコメディだ。
ヒロインは決して泣かないし、挫けないし、悲観しない。

それでも女の子の夢は不変で、相変わらず「王子様」との恋を夢見る。
だから「身分違い」の恋は「花より男子」のようにコメディとしてなら、生きながらえるのだ。

昔は富裕層が少なかった。
その中の人間が結婚相手をそこから選ぶとなると、おのずと選択肢は狭まり、不本意ながら親の決めた見合いになる。
そこに「身分違いの恋」などと言うものが生まれる土壌はあったのだろう。

翻って今。
身分違いの恋という話をあまり聞かなくなったのは、富裕層が広がった分だけその世界で恋が成就出来るようになったからだろうか。

ところが!だ。
身分違いの恋が皇族の娘と母子家庭の裕福とは言い難い息子という、まさかの逆玉で現代に蘇ったのだ。
その突拍子もない変化球はプロのキャッチャーだって取り損ねる。

そういう筋書きは作家だって考えつかないし、考えついたところで説得力はなかっただろう。

時としてあり得ないような事が起こるから「事実は小説より奇なり」と言われるわけだが、この場合は貧しい男の方にどこか最初から逆玉狙いの野心がちらつき、我々は嫉妬と嫌悪感や憎悪まで掻き立てられている。

そこには税金が絡むのだからなおのこと。

もっとも当事者たちにとっては周囲の反対は恋の燃料になるだけ。
一昔前だったら、つまり国民をマスコミでどうにでも印象操作ができる時代だったら身分違いを超えた恋とか愛と言われて美談になり、大衆の支持を得たかもしれないが、ネットの時代の今はそうはいかない。

もはや忖度だらけのテレビより大衆はネットの記事の信じたい方を信じる。
そしてネットで吹き荒れるバッシング記事は多くの人に読まれたいがために、ますます大衆に迎合する。

一見平和で平等な日本だけど、こんなところから何かの終わりが始まるのではないだろうか。

多分平和の鐘は、いつも何らかの不穏分子を抱きかかえて、なだめ、すかし、諭し、脅し、おびえながら鳴るのだろう。
思いのほか美しい音色で。

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