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2020年09月18日12:18

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「古伊万里図鑑」

 「古伊万里図鑑」(秦 秀雄著 ちくま学芸文庫 2020年6月10日第1刷発行)を読みました。

 と言っても、この手の本は、小説とは違い、一度読んだらそれっきりということではなく、図録のようなものですから、これからも、折に触れ、何度もページをくくるようなものではありますが、一応、ザット目を通したというところです。

 ところで、著者は、既に、昭和46年に「古伊万里図鑑」を発行し、その翌年の昭和47年には、その「古伊万里図鑑」に増補を加えた増補改訂新版なるものを500部限定で発行していますが、今回のこの本は、改訂版のすべてを1冊にまとめて文庫化して発行したということですね。



 さっそく、内容に入ります。

 この本に依りますと、

「彼(柳宗悦のこと)が民芸運動の口火を切ってその主宰する雑誌「工藝」を世に出したのは昭和6年の正月号からであった。翌年の7月号に藍絵の猪口」特輯号を発刊した。今日言うところの蕎麦猪口40点を口絵に写真掲載し、彼はこの庶民用の雑器に限りない賛歌を述べて世に伊万里の美しさを紹介した。そうして昭和11年3月(「工藝」)62号)には伊万里染付小品を特輯し、茶盌、皿、壺、徳利のたぐいを紹介した。これにも32点の写真を掲載している。 (P.162)」

ということで、まず、伊万里の美に着目したのは、柳宗悦だとしています。「そうして徐々に陶磁鑑賞の世界に伊万里は抜き難い地歩を占める事になった。(P.163)」ということです。

 次いで、昭和34年、大阪の古美術商瀬良陽介が豪華本「古伊万里染付図譜」を発刊し、伊万里の美を世に普及させたということですね。

 そうした時代の流れというか、状況の中で、著者は、

「・・・自由に闊達にこれらを集めて、伊万里の卒論とまでは行かなくとも、せめてその草稿を内示する、といった程度のものはここらでまとめて見たい。柳の発見と評価、瀬良の普及宣揚、それにつづいて伊万里の真価を吟味しようという私のこころみが、ここにこの図録を世に問わしめようとしたのである。 (P.174)」

と、「古伊万里図鑑」発刊の目的を書いています。



 この本を通読して感じましたことは、著者は、「初源伊万里」を礼賛しているようですが、今ですと「草創期伊万里」の礼賛というところでしょうか。今では、「著者の言う初源伊万里」=「草創期伊万里」と思われますので、、、。

 確かに、著者が、この「古伊万里図鑑」を書いた頃は、

「古伊万里の鑑賞には従来型のものと言って所謂(いわゆる)手のこんだ上手の精作品を珍重して来た。徳川のいたらない鑑賞によって高く評価して来た。五艘船、赤玉等得意先の気に入る品として入念精巧の作品が、長者や武人の間にもてはやされると、これがいつ迄も伊万里の逸品としてもてはやされた。徳川から明治にいたり、その風潮は大正昭和の時代にもまだ続いているという状態である。

 この本来いいと言われていたものをいいと見るのは伝説伝承を信じているのであって、今日、すなおに鑑賞者の目に映じた印象ではあるまい。柿右衛門や鍋島が重美に指定されたからと言って、私は必ずしも愛鑑賞美して眺めようとはしない。精巧丹念の力作だからとか、手間ひまかけてこしらえたとか、そんなこんなの条件がやきものの美醜をきめるきめ手になるものではあるまい。 (P.167〜168)」

という状況だったようですし、

「柳宗悦の創業にかかる駒場の日本民藝館をのぞいて、伊万里はどこの美術館にも殆ど所蔵しては居らぬ。よしあったとしても、少なくとも50万100万以上もしようかという大皿、それを僅かに申しわけのように持っていようか。大きくて見場がよくって高いもの、それが伊万里の逸品と思われているふしが感ぜられないではない。 (P.169)」

という状況でもあったようです。

 そして、当時は、柿右衛門も、古九谷も、鍋島も、皆、伊万里ではないとされていました。

 今でこそ、研究が進み、柿右衛門は「伊万里柿右衛門様式」となり、古九谷は「伊万里古九谷様式」となり、鍋島は「伊万里鍋島様式」となって、現在では、柿右衛門も、古九谷も、鍋島も、すべて、伊万里に含まれるようになりましたが、、、。

 それは、私が古伊万里のコレクションを始めた昭和49年頃も(今から46年前頃も)同じような状況でした。

 そうなりますと、伊万里に人気が出てきたといっても、集めようとする対象物の存在が少ないんですよね。魅力のある伊万里が、、、。

 五艘船や赤玉といった従来型の型物伊万里や準型物伊万里は高額ですし、精巧に作られた大皿もまた高額です。もちろん、江戸後期の伊万里など相手にもされませんでしたから、結局、初期伊万里のようなものに注目が集まったわけですね。

 著者は、そうしたなかで、有田で盛んに発掘されていた草創期伊万里に注目し、それを礼賛したわけです。

 しかし、現在ならどうなんでしょね。伊万里の研究が進んだ現在では、柿右衛門も、古九谷も、鍋島も、すべて、伊万里に含まれるようになりました。著者が、伊万里の卒論の意味で発刊した「古伊万里図鑑」は、伊万里の研究段階では、黎明期の論文にすぎなかったように思われます。

 今なら、著者は、どのような伊万里を礼賛するのでしょうか、、、?









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