六月八日
各地に散っていた草の者達の一報によると、明智光秀は坂本から京都へ向かったらしい。朝廷の綸旨を得るためかもしれない。
だが悪い知らせも入った。佐和山城を奪取した丹波の武将・荒木氏綱が、近隣の山崎・小川等の陣を再編成し、こちらに向かっているというのだ。早ければ明日には安土城に到着し、明後日の６月１０日にはここまで来ることも可能であろう。
美濃の大乱も一向に目処が着かず、伊勢の織田三介は謎の撤退をするし、他のどこにも我々を救援するため出向くような様子は無い。
ただ、大和の筒井がすぐ呼応するかと思ったが、不気味に動いていない。摂津の様子も流動的だが、どうも明智側に付いたわけではないらしい。
そして眼前の敵陣を見やると、数は一気に減って、４千に満たない位には減っている。だが、この残った兵は明智直属の、忠誠心が高い部隊だ。一筋縄では凌ぎ切れないだろう。
法螺貝が複数鳴り響き、ややあって敵の雄叫びが波濤となって押し寄せてきた。
「殿、具足を召して下され」
上野田主計助が櫓の上まで鎧櫃（よろいびつ）を運んできたが、そっと首を横に振る。
この櫓にも敵の矢玉が時々空気を切り裂いて盾に突き刺さる。火矢も放たれているので、応戦だけではなく火消にも当たらねばならない。
それを率先してやる。戦の役には立たないが、こうして最前線で平服でいれば配下の兵卒達は「殿がいつもの平服で櫓に構えているから、大丈夫だろう」と安心するだろう。
例えどんなに辛くとも、やせ我慢して笑っている事こそ、城主の心構えなのだ。そしてこれは兵卒だけではない、息子の賦秀にも背中で語っているのだ。口喧しく言っても、心に残らない。伝えたい事を相手に響かせるには、実践するしかないのだ。
敵が１０間（約１８ｍ）まで迫寄って来た時、町野左近が軍配を振り下ろした。
火縄銃の一斉掃射。もんどり打って敵兵が土塁から転げ落ちていく。この間、白煙で視界を奪われるので、矢衾（やぶすま）を撃って隙を塞ぐ。
あと一回の掃射で、玉薬（火薬）がきれてしまうぞ……喉がひっついて、心臓のバクバクを抑えるために唾を呑もうとしても呑みきれない。
「殿、ダメです！ 福西殿の櫓が押されています、このままではこちらの櫓が孤立しかねません。二の丸への撤退を！」
西を見れば、確かに福西隊が押され、敵兵が城内へと押し寄せているのが見えた。
「未だだ、未だ終わらせんよ。賦秀の隊と結解隊を後詰に向かわせて押し返すのじゃ」
下を見れば早くも先頭切って賦秀が槍を振るい、早速敵を一人仕留めた所だった。
「１刻でも長く、城を持たせるのじゃ！ 見よ、敵は怯んでおるぞ！」
櫓の上から身を乗り出し、城兵を激励する…と、こちらを目ざとく見つけた敵兵が狙撃してきた。
「危ない！」
町野左近が身を挺して、櫓の床へワシ共々倒れこんだ。
「全く…無茶苦茶ですぞ！ 大将が倒れれば戦どころではないのですから、もっと自重なされませ！」
「へへへ、済まぬ済まぬ……」
街道筋の向こうから大太鼓の冗長な音が数度響き渡る。するとまた一段と敵兵の勢いが上がって、がむしゃらに攻めたてて来た。
「殿、櫓の方は未だ持ちますが、大手門や土塁などがもう限界です。我々は此処に留まり敵を引き付けますので、殿は本丸を棄てて二の丸へお引き下さい」
町野左近が言うのならそうなのだろう。もしかしたらこれで今生の別れになるかもしれない…だが、口から出た言葉は「頼んだ…任せたぞ」という、実に陳腐なものだった。
遊撃に出ている賦秀の近習衆、結解隊、それに佐久間隊へ声をかけ、本丸から必要なものを持ち出し、土橋を駆け抜け、そして門を閉じた。息を整え、二の丸西にある櫓へ行こうとした時、土塁に信じられないモノを見た……！
「お…お鍋の方様！？」
それだけじゃない。帰蝶様、お養の方、滝川殿、稲葉殿、坂殿だけでなくあのあここの方様や、ワシの妻・おきりや息子の嫁“ふゆ”、それに娘の虎まで手に手に火縄銃を持って構えている。よく見れば土田御前も手慣れた手付きで弓を調弦している。
「な、何をふざけているのですか！」
「ふざけてなどないぞ、ガング。どうせこの城が落ちれば我等も無事ではいられぬのじゃ、ならば我等も戦うまでよ！」
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