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2016年01月17日09:41

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044 夢の光源 全

夢の光源

――これは戯曲連作「風土と存在」第四十四番目の試みである





時 二〇一六年八月二十七日午後一時
所 関東の古民家
人 私





1.藤原景清

蝉が鳴いてますね。私、今は注目されてるからなんとか声通ってますけど、これいったん録音したらね、やってみたことあるんですが、蝉時雨ばっかりでまずほとんど人の声なんか聞きとれませんです。夏にこちら来るの久しぶりなんです。何年か秋にばかり来てまして、十月になると蝉がいないんで静かなんですが、代わりに石焼き芋とかが通り始めますね。あと以前は裏の施設から午後の一時になるとラジオ体操が聞こえてきまして、それが終わってからでないとおはなしを語りだすとかいうわけにもいかなくて、ことほど然様に、音っていうのは空間なんだなあと思います。去年は「声はどこから聞こえてくるか」という題名で、舞台になってるこのお座敷にほぼ俳優が「いない」というお芝居をしてみました。声だけが聞こえてくる。あれはなんだったんだろうなあとずっと考えてます。蝉時雨も含めた景色の中に私たちがこうして座ってる。この古民家は二百年くらい前からあるんですが、そのかん、ずいぶん色んな人がこうして座敷にすわって、風を聞いたりとかしてた。もちろん今日来て下さった皆さんはわざわざ来て下さったわけですからちょっと珍しい体験として今いらっしゃるんでしょうけれども、もしね、ここに住んでた庄屋さんとか近所の人とか、あとそこの後ろの格子に猫用の出入口が切ってあるんですけど見えます?…猫とか、普段ここで暮らしてる人たちなら、今の僕らみたいに、あ、蝉だ、あ、風で竹藪が鳴ってる、とかいちいち思わないんじゃないか…。思わないんだとしたら、どうやったらそれを思うように持っていけるのか。お正月に獅子舞が来るとするじゃないですか、その縁側の外でバクバクやると。そこで見えてくるのはいわゆるお獅子に入ってる俳優さんではなくて、もっとこう、獅子舞のある暮らし、その暮らしに属してるじぶんとその暮らしを取り巻いてる景色、みたいなもんなんじゃないかと思います。そうやってじぶんとじぶんを取り巻く景色とが鮮やかに再発見されるための仕掛けとして僕ら俳優がいるのであるなら、その活躍はできたらなるべく少ないものでありたいと僕は思っていまして、本当ならぜんぜんいなくてもいいんだけどそれじゃいくらなんでも成立しないので、なるたけ控え目にいるようにしたいと思って、それで「姿なしの声だけ」みたいなことをやってみたかったのかなあ、ていう気がしています。

以前ちょっと体をこわしまして自宅の二階で寝てた時に、障子に日が差して、隣の屋敷の欅の枝が揺れる影が映るんですね。その時、ああ僕は何を見てるんだろうと思いまして。私、目が悪くてものの形がスペクトル分解して見えるんです。両端が青とオレンジに縁取られて見える。そう見えるていう人と会ったことないのでいつもなに言ってるんだって顔されますが、こう手に触って肌で感じるじぶんの手と、じぶんの目で見えてるじぶんの手とが、こう、たまたま同じ位置にあるだけで実は物質的には別物なんじゃないかというような感覚をずっと持っています。

 ほのあかるい部屋 障子のやぶれを
 たたみに寝ころび ぼくは見ていた

 それは一月の午後
 午後早くの出会い
 めざめたまどろみ
 二本指目にかざし
 近づけ 遠ざけて
 いびつな穴ぬけた
 白いそらを見てた
 ひかる白いそらを

 (地鳴きはきこえ たたみはひやり)

 破れのいっぽうは
 オレンジのふちで
 はんたい側の縁は
 透きとおった青で
 ひろげた手の平も
 きれいな二色の縞
 傷だらけの箪笥も
 ふたいろの交差点

 (地鳴きはきこえ たたみはひやり)

 とおくの竹やぶに
 身をのりだしたら
 そこはもう二色に
 別れていなかった
 大人になってから
 誰に訊いてもその
 青とオレンジとを
 見たひとはいない

 でも不思議は続く ぼくは見ている
 世界をかたどった あのプリズムを

見える、ということは、いったい何なんでしょう。見えるから存在するのか、見えなくても存在するのか、存在しなくても見えるのか、見えることが存在なのか。ここにこの手が物理的に存在することは間違いないでしょうけど、それが「見える」ことには何か意味があるのだろうか。目のない生きものなどいくらでもいますが、彼らが視覚を持たないことを不便に感じているはずはないですからね…。見える、映像を感じることは、まずは明るさを感じることですから、初めは肌の日焼けみたいな現象が次第に進化してここにレンズが生まれ、やがて受像装置に仕上がっていくわけでしょう。それは分かる。でもずっと気になってきたのは、真っ暗なところで夢を見るとき、その映像の光源はどこにあるんだろう、ということです。夢ですから眼球を光が通って視神経に到達して映像として脳が感知するプロセスのどこかに誤作動があって、物理的には存在しない光源を存在するものとして認識してしまうわけでしょう。それはいい。いいんですが、存在しない光を感知するなどということがなぜ起こるのか、ずっと不思議でした。

山口県のカルスト台地、秋芳洞のすぐ近くに「景清洞」という鄙びた鍾乳洞があります。真ん中らへんまでは普通にくぐって歩けるんですが残りの半分は水が溜まっておりまして、初めに入口で長靴とヘルメットと懐中電灯を借りて入るんですね。今でしたら懐中電灯ですが昔はロウソクです。かなり奥の方まで行っても壁や天井に煤(スス)で記念の落書きがあります。それが「文久三年 留吉」とか「嘉永何年 誰々」とかいう古さ。元々ここは壇ノ浦に近いため源平合戦の第一陣侍(さぶらい)大将上総の介悪七兵衛(ビョウエ)藤原景清が落ちてきて残党ともども鎌倉への再蹶起を企んだと謂われているところでありまして、真偽のほどはともかく寿永4年までも遡る歴史を背負っているとされております。いや実に奥深くてもちろん電灯を消せば文字通りの暗黒です。目を開けても閉じても変わりません。そういえば景清には何故かいくつもの失明伝説が残っておりまして、入口すぐのところに独鈷水(おこうずい)という目洗いの湧き水があったりもし、盲目の落ち武者が暗黒の洞窟でレジスタンスをかこつ怨念にはやはり何か感じるものがあります。ひとり一片の苔もない乾いた岩に腰掛けて800年の昔に思いを飛ばしてみようと電源を落としました。すると――、

見えるんです。カルストを駆け抜け赤間ヶ関に向かう騎馬の群れが。ドドドド…、跫音までもともなって、ありありと闇に浮かぶんです。塗籠籐(ぬりごめどう)の九尺の弓に黒手矧(は)ぎたる矢は十五束、やがてわえに乗り源氏に対すること三町、舳先は馬手の火の山に向け、水主楫取(かこかんどり)、櫓櫂引き締め押っ付けひと潮乗り切り、長門は満珠干珠を漕ぎ越えて、半刻(とき)がうちにはむくつけき吾妻男のしゃっ頚をば手に取り打ち見なんとす。

あれは何だったのか。夢が記憶のカクテルならばあれは私の記憶ではない。夢の光源を脳に求めることは果たして正しいのだろうか。知っているとは何でしょう。記憶が遺伝しないことは分かっているとしても、夢は果たして脳から生じるものなのか…。動物に限っても、脳は脊椎の一部ですから、脳のない生き物の方がはるかに多い。目のない生き物はさらに多い。それなら。私たちがこうして田舎の座敷を見ているというような認識よりはるかに古く、生き物は視覚を通さずに周囲を感知していたはずで、目がなくとも何らかの映像を受信することもなかったとは言えなく、ただこうして目を開いていると光学的インプットが強烈すぎるために記憶以前の映像が日なかはかき消されているだけなのじゃないか。夢が奔放に活動するのはレムの眠りのためというよりも、記憶以前の非視覚的形質を現在の脳が翻訳して視覚化しているということなのではないか――。私たちは、果たしてどこまで、個体の経験によらない過去の拡がりに向けてダイヴできるのだろう。そんなことを考えています。


2.カルマ・チョペル

「チベット人の知り合いがひとりもいない」と書いたことがありますが、「今ではひとりもいない」が正しいです。なぜなら、死んだから。民族紛争に巻き込まれての戦死です。でも彼は漢族にやられたわけではなかった。少しそのことについて話します。チベット弾圧をきっかけにネット上では中国バッシングが始まりました。2008年のことです。全員死ねばいいのにとかもうつきあわないとか支那畜とか近視眼すぎてあきれかえるばかり。まあ言うだけならタダだから言ったもん勝ちだと思ってるんだなという以上の感想は持てませんが、少なくともぜんぜんチベット自治支援にはなってないです。日本政府と日本人が別物であるようにチベット仏教本山とチベット人も別物なわけですし、中共と漢族も別物であるのは当たり前のことですんでまずそこを分かってほしいと思いつつ、じゃあ私自身は誰の心情に組みするのかという問題があります。あと誰に加担するかの拠りどころを持たない人は別によその民俗自治区の件に首を突っ込む必要も実力もないんじゃないかとも思う。ただチベットについてすでに長編を書いてしまった者としてはじぶんが何を考えて執筆したのかをいつまでも考え続ける義務があるだろうし、考え続けることによって出てくる中間報告は、なぜいま中国批判をしないかの傍証にもなるかと思います。

1990年5月、ヒマラヤ南麓旧シッキム王国の入境許可が出ました。シッキムはかつて中国・インド・ネパール・ブータンに囲まれる山中にあったチベット族唯一の独立国家です。1973年、インドにより無理やり吸収合併の憂き目に遭います。しかもその方法たるや、軍事侵攻とかではなくて当時の国王を金髪美女とドラッグとでジャンキーにしてしまうというちょっと唖然とするようなやり口だったものでたちまち独立派ゲリラが発生、以来アッサム諸州と同じように政情不安を理由に外国人の入境が禁じられていました。そこが17年ぶりに開く。そのニュースを聞いた時、私たまたまカルカッタにいたので直行し、首都の入管で記名したら1番目でした。つまり私は外国人観光客としてシッキムに入った最初のひとりです。

首都ガントックで泊めてくれたのはラサ出身のチベット人でした。名をカルマ・チョペルといいます。中国側から出稼ぎでシッキムにやってきて、ブータン人の恋人ができそのまま結婚定住。ところが併合に遭い、中印紛争の折から中国に戻る道も閉ざされガントックで宿屋を経営したりとかして生きてきました。私は初め宿の客として彼を訪れたのですがあいにく満室で困っていたら、彼がじゃあ俺の自宅の方に泊まれよ、金は要らんよと言いました。インド人が絶対に金は要らんと言わないことに慣れてたもので久々に聞く無償の善意にひどく驚いたのを覚えています。何日か泊めてもらって、噛みタバコやキンマを噛み、互いに料理を食わせ合い、呑みに行き。インド人は基本呑みませんので町に酔っ払いがひっくり返ってるのとかも久しぶりで、正直チベット人だらしねーと思いましたがこれは脱線。呑むと彼は実によくしゃべります。「生き抜いていくだけさ」と言いました。どうしてチベットを離れてわざわざこっちに来たのか?という問いには、ヒマラヤ越えのルートがいかに険しいか、しかし山越え全ルートの中ではシッキム経由の山道がそれでもいちばんマシなんだ、鍋釜しょって女子ども連れでも通れる唯一のルートなんだ、それならインド側にチベット人の小さな領域があっても不思議じゃないだろう?とむちゃくちゃ巨大な視点でものを語るのでした。「結婚したら、嫁を連れて、また来い」となんべんも言いました。ふたり泥酔しながらインドでは見慣れないカワサキのどうやら密輸っぽいバイクで山道を登り、出国チェックポストまで行きました。ただ遮断機が下りているだけでした。夜なためか係官もいない。「この向こうにチベットがある。だが俺はこっち側で生きていく」と酔っ払いは言い、暗い谷に向いて叫びます、「ラーーーイフ!」。大麦の焼酎アラはたいへんに強烈で、さんざんコケてバイクを傷だらけにしながら大笑いで帰りました。思えば危なかったですね。

帰国後数年経ってシッキム情勢は再び悪化して、おいそれと入れなくなり今に至ります。インド軍はシッキムの男たちを徴兵し、無関係の戦地に送りました。カルマ・チョペルの最後の葉書はジャムー・カシミールからでした。カラコルム・ハイウェイの警備のために招集されたという。カラコルム・ハイウェイといえば一帯一路、ウイグルからイラン方面をつなぐシルクロードのヒマラヤ越え隘路クンジェラーブ峠を擁し中国・インド・パキスタン・アフガニスタンの接するきわめて政情不安定なところ。そこで彼は国境警備隊としてパキスタン正規軍と対峙することになったのだといいます。なぜチベット人が…。さらに数年後、ガントックの実家に送った葉書に、彼の家族からの返信が来ました。彼はそのままそこで戦死していました。名も無き小競り合いで撃たれて。

ちょっと整理しましょう。少なくとも6つの国家と亜国家、すなわちチベット・中国・シッキム・ブータン・インド・パキスタンが彼という「あるひとりのチベット人」を翻弄したわけです。彼がどのくらい国粋主義者でどのくらい解放された個人だったか、そんなことは分からないしどうあるべきかも分かりません。でもはっきり言えることは、彼は「チベット対中国」の構図を生きたわけでは全くない。そして彼に似た立場の何万人かが住むコミュニティがヒマラヤには今も転々と存在する。そこではチベット族なるものは私たちが安易に想像するような中共と対峙するダライ・ラマ勢力の傘下にある人々ではなく、幾多の東南アジア諸部族の一員として本人たち自身に自覚され生きられている。そういう数多くの部族と、無数のそれぞれの立場の総合としてあの地域一帯の生きる意欲であるとか政治性であるとか恋とか金儲けとかはあるのでしょう。チベットバッシングをする中国をバッシングするなんていう楽ちんな方法ではどこまで行っても彼や彼らが実際に何をどう生き望み食い眠っているのか理解するところまで行けないに違いない、それはただの情報消費でありヒマ潰しにすぎまいとも思います。そして無理解のまま、さらにいえば知識も馬力もセンスも金も人望も我慢も責任感もすべて欠如したままただ思いつきのように「人殺しは悪い」とかなんとか言っても、それは現地民や実際にチベット自治支援に関わっている人の心を動かすことは遂にないだろうし無駄なばかりか有害だろうと私は思います。唐突なようですがアジアに生まれ生きて良かったなあと思うのは、

「アジアには、鎮魂の感覚がまだ生きている」

というこの一点についてです。世の不合理に対して怒ったり声を上げたりするのもいいでしょう。でもその根拠にあるのが「正義へのあこがれ」であったりとか、ましてや「中国嫌い」とかであったりするのだったらそれは実に下らん。死者を思うこと。じぶんの身体性の根っこが祖霊と通じているどうしようもない直感。それが根拠になっての「声」であれば信用できる。カルマ・チョペルを思うことをすっ飛ばして「チベットを」思うことなんて私にはできないのです。当たり前のことですが。


3.田所雄介

首都高速川口線をのぼって行くと荒川と芝川の合流のあたりで五色桜大橋が見えてきます。飛鳥山トンネルから山手トンネルに抜ける線で普段からひじょうに重宝してるんですが、今年の初夢はね、あれがジェットコースターのループみたいに縦に一回転してる夢でした。夢でもカンカンに晴れたお正月の空でした。お正月の空の下、巨大なコンクリートの構造物がえんえんと広がっている東京でした。まるで珊瑚礁みたいだ、と思いました。

似たことを思ったことがあります。あれは韓国の統営(トンギョン)という港町に取材に行ったときのこと。あちらの魚市場は日本と少しシステムが違って、道端のたらいで貝むいてるような普通のおばちゃんが直接競りに加われるんですね。チョゴリのおばちゃんが競り帽かぶってメガホン持った競り人のあとをぞろぞろついて歩いてる。パイロットフィッシュのあとをついて泳ぐ魚の群れみたいです。町外れに弥勒山ていうちょっとした山がありましてリフトで登れるんですが、てっぺんから入り組んだ湾を見下ろすとビルだのバザールだの造船所だのが犇めいてそれこそミニチュアの珊瑚礁みたいに見えてきます。で思ったんですが町っていうものは、似ているだけじゃなくて本質的に珊瑚礁と同じものなんじゃないのか。小松左京の日本沈没で伊豆小笠原へ調査船が出まして、冗談紛れに「太平洋海底山脈スカイライン」とか言ってると、地球物理の田所教授が口を挟みます。「笑いごとじゃないぞ。君はどう思うね? 炭酸カルシウムを定着させて共同骨格をつくるという点で、造礁珊瑚とコンクリートの近代都市をつくる人間と、どれほど違うか」。

五色桜大橋は環状線に架かっています。街道というものは村と村を繋ぐものですが環状線は道と道を繋ぐためそうとう大掛かりな都市計画があって初めて設計されるものです。現にこの橋の完成までには首都高構想から実に43年もの時間がかかっている。あの部分がないために何て不便な道路だろうと実態をつかまないままもう死んじゃった人だって大勢いるでしょう。でも完成してみれば町は実にスムーズに回転し、人々は都市に依拠して生きるようになる。

干潟や遠浅には無数とも言えるベントス――底棲生物――たちの生活環があってその多様性が魅力でもあり環境の底力でもあるわけですが、珊瑚礁を造営しているのはサンゴ虫だけです。そして都市を造営しているのは私らホモサピエンスだけ。都市にも珊瑚礁にも実に様々な生き物がいるけどインフラ建設は極めて限られた種のみがおこなっている。これは特殊なことです。サンゴ虫はクラゲやイソギンチャクの仲間ですからどの種もカルシウムを分泌するわけではない。人間も樹上生活をやめてから家を建てるまでになるにはおそらく何百万年かを費やしているでしょう。じゃあ、いったい何をイメージして建造物というものは始まったんでしょう。穴居生活を参考に屋根を載せてみた。ほんとうにそうなのか。経験則だけでこの複雑な都市が構築できるものなのか。

景清洞の闇にいるとき、私は家屋などは連想しなかった。密閉された暗黒で脳裏に浮かんだのは馬の群れだった。景清(かげきよ)だってそうだったんじゃないでしょうか。構造物はすでにあるものからの連想によってではなく、記憶にすらないはずの未来や外部とじぶんらを繋ぐものとして発想されたんじゃないでしょうか。夢の光源が記憶にあるなら知らないものは見えないはずなのに夢は実に奔放です。それは私らが未来と外部に思いを馳せることによって夢を生み出しているからなんじゃないのかなあと、何となく思っています。

(二〇一六年一月十七日午前四時四十六分)







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