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2020年12月07日04:41

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安土桃山時代の美術

安土桃山時代の美術

美を探求する人は、世界の悪と戦う。世界は醜悪に満ちているからだ。
【復讐する偉大な王】アレクサンドロス大王、クレオパトラ7世、弟プトレマイオス14世を暗殺。プロイセンのフリードリッヒ大王、織田信長、偉大な人生は、復讐から始まる。絶望に立ち向かう。絶望を超えて、復讐を果たし、天の仕事を成し遂げる。
【地上の富と霊族の富】地位と物質上の財宝だけを追うて働くことは、われとわが牢獄を築くことになる。人はそこへ孤独の自分を閉じこめる結果になる。生きるに値する何ものをも購うことのできない灰の銭をいだいて。サン・テグジュペリ『人間の土地』
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武家と天皇との戦い
【承久の乱、天皇家に武家が勝つ】3上皇追放。承久3(1221)年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の最高権力者、北条義時の追討を命じた事に始まる。承久の乱以後、約650年続く武士の世ができあがる。御家人たちの忠誠の対象は自分たちの利益を守ってくれる頼朝であって朝廷ではない
【承久の乱】1221、北条義時、承久の乱の勝利によって、鎌倉幕府は2つ目の国家としての立場を確立。承久の乱とは「権門体制論」が勝つか、「東国国家論」が成り立つかの戦い。権門体制論、公家、寺家、武家の3権力の体制。東国国家論、京都の朝廷と鎌倉幕府、2つの国家。
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信長包囲網
【織田信長 第六天魔王】延暦寺の座主、覚恕法親王は難を逃れ、武田信玄に保護を求め身を寄せていた。その時、信玄から信長への書状の署名「天台座主沙門信玄」と書かれた。それに対し信長は返書にて「第六天の魔王信長」と署名した。天正元(1573)年4月20日
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織田信長と文化
【信長と千宋易】千宗易(利休)は大永2年(1522年)に和泉国堺の商人・納屋衆田中与兵衛の子として生まれ、本名は田中与四郎。千宗易は自由都市堺の支配階級である納屋衆(会合衆)。千宗易、今井宗久・津田宗及とともに「天下の三宗匠」と呼ばれた。
津田宋及から、耀変天目を手に入れた。

【幻の窯変天目、織田信長】星または輝くを意味する曜。曜変天目の中でも最高の茶碗を織田信長が持っていた。義政の東山御物(『君台観左右帳記)は信長に伝えられた。「曜変、稲葉丹州公にあり、東山殿御物は信長公へ伝へ焼亡せしより、比類品世に屈指数無之なり」『名物目利聞書

【信長の右筆、武井夕庵】永禄10年(1567)より、斎藤氏を滅ぼした織田信長に仕えて右筆及び側近官僚となり、客の取次や京都の行政官の一員として活動した。また検視、重要時の奉行や使者も務めた。毛利氏への添状の発給を羽柴秀吉と共に担当し、毛利側の小早隆景、吉川元春
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【狩野永徳『洛中洛外図屏風』】永徳23歳。足利義輝(室町幕府第13代将軍)が注文した。永禄8 (1565) 年、足利義輝没後に織田信長が入手。武田攻略のため協調関係を築きたい謙信に対して天正2年(1574)3月に信長がこの屏風を贈答した。信玄、謙信とは戦わず。天正元(1573)年、信玄死す。

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【狩野永徳の死】1590年、狩野永徳の急死により、等伯に好機が回ってくる。秀吉の子、鶴松が3歳にして亡くなり菩提寺・祥雲寺(智積院)を建立。襖絵制作の大仕事がくる。有名な国宝「桜図」と「楓図」。等伯の長男久蔵が工作員を雇い、狩野派、四十八才の狩野永徳を毒殺

【狩野永徳の死】長谷川等伯の長男久蔵が工作員を雇い、狩野派の首領、四十八才の狩野永徳を毒殺させた。1590年、狩野永徳の急死により、等伯に好機が回ってくる。秀吉の子、鶴松が3歳にして亡くなり菩提寺・祥雲寺(智積院)を建立。襖絵制作の大仕事が回ってくる。これが有名な国宝「桜図」と「楓図」。

【狩野永徳の死、鶴松の死、久蔵の死】天正18年9月14日永徳の急死によって、等伯に突然の好機が訪れる。秀吉の3歳で亡くなった愛児、鶴松の菩提寺を飾る絵の注文が舞い込む。完成させた絵「楓図」。この傑作により等伯は秀吉に認められる。
【長谷川久蔵の死】三年後に久蔵が二十六才で亡くなる。文禄6年6月15日(1593年7月13日)これは狩野派が工作員を使って暗殺した。
【長谷川等伯『松林図屏風』】『楓図』『桜図』の直後、等伯は跡継ぎの長男、久蔵、そして秀吉の死に相次いで直面する。5年後、描かれたのが「松林図屏風」。霧に煙る松林を描いたその画面は、故郷七尾の風景である。
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【信長の孤立、安土城】
【安土城】天正4(1576)年に築城を開始。普請総奉行丹羽長秀、奉行森可成、天正5(1577)年5月11日、天主完成、5月27日、安土城にて安土宗論。結構は山城から平城に移行する過渡的形式、天正7年(1579年)に石造 5層 7重の天守閣を中核とする城完成。安土城、総見寺、天正9 (1581) 年頃、安土城郭内に信長が自らの菩提寺として創建。
【安土城】天正4(1576)年に築城を開始。普請総 奉行丹羽長秀,奉行森可成、 1577年( 天正5)5月11日 -天主完成; 5月27日 - 安土城にて安土宗論。結構は山城から平城に移行する過渡的形式、天正7年(1579年)に石造 5層 7重の天守閣を中核とする大城郭。近世式の天守閣はこれが模範。
【織田信長、安土城、狩野派】この世から消滅した狩野派絵画、安土城。天主閣、地上5階地下2階。7階、信長の部屋、6階は儒教、「孔門十哲」「三皇五帝」、5階は仏教、「釈迦十大弟子」「釈迦説法」、3階は花鳥図、「岩の間」「竹の間」「松の間」。2階は道教、「呂洞賓図」「西王母」。天正七年、安土城。天主閣完成。天正十年6月2日、本能寺の変の後、8日後、炎上する。太田牛一『安土日記』『信長公記』

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【養源院、血天井、俵屋宗達】廊下の東西の両端、杉戸絵は、自刃した徳川の家臣らの霊を慰めるために、俵屋宗達が仏様に因んだモチーフを描いた。普賢菩薩の乗り物、白象、文殊菩薩の乗り物、唐獅子、聖人が出現する前兆として現れる霊獣、麒麟。
【養源院、血天井】慶長5年(1600年)夏。関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いで、徳川家康の忠臣、鳥居元忠以下の将士が城を死守し最後に自刃した際の床板。元和5年(1619年)養源院、火災で焼失。元和7年(1621年)養源院は伏見城の遺構を移築して再建。
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