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2016年07月02日12:55

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『瞬花終灯(しゅんかしゅうとう)』 第四章『睡蓮の灯り』 PART7

  19.

 次の日、リリーは頭痛で目が覚めた。どうやら酔っ払ったまま寝ていたらしい。慌てて鏡を見ると目が腫れている。

 ……そうだった。

 小さく溜息をつき、昨日の夜を思い出す。あれから桃子の自棄酒に付き合い、椿がすぐに潰れたため自分が付き合うはめになったのだ。その彼女は自分の布団を半分以上占めながらぐっすりと眠っている。

 桃子を起こし朝食に行く準備をする。彼女も大分飲んだみたいでアルコールの匂いを漂わせている。

 二人で念入りに歯磨きをした後、ロビーに向かうと薄暗い中、椿が待っていた。待合室の水槽の光が弱いように感じる。

「春花さん、体調よさそうですね」

「ええ。そういう冬月さんは大分悪そうですね。大丈夫ですか?」

 あなたが早く潰れたから身代わりになったのよ、そういいたかったが、頭に響きそうだったので止めておいた。

 朝はバイキング形式になっており、和食、洋食のどちらも好きなものを選ぶことができた。トレーに紅茶とヨーグルトだけを載せテーブルに着く。

「昨日のリリーさん、店長がいないことに腹を立てて大変だったんですよ」

「桃子ちゃん何をいってるの?」腫れた目で牽制する。「いつもと変わらない状態で飲んでいたので退屈だっただけですよ」

「私も危うく潰れる所でした……」桃子はこめかみを抑えながら低く唸っている。

「どんな飲み方してたんです? 桃子ちゃんが潰れるって……」椿は目を丸くしている。

「瓶ごと……」

「普通ですよ、普通」リリーは笑いながら桃子の口元を抑えた。

「……瓶ごと飲むのが普通なんですね、冬月さん実は強いんじゃ」

「いえいえ、そうではなく……」慌てて弁解しようとした所に女将が突然口を挟んだ。

「すいません、ちょっとよろしいですか?」
 その視線はリリーに対して向けられていた。

「……何でしょう?」
「もしよかったら今夜、鶴の間にお泊りになりませんか? 都合が合えばですが」

「それは……」今夜は泊まることはできない。明日からは通常の業務に戻るのだ。椿達にしても同じだ。

「他のお客様が急遽キャンセルされたんです。それでどうかと思いまして」

 キャンセルしたというのはおそらくストックだろう。彼もリリー達と同じ部屋で朝食を食べていた。その雰囲気は昨日の殺伐とした雰囲気とは程遠く和やかなムードだった。女将の旦那もにこやかだった。やはり椿の案が成功したのだろう。

「せめてお風呂だけでもどうでしょう。貸切ですので、ゆっくりできると思います。よかったら、ですが」

 女将は慎ましくいった。桃子がいる手前、大きくはでられないようだ。どうやら彼女は昨日の恩返しに鶴の間を使って欲しいらしい。

「そうですね、せっかくですし。皆で朝風呂を頂きませんか?」椿は女将の好意に甘えるようだ。

「やったぁ、私も一度いってみたかったんですよ。貸切風呂」桃子も嬉しそうにはしゃいでいる。

「じゃあお風呂だけお願いします」

 彼らが賛成するのであれば自分も乗らないわけにはいかない。それに第三の風呂がどうなったのかは気になる。

 ストックを再び見る。彼の顔には邪気がなく純粋に食事を楽しんでいるように見えた。

 一体、彼を変えるほどの風呂とはどんなものなのだろう。
 
  20.

 リリーと桃子は早速着替えとタオルを持ち一階に向かった。朝風呂に貸切とは贅沢なものだ。椿を待つためフロントで待機しているが未だ来ない。

 ……ん、そういえば。

 リリーの頭にふと疑問がよぎる。貸切風呂というのは男湯と女湯があるのだろうか。

 ……いや、あるはずがない。

 このままでは椿と混浴になってしまう。女将を探そうとロビーに向かおうとすると、桃子が宥めるようにいった。

「いいじゃないですか。二つ目の温泉では二つの樽湯があるんですから一人ずつ専用の温泉があるんですよ」

「えっ? 二つしかないよ、足りてないよ」

「大丈夫ですよ、お客さんの体なら見せても恥ずかしくないですから」女将が目の前を通りながらいう。

「そ、そういう問題じゃないですよ」

 こんなひどい状態で椿に裸を見せられるわけがない。しかもこのままでは桃子と共に見せることになるのだ。彼女の胸にちらりと視線をやる。私のサイズではとても太刀打ちできない。

「桃子ちゃんはいいの? 男の人とお風呂入って」

「え、別にいいじゃないですか。店長なら大丈夫ですよ。変なことにはならないです」

「でも……」桃子の胸に再び目をやる。やはり分が悪い。

「店長と一緒にお風呂入る機会なんて滅多にないですよ。あ、そうだ。私、最初は大浴場に行ってきます。後で露天風呂に入ろっと」

 桃子は独り言をいいながら大浴場の方に曲がろうとした。

「えっ? ちょ、ちょっと、二人で入れってこと?」

 リリーは必死に抑えようとするが桃子は止まらなかった。

「いーえ、そうはいってませんよ。ただ私は気が変わったので先に大浴場に行ってきます」桃子はニヤニヤしながらスリッパの音をぺたぺたと立てながら進んだ。

「あ、ちょっと、桃子ちゃん」

 リリーの叫びを無視し桃子は闇の中に消えていった。大浴場の方に向かおうとすると女将に肩を掴まれた。

「大丈夫ですよ、きっとお客様は満足すると思います」

「ええっ? それ以前に私達、そんな関係じゃないんですよ。ただの友達なんです」

「だったら友達からレベルアップしたらいいじゃないですか」

「そ、そんな。いきなり、そんなこといわれても……」

 リリーがあたふたしていると椿が降りてきた。

「お待たせしました。あれ、桃子ちゃんは?」

「連れの方は別府の景色をもう一度みたいといって大浴場に行かれましたよ」女将が答えた。

「あ、春花さん。なんか浴場は一つしかなくて……」

「ああ、そういえば……」椿は口をつぐんだ。

「それでですね……いいにくいんですが」

「そうですね、僕も大浴場の方に……」

「もうっ。じれったい」女将が一喝した。「何をいってるんですかお二人は。仲良く二人で行ってきたらいいんです」

 女将に引きずられ貸切風呂に向かわされると、亭主が玄関から登場した。

「お、露天風呂に行かれるんですか。そいつはいい、是非満足できると思いますよ」

「あ、お帰りなさい。お客様は?」女将が振り向く。

「ストックさんは帰ったよ。どうやら立ち寄る場所ができたらしい」

「えっ、もう帰ったんですか?」

 リリーは女将に掴まれながらいった。彼の答えを聞いていないのに、まさか実の娘を置いて逃げたのだろうか。

「たった今ね。そうそう、これをあなたにと……」亭主はリリーに封筒を渡してきた。

「何でしょう、これは?」

「風呂に入った後にでも読んで下さい。それよりお嬢さん、是非早く入った方がいい。今までに味わったことがない温泉を味わうことができますよ」

「え、でも」

 仙一郎はリリーの言葉を無視して続けた。

「温泉っていうのは心まで洗うことができるんだ。この別府の町はね……」

「さあさあ、お二人方、案内しますよ。こちらへどうぞ」女将がさらに仙一郎の言葉を無視した。「旦那の話を聞いていたら日が暮れますよ、さあさあっ」

 彼女の勢いに押されリリーは離れにある貸切風呂に一人で突っ込まれた。

 ……しょうがない、こうなればヤケだ。

 リリーは全ての衣類を脱いで脱衣篭の中に放り込んだ。椿に見られないよう籠の上に小さいタオルをそっと敷いて置く。体にバスタオルを巻いて風呂の戸を開けた。

「お嬢さん、入りましたね。それじゃ彼氏さんを投入しますよっ」

 ドスンという鈍い音が聞こえる。

「それじゃ、ごゆっくりっ」

 その次にはバタンという戸の閉まる音が鳴った。

 ……と、とりあえず、浸からなければ。

 足早に風呂に潜り込む。本来ならタオルを巻いて入るのはご法度だ、しかし今日はそんなことはいっていられない。

 心臓はすでに大きく唸っている、湯船が心臓の鼓動で波紋を広げるのではないかというくらいに。

「冬月さーん」椿の声が響く。

「は、はいっ」

「やっぱり僕、大浴場に行って来ますよ」椿は申し訳なさそうにいった。「今は一つ目のお風呂に入っているんですよね?」

「は、はい」

「三つ目のお風呂の感想、聞かせて下さいね」

 心の中で葛藤が生まれる。昨日椿が細工をした風呂を楽しんだのは亭主とストックだけ。当然彼も楽しみにしていたのだろう。

 リリーは体に巻いたバスタオルを眺めた。大丈夫だ、次の温泉は樽湯だし別に見られることはない。

「あ、あの」蚊も鳴かないくらい小さい声が浴場に広がった。

「はい?」

「……いい、ですよ」

「えっ?」

「ちゃんとタオル巻いてますし大丈夫です。春花さんも楽しみにしていたと思いますし」

「いいんですか?」

 ……勢いだけじゃない。
 心構えはもうすでにできている。後は、彼にきちんと伝えたいことだけを述べるだけ。

「……大丈夫、です」

  21.

「……そうですか、それじゃ入りますよ」椿が服を脱ぐ音が聞こえる。

 リリーは自分の頬を触った。火傷しそうなくらい熱くなっている。もちろんこれは風呂に浸かっているからではない。

 どうやら服を脱ぎ終えたようだ、彼が扉を掴んでいる姿が見える。

「実はですね。リリーさんとこのお風呂に入りたかったんですよ」

「へっ?」

「いえ、決していやらしい意味ではありませんよ。ただどういった感想が貰えるかなと思って」

 何について? とリリーは答えようとしたが口が動かなかった。そのまま押し黙る形になる。

「入りますよ」
「ど、どうぞ」

 ……落ち着け、落ち着くんだ。
 呼吸を整え無理やりいい聞かせる。しかし彼のタオル一枚姿を見た瞬間、再び動悸が走る。

「……ここに入っていいですか?」
「ど、どうぞ」

 リリーは直視できず顔を背けたまま答えた。二人分の重みでお湯が溢れていく。水音が流れると共に自分のの心にも激しい波が襲う。

「ふー、やっぱり冬は温泉ですね」

「春花さん、私、次のお風呂いっときますね」

「はーい」椿は首を回しながら答えた。

 目の前にある扉を開け樽湯に入った。一人用の風呂に浸かると身を守る鎧を装着したようで心の底からほっと吐息が漏れる。炭酸の泡が体をほぐしてくれるようだ。

「僕も、そっちいっていいですか?」
「も、もちろんですよ」

 リリーが答えると、彼はゆっくりと反対側の樽湯に浸かった。

「いい湯だなぁ。冬月さん、本当にありがとうございます」

 椿は頭にタオルを載せながらいった。

「冬月さんが事件を見抜いたからこんないい温泉に入れたんです。僕の貧しい給料じゃこんないいお風呂には入れないですからね」

「いいえ、そんなことないです。春花さんが助けてくれたからですよ」

「いえいえ、やっぱりそれは違いますよ」椿は真面目な顔で答える。「冬月さんが今回の事件を公にしなかったからだと思います。警察官としての立場を振りかざさなかった。だからこの旅館はきっと再生しますよ」

「正直、その件についてはまだ迷っています……」リリーは目を伏せて静かに続けた。「今回の私の判断は決して正しいものではありません。警察官という立場から見れば間違いなく失格です。でも……」

「でも?」

「私はあの人にかけてみたくなったんです」

 正直に思ったことを告げる。

「罪を犯そうとしたことは一生消えません。ですが人の心は枯れても再び芽が出ます。あの人ならきっと立派な花を咲かせることができるのではないかと思ったのです。もちろん私は裁判官のような立場にはありませんから、私が決める資格なんて元々ないんですが」

 この問題に正解はないし、不正解もない。心の葛藤は今でも自分の胸の中でうごめいている。

「大丈夫、冬月さんの対処がベストだったと思いますよ」

「……そうでしょうか」

「そうですよ」

 椿にそういわれると安心する。肩の力を抜くと、彼の心に触れた気がした。

 ……次は私の番かな。

 リリーは心を決めて尋ねてみた。

「……あ、あの。一つ尋ねても?」

「ええ、何でしょう?」

「お、大阪は……どうでした?」

「ああ、とってもいい所でしたよ」

「いえ、そうではなくて……」再び体中が熱くなっていく。「お墓参りはきちんとできました?」

「ええ、おかげさまで。二回目のお墓参りで時間に余裕があったのでついでにお寺巡りができました」

「法隆寺に行かれたんですよね? 桃子ちゃんにちょっとだけ聞きました」

「そうなんです」椿はゆっくりと頷いた。「法隆寺はですね、元々妻の好きな所だったんです。何回か行ったことがあったんですけど、やっぱりいい所でした」

「たとえば……どんなところがですか?」

「そうですね……。今の世界は当たり前じゃないってことを感じとれた所ですかね」

 椿は穏やかな口調で続ける。

「今こうやって僕達が存在しているのは当たり前じゃないんです。僕にはもちろん両親がいて冬月さんにもいて。その連鎖があるから僕達はこうしてこの場で話すことができています。これって当たり前なんですけど、当たり前じゃないんです。偶然の重なりなんです」

「そういわれると、凄い偶然が重なっていますよね」

 確かに、とリリーは思った。最初に彼と出会った時点で一緒に風呂に入ることになるとは想像もできない。こういった未来も偶然の重なりからだろう。

「法隆寺も同じで僕達の中では当たり前に存在してます。学校で習いますし名前を聞けば何となく想像はつきます」

 椿は熱を込めて答える。

「でもお寺だって生き物なんです。何もしないで維持しているわけじゃありません。そこには昔の宮大工から今の宮大工への連鎖があるんです。だからこそ今の法隆寺は現代に残ることができているんです」

 椿のいいたいことはわかる。存在しているから当たり前のように思ってしまうだけで、全ての五重塔が法隆寺のように現代に存在しているわけではない。あり続けることで当たり前だと錯覚してしまうのだ。

「妻はそれを知っていたんです、僕と出会う前から。純粋に一本の檜から心を読み取るようにして建物と会話していました。今になって僕は彼女の気持ちを知ることができたんです」

 ……やっぱり彼女には勝てない。

 椿の妻を想像しいいようのない焦燥感を覚える。彼の心の中では未だ彼女が大きく占められているのだ。予想はしていたが、まさかここまでとは……。

「そうですか……」

 リリーはうな垂れて樽の中で身を丸めた。しばらく沈黙が続き湯の中の泡がモクモクと音をたてるだけになった。

 泡の音が突如消えた。その時、椿はぼそりと呟いた。


「……冬月さんと一緒に見たかったなあ」


「えっ?」

「屋久島に行った時のこと、覚えてます? 倒木から生えた小さい花を見て喜んでたじゃないですか。そんな冬月さんを見てこの人はほんとに純粋なんだなと思ったんです」

「ああ、あの時はですね、なんか、その、偶然というか……」

「偶然じゃないですよ」

 椿は微笑んでいった。

「冬月さんが真剣に縄文杉に取り組んだからです。自然と向き合うことができたから、出会えたんだと思いますよ」

 ……ああ、そうだった。

 一瞬の時が過ぎた後、心が震えていることを実感した。これはいつもの感覚とは違うものだと理解できる。椿に褒められると言葉では表せない感情が波となりとめどなく溢れてきてしまうのだ。

 それは彼に認められたという安楽の感情だ。

 ……ここで自分の過去を伝えてもいいだろうか。

 揺れからくる波紋はやがて激しく高ぶる荒波となっていく。彼に今の気持ちを正直に伝えて、自分の気持ちを知って欲しい。

「……今度は私の話をしてもいいですか?」
 リリーは椿を見つめていった。

「ええ、もちろん。聞かせて下さい」

 ……よし、きちんと告げよう。

 リリーは深呼吸をして続けた。

  22.

「……屋久島で母が亡くなってからです。父は苦しみから逃れるように仕事に打ち込みました。やがて暖かい家庭は崩れ母が好きだった庭の花は全て枯れました」

 辛い過去だ。だけど自然と言葉は出てくる。今までプライドの塊だった自分がこんな泣き言がいえるようなっているのは椿だからだ。

「花のように弱いままでは生きていけない、そう思いました。信じられるものは目に見える数字だけ。私はそれから感情を抑え結果だけを追い求めました」

 父の教え。自分にそう言い訳をして数字に逃げてきた。

 だけど、もう逃げない。逃げたくない。

「数字を追い求めた結果、私はいつの間にか花を遠ざけるようになっていました。数字にできない感情を持っても何の特にもならない。春花さんと出会う前は本気でそう思っていました」

 だけど、あなたが――。

「この一年で、たくさんのことを教えて貰いました。春には花に一瞬の輝きがあること、夏には心を奮わせる花があること、秋には……冷えた紅茶がまずいこと」

「えっ?」

「と、ともかくですね。色々なことを教えて貰ったんです」

「は、はい」

 リリーは空咳をし続けた。
「花にはたくさんの魅力があるのに私は目を伏せていました。でもこれからはもっと色んな花を知りたいと思ってます」

 ……あなたと、一緒に。

 リリーが微笑みかけると椿もにっこりと笑ってくれた。

「僕はただのきっかけです。冬月さんが自ら選んだことですよ。そういえば……冬の花の魅力は伝えていませんでしたね?」

「冬の花、ですか?」

 椿の口元がにやっと緩んだ。

「ええ。僕が左の扉を開けるので右の扉をリリーさんが開けてください」

 この奥に花などないはず。あるのは露天風呂だけだ。

 しかし椿はリリーの手を握り扉の方へと促した。

「さあ、一緒に」

 二人は同時に扉を掴み同じタイミングで開放した。




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