二の丸へ向かい、小倉殿を見つけて事後の打ち合わせをする。
「良いな、いざという時は日野川を上って甲賀の多羅尾家を頼るのじゃ。きっと悪いようにはせぬ」
「蒲生様、それについては承知しましたが…今から織田家の女房衆にこの話をしては、きっと動揺が広がりましょう！」
「大丈夫じゃ、本丸が落ちそうになっているというのさえ言わなければ、いざという時の備えみたいな感じで受け止めてくれるであろう」
「……本丸が落ちるのですか？」
「ひえっ！」
小倉殿の後ろに死神みたいな顔で突っ立っているのは女房衆の坂殿。彼女は影が薄く、とはいえ城の出納を任せているため辺りをうろついている事を失念しておった……！
小倉殿も「アチャー」と、顔を覆ってしまっている。
「……坂殿、黙っていて下されるか？」
「私とて、織田家家中の一人。由々しき事態ならば皆様方へ知らせる義務というものがありまする」
思った。
もしここで何とか坂殿が黙っていてくれると確約しても、女の口に戸は立てられない。きっと内緒話という事で、寧ろ尾ひれがついてすごい話になってしまうかもしれない。
「よし分かった！」
「ひぃぃぃ！ 私を闇に葬るつもりか！」
ワシの気迫にビビった坂殿が口封じを恐れて慄く。
「そんな事しませんよ。女房衆を集めて下さい……説明会を開きましょう」
何か言いたそうにフルフル首を振る小倉殿を押し留めながら二の丸屋形へと歩を進めた。
「うじゃじゃもしゃー！」
「どういうことでおじゃ、大夫？ わらわはここが安全と聞いたから我慢して逃げて来たのでおじゃるぞ！」
「オレも納得いかないぜ、蒲生殿。ちゃんと説明してくんな！」
明日の戦況によっては本丸撤退、二の丸へと本陣を移す事、それでも猛攻がある場合は日野川に係留してある船で甲賀へ落ち延びる旨を説明した途端、コレである。
「待て待て、皆様方。もう少しちゃんと左兵衛大夫殿の話を聞きましょう」
凛とした安土殿の一声で場は静まった。だが…重圧が喉をひくつかせる。
「本日、明智方は“死兵”を行い、無謀な吶喊を繰り返しました。ですが我が家臣が槍働きにて追い払う事に成功しました」
「……」
「ですが城も被害甚大、本丸を守る左右の曲輪が使い物にならず、共に左右の出丸も失陥しました。もう残る土塁は本丸のみです」
「なんと…！」
「兵も士気も未だ軒高、しかし防御の盾が残り一枚なのです。ですので場合によっては本丸を打ち捨てて二の丸で戦う事にもなります」
「嫌でおじゃ〜！」
あここの方が叫んだ。
「わらわは戦などみとうない！ 他所でやってたもれ！」
「黙れ小童（こわっぱ）！！」
あここの方を一喝したのは…なんと土田御前。がばっと前を開き、片膝に肘を乗せ、あここの方をじろりと睥睨する。
「ワシらの頃なんざ、女といえども無残に野辺の骸となるのが日常茶飯事じゃったわ。嫌ならお主も文句ばかり言ってないで、精一杯宿命に抗え」
土田御前が喋った事に、一同、狐に包まれたかのようにポカンと口を開けている。
「蒲生、二の丸まで下がるとどうなる？」
「……は、はは。敵方の兵も消耗しています。本丸が落ちてもまだ戦う意思を見せれば、戦意消失して撤退することは十分あり得ます」
「…希望的観測だけか？」
「いえ……実は未だとっておきの秘策が残っているのです。この秘策が発動されれば、間違いなく敵は逃げ惑う事となりましょう」
「その秘策とは？」
「…秘策は、言わないから秘策なのです」
「ふん…重畳」
何か値踏みするようにこっちをジロッと見つめると、土田御前はまたいつもの調子に戻った。
背中に冷や汗をびっしりかいているのは、この夏の夜の暑さだけでは無い筈だ……
「いや〜さすが蒲生様。秘策があったとは見抜けませんでした。まだまだ拙者も至りませぬな」
「なあに……では小倉殿。明日も頼むぞ」
鷹揚に笑って小倉殿と別れた時。「ガング！」と声が掛った。
さっきからこっちをじっと見つめ、一言も発さなかった……お鍋の方だ。
「ガング。主とは付き合いが長いから嘘なんか一発で判るぞ。“秘策”など無いのであろ？」
グッと唇を噛みしめ、顔をクシャッと真ん中に寄せる。そして笑顔に変えてから振り返る。
「ははは…お戯れを、お鍋の方様。それは下種の勘繰りですぞ」
「ガング。無いんだろ！？」
「そんな事はありませぬ。拙者、この戦が始まる前に……」
「無いんだろ！？」
「……」
「武将は辛いモノよの。仲間の動揺を防ぐため、いついかなる時でも常に策を巡らして居る……主の父もそうであったの」
「父上も…？」
「…やっぱり無いのか。」
アア…しまった！ だから幼馴染というのはやりにくいんだ。
「ガング、なんか臭いぞ。人が大切な話をしているのに屁でも漏らしたか？」
「…お鍋の方様、これは屍臭です。初夏とはいえもうすこぶる暑いので、死体が腐（ほた）れてきたのです。この先、この臭いとも我々は戦わねばなりませぬ」
「…戦はエグイのう」ポツリとお鍋の方が呟いた。
もう辺りは真っ暗で、彼我の差すら見えぬほど視界は闇の中にある。
「…昔を思い出されましたか？」
「うむ。昔からガングは頑固すぎてどうしようもなかったの」
「そうでしたか？」
「ガング。わらわに何か出来る事は無いか？ 今なら身分も関係ない。この宵闇じゃ、誰も見てはおらぬぞ？」
「ははは、お戯れを」
「ガング、泣け！」
「へ？」
「ガング、泣いてその背中に背負っているモノを一旦降ろせ。そうでなければ一生その頑固の業を背負って生きる事になるぞ。今ならだれも見ていない、泣いて全てさらけ出せ！」
「…それは出来ませぬ」
「何故じゃ！」
「この背中には貴方への思いも背負っています。この城に居る者全ての命をも背負っています。例え一時と雖（いえど）も下す訳にはいかぬのです」
一拍の沈黙があって泣いている様子の湿った罵声が響いた。
「この……頑愚め！」
屍臭の強い方へと足を進ませながらワシも呟き返した。
「頑愚、か……」
本当は臆病者なだけだ。この期に及んでもお鍋の方の肩一つ抱く事すら、狼狽えてしまう。だが臆病者には臆病者の戦い方がある。明日、是が非でも守って見せる。
「ガングめ……わらわにも考えがあるぞ」
闇の向こうで何か聞こえた気がしたのは、空耳だろうか？
ログインしてコメントを確認・投稿する