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2021年04月30日04:54

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藝術家の運命、本阿弥光悦と俵屋宗達

藝術家の運命
【本阿弥光悦と宗達】40代に入った光悦は、才能があるのに世に出る機会に恵まれない一人の若手絵師、俵屋宗達と出会う。1602年(44歳)、光悦は厳島神社の寺宝『平家納経』の修理にあたって宗達をチームに加え、彼が存分に実力を発揮できる晴れの舞台を用意した。
【養源院再建、宗達】1621(元和7)年徳川2代将軍秀忠の正室である浅井三姉妹の三女江は、狩野派の代わりに浅井氏ゆかりの尾形光琳の祖父・宗柏や本阿弥光悦に適任者を探させた、当時、無名の扇絵の職人、俵屋宗達に白羽の矢が立った。宗達は世にその名を知らしめる。

【本阿弥光悦と鷹ヶ峰】1615年、大坂夏の陣の後、光悦の茶の湯の師・古田織部が豊臣方に通じていたとして自害させられる。そして57歳にして光悦の人生に大きな転機が訪れる。徳川家康から京都の西北、鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられた。師の織部に連座
【俵屋宗達】17世紀は俵屋宗達とその工房の活躍期。仮名草子「竹斎」元和年間(1615〜24)に記された俵屋は、扇絵制作を得意とする絵屋であり、宗達自身 による扇面画も複数残る。宗達や俵屋工房による扇面画、特に扇面屏風類の現存遺例、醍醐寺『扇面貼交屏風』
養源院、血天井【俵屋宗達「養源院」杉戸絵『唐獅子図』『波に麒麟図』『白象図』。襖絵『金地着色松図』】元和7(1621)年。杉戸絵は分厚い杉の板の引き戸に架空の動物の絵が描かれており桃山時代から江戸初期に活躍した絵師・俵屋宗達によって描かれた。
【養源院、血天井】徳川2代将軍・秀忠の正室である浅井三姉妹の三女江、元和7(1621)年、徳川の忠臣たちを祀るという名目を立てることによって、徳川が滅ぼした豊臣の造った寺、養源院を再建する。養源院の本堂と廊下の「血天井」がある。
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【雪舟】岡山県総社市の宝福寺での小僧時代、涙で鼠を描いた逸話が有名。狩野永納『本朝画史』(1693年)。画風は、弟子達に受け継がれ「雲谷派」と呼ばれる。(応永27年( 1420年) -永正3年8月8日( 1506年)。
【雪舟】明で画の勉強を終えた雪舟は、1469年に帰国し日本各地を転々とした。1483年再び周防国に戻り、雲谷庵に定住。創作活動にすべてを注ぎ、1486年、67歳で、最高傑作「山水長巻」を山口で完成。 1506年87歳でこの世を去る。
「破墨山水図」は、雪舟が1495年、76歳に制作し弟子の如水宗淵に与えた山水画。東京国立博物館所蔵。雪舟自身の長文の自題がある。自題の中に「破墨の法」を明で学んだと述べているのでこの名があるが技法的には「溌墨山水」。
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【イワン・クラムスコイ『忘れえぬ女』1883】画家は「外面的肉体的な美と内面的精神的な心の美のどちらを人は選ぶべきか」という問いをこの作品に込めた。トルストイのアンナ・カレーニナ、ドストエフスキー『白痴』のナスターシャ、プーシキン『吹雪』、モデルはだれか。
【チェーホフ『犬を連れた奥さん』1899年】通奏低音のように流れる絶望を超えた希望、夜のヤルタ郊外の威厳ある風景描写、始まりも保養地ヤルタのアバンチュール。ナボコフは、これまでに書かれた短編小説の中でも最高。ゴーリキー「リアリズムに最後の止めを刺す作品」
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【聖徳太子、死の謎】622年、なぜ厩戸皇子=聖徳太子は49歳で死んだのか。前年、生母、穴穂部間人皇女が死亡。太子の死の前日に妃の膳大郎女が死去。相次いで三人が死ぬ。3人は同じ墓に埋葬された。膳大郎女は、太子の4人の妻のうち最も身分が低い。疫病による病死。唐より
【感染爆発と平安文学、一条天皇31歳で死す。中宮定子は24歳で死す。中宮彰子88歳まで生きる】一条天皇は2人の皇后を持った(一帝二后)。一人の后が中宮彰子(988−1074)彰子に仕えたのが清少納言のライバル紫式部(970−1019)。彰子は藤原道長の娘。

【人間万事塞翁が馬】中国北方の塞近くに住む占いの巧みな老人の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。息子は、落馬
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【俵屋宗達「養源院」杉戸絵『唐獅子図』『波に麒麟図』『白象図』。襖絵『金地着色松図』】元和7(1621)年。杉戸絵は分厚い杉の板の引き戸に架空の動物の絵が描かれており桃山時代から江戸初期に活躍した絵師・俵屋宗達によって描かれた。
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