昨 5月5日の “DAILY NEWS” の1面には、デカデカと、
NO PHOTO FINISH
という見出しが並んだ。
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つくづく、英語というのはフシギな変化を遂げた言語だと思う。超然的に進化してしまったのだ。
印欧語族というのは、もともと、屈折語と言って、単語の文法的な役割を示すために、語尾のみならず、語幹の母音までも変化する言語だった。
英語の場合、現代では “不規則変化” とみなされる、一部の基本的動詞にしか、その名残は見られない。形容詞は格変化をいっさい失い、名詞は、所有格の 〜's と複数の 〜s を残すのみである。
こうした単純化を起こしたのは英語だけではない。ラテン語の末裔である、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ことごとく格変化を失った。
実は、ドイツ語もほぼ格変化を失っている。ドイツ語で定冠詞が頻用されるのは、名詞の格変化が退化してしまったからだ。それは、フランス語では単複の区別さえなくなってしまったために、やはり、定冠詞に頼らねばならないのと同じである。
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形容詞や名詞が格変化を失ったり、動詞が人称変化を失ったりすると、必ず起こる現象がある。
文章の語順が固定化される
のだ。中学校の英語で、 S−V とか S−V−O とか、さんざん覚えさせられたのは、英語が変化を失った言語だからなのだ。そのような変化を遂げてしまった言語を、
“分析的言語”
という。
こういう言語の在り方は、しばしば、その言語の話者に錯覚を起こさせる。すなわち、
「自分の言語は、論理的で、明晰だ」
という誤解だ。単に、語順を固定させないと何を言っているかわからなくなってしまったにすぎない、ということを理解しない。
かの文豪、ヴィクトル・ユーゴーでさえ、
「明晰なフランス語をもって、蒙昧なアフリカの民を
啓蒙するのがフランス人の義務だ」
と考えていた。知識人によっても、植民地政策が正当化されてしまったウラには、こうした思い違いがある。
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印欧語は、もともと、すべての形容詞・名詞が変化することで、「てにをは」 をハッキリさせていた。また、動詞も、人称変化を含め、すべての変化がハッキリしていたので、「いつ、誰が」 ということをハッキリ示していた。
だから、印欧語では、
語順は自由であり、 I だの you だの、といった主語は不要だった
のである。
現代でも、ロシア語のように、きわめて古い変化の体系を保存している言語では、語順はかなり自由である。とりわけ、詩のように、韻をたいせつにする言語表現では、この自由さが発揮される。
昨日、ちょっと話題にした、スターリンの大粛清の話。オシップ・マンデリシュタームというアシュケナージ系ユダヤ人の詩人がいた。彼は、スターリンを揶揄する風刺詩をつくったため、逮捕され、流刑になり、極寒の地で死んだ。
彼が有罪とされたのは、スターリンのヒゲを嘲笑した次のような表現だった。
тараканьи смеются усища
tarakán'ji smjéjutsa usíshcha
[ タラ ' カーニイ ス ' ミェーユッツァ ウ ' シーッシャ ]
英語に逐語訳してみる。
cockroach's laughs mustache
「ゴキブリの/笑う/口ヒゲ」
どうだろう。上の英文が解釈できようか。できないね。ロシア語の原文の単語を、それぞれ、
(a) (b) (c)
としてみよう。そのとき、
(a) は (c) にかかる
のである。外国語といったら英語しか学んだことのないヒトは、動詞をはさんだ2語が修飾関係にある、という語順が信じられないと思う。
тараканьи tarakan'i 「タラカニイ」 というのは、
таракан tarakán [ タラ ' カン ] 「ゴキブリ」
という名詞の形容詞形である。「物主形容詞」 (ぶっしゅけいようし) と言って、所有格 (属格) と同じ働きをする形容詞形だ。
тараканий tarakánij [ タラ ' カーニイ ] 「ゴキブリの」
この形容詞の 「複数・主格形」 が
тараканьи tarakán'ji [ タラ ' カニイ ] 「ゴキブリの」
なのだ。形容詞が 「複数・主格形」 であることを判断材料として、ロシア語の話者は、修飾されている語を探す。すると、動詞をはさんで、「複数・主格形」 の名詞が現れるので、修飾関係を見出すことができる。
印欧語では、本来、このような語順さえ可能だったのだ。語順は、「強調」 であるとか、「詩作における韻」 などで高度に操作された。むしろ、
現代フランス語のような “明晰な言語” などより
よっぽど高度な言語活動
だと言える。
усища usíshcha [ ウ ' シーッシャ ] 複数・主格
といっても、初学者はこの単語を辞書で見つけることができないかもしれない。
ロシア語で、「口ひげ」 は、
усы usý [ ウ ' スィー ] 「口ひげ」
と言う。これは複数形だ。つまり、通例、複数形でしか用いられない名詞なのである。
こうした、「常に複数である」 という判断は、言語ごとに異なる。英語では、 mustache 「口ひげ」 は単数形で用いる。しかし、ロシア語話者は複数だとみなすのである。
ロシア語では、「頭髪」 も волосы vólosy [ ' ヴォーろスィ ] という複数形を使う。(現代口語では単数も使う) つまり、「毛」 について、英語話者は 「かたまり」 でとらえ、ロシア語話者は 「あつまり」 とみなすわけだ。
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ロシア語は、接尾辞の種類がひじょうに多い。指大辞 (大きなものをいう) には、
-ище -ishche 男性/中性
-ища -ishcha 女性
を用いる。男性形は -ищ -ishch とするほうが規則的なのだが、おそらく、口語での理解に支障をきたすらしく、中性形をもって男性形にあてる。本来、男性名詞でありながら -ище -ishche の語尾を持つものは、文法上は男性と扱う。つまり、修飾する形容詞は男性変化をする。しかし、 -ище -ishche という語尾を持つ男性名詞じしんは、中性名詞の変化をする。
つまり、 -ище -ishche の語尾を持つ単語は、つねに、中性変化をするのだが、この変化については、
複数主格に -а -a / -и -i の2形がある
のだ。どちらを使うかは、話者の任意である。
ロシア語で、「口ひげ」 は усы usý [ ウ ' スィー ] と申し上げたが、単数形は、 ус ús [ ' ウース ] 「口ひげの毛の1本」 である。つまり、男性名詞である。
これの指大形は、指大辞 -ище -ishche [ 〜 ' イーッシェ ] を付けてつくる。語形は中性形だが、男性名詞であり、ただし、語形変化は中性である。
усище usíshche [ ウ ' シーッシェ ]
「大きな口ひげを構成する毛の1本」
これは、理論上の単数形であり、通例、こんな単語は使わない。「大きな口ひげを構成する毛の1本」 なんて表現は必要ないもんね。
だから、「大きな口ひげ」 の全体を言う複数形にする必要がある。先ほど申し上げたとおり、 -ище -ishche の複数・主格には、どちらでもよい、2通りの語形がある。
усища usíshcha [ ウ ' シーッシャ ] 「大きな口ひげ」
усищи usíshchi [ ウ ' シーッシィ ] 「大きな口ひげ」
わが手元にある三省堂の 「コンサイス露和辞典 第4版」 には усищи usíshchi のほうしか載っていない。しかし、この見出しで усища usíshcha もあるのだ、と、判断しなければならない。マンデリシュタームは、「ウシーッシャ派」 だったわけだ。
形容詞と、それに修飾される名詞のあいだに置かれた動詞は、ロシア語で常用される 「笑う」 という動詞の直説法・現在・三人称複数である。「口ひげ」 が複数だからだ。英語で言えば they の範疇である。
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ロシア語の 「指大辞」 -ище -ishche は、単に大きいことを言うのではなく、ニュアンスとして 「卑しむ感じ」 が込められてしまう。
ロシア人の名前のアダ名で、日常、「指大辞」 を使うことは稀だ。たとえば、 Мария Marija [ マ ' リーヤ ] の指大形は、
Машища Mashíshcha [ マ ' しーッシャ ]
だが、 Google のヒット数 51件である。きわめて少ないが、ロシア人なら意味はわかる。
「ウドの大木のマーシャ (マリーヤ)」
というニュアンスになる。
男のアダ名だと、もう少し、使用されることが多くなる。
Сашище Sashíshche [ サ ' しーッシェ ]
「ウドの大木のサーシャ (アレクサンドル)」
これは、 Google で 1,910件ヒットする。
つまり、 усища usíshcha [ ウ ' シーッシャ ] は、単に、「大きな口ひげ」 なのではない。「マヌケなザマのデカい口ひげ」 なのだ。そういうニュアンスを込めないのなら、
большие усы
bol'shíje usý [ バり ' しーイェ ウ ' スィー ]
= big mustache
と言えばいいのだ。そうではなく、「指大形」 を選んでいることにマンデリシュタームの作為があるのだ。
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っとっと、そうではなかった。ものすごい道草を食っちゃった。
“DAILY NEWS” の見出し “NO PHOTO FINISH” である。
英語には、もともと、 photo finish という合成語がある。
photo finish 「写真判定」
である。陸上競技とか、競馬とか、そういうもので言うんだろう。つまり、
no photo finish
というのは、「写真判定なし」 の意である。「写真判定を行わないよ」 ということだ。
この場合、 no は “photo finish” にかかっている。ハイフンを使うと関係がよくわかる。
no photo-finish
である。
カンのよろしいヒトは、もう、わかっちゃったかもしれない。昨日の “DAILY NEWS” の “NO PHOTO FINISH” は、これをモジッた、東スポ並みの見出しなのだ。
NO PHOTO FINISH 「写真を公開しないで、事件に幕」
つまり、米国政府は、殺害したウサマ・ビン=ラーディンの写真は、公開せずに、事件に幕引きをした、ということを言っているのだ。
「写真判定なし」 と何が違うのか、というと、語の結びつきがちがうのだ。やはり、ハイフンを使うとよくわかる。
no-photo finish
こういうことだ。つまり、 no photo という句が、実質的に 「写真なしの」 という形容詞として働いているのである。こういう表現は英語には実に多い。
the Mary Magdalene as Jesus' wife theory
「“マリヤ・マグダレーナ、イエスの妻” 説」
someone else will do it syndrome
「“他の誰かがやるだろう” 症候群」
こうした表現は、ときに、ハイフンを使って、文意をハッキリさせることがある。
the Mary-Magdalene-as-Jesus'-wife theory
someone-else-will-do-it syndrome
前者についている the は Mary Magdalene に付いているのではない。この説が、巷間流布しているので、「かの」 という意味で the が付いているわけだ。
こうした表現は、日本語のような膠着語でも可能である。
「アタシのプリン食べちゃったの誰〜? あれは、
“風呂入ってから、夜、寝る前に食べる用” なんだからぁ!」
こうした性質が、特殊ではない、普通の言語表現に使われる言語を 「抱合語」 (ほうごうご) と言う。動詞に、主語や目的語、副詞などが “抱合” されて一語になってしまう言語だ。アイヌ語は、常に、抱合語的ではないが、一部の文法形式として、完全なる抱合語の形式をとる。
こうした 「抱合語」 という性質を持つ言語は、カムチャッカ半島、サハリン北部、そして、そこから、北・中・南米に分布する。
アイヌ語が、縄文語で、北に押しやられた、という見方が、どうもアヤシイのは、そうした言語の形式から判断されるものだ。アイヌ語は北方的性格を持つ言語である。
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英語や、日本語で、「抱合語」 のようなマネができると言っても、それは、
名詞を修飾する句を、1語のように言う
場合に限られる。抱合語は、単純に、文章の動詞そのものが抱合の性質を示すのだ。そこがまったく違う。
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英語は、印欧語族に属し、印欧語族は 「屈折語」 に分類されるのだが、はたして、現代英語が屈折語なのか、というと、その根拠は、わりと薄弱なのである。むしろ、中国語のような 「孤立語」 という分類の言語によく似ているのだ。
実は、中国語のような 「孤立語」 と分類される言語は、言語が極端に分析的になってしまったもの、といえる。つまり、語は独立していて、現代印欧語のように、所有格語尾だの、複数語尾だのが付いたりしないし、日本語 (膠着語) のように、「てにをは」 が付いたりすることもない。
わが言語は分析的であるゆえ明晰だ、と考えたフランス人は、中国語は、もっと明晰な言語である、と誉め讃えなければならぬはずだった。
「孤立語」 は、英語やフランス語の場合と同じく、語順と助辞 (英語などで言うと、前置詞など) で文意を示す。しかし、現代印欧語と比べると、変化語尾がいっさいないわけで、それゆえ、
中国語のような孤立語は、文意を取る指標が文脈しかない
ということが多い。
そして、英語は、まさに、そうした中国語的な性質に近づいているように思える。
no photo-finish
no-photo finish
口語では、アクセントや、語の区切り方で区別できるだろう。しかし、
NO PHOTO FINISH
という新聞の見出しを理解するには、“文脈” に頼るしかない。そして、この場合の文脈というのは、「ビン=ラーディン殺害事件」 なのである。
外国人にとっての、英語のムズカシさは、このヘンにある。とりわけ、日常の口語ほど、こういう性格を持つわけで、むしろ、小説とか、学術書を読む方が、よほど文意を取りやすい、ということになる。
ロシア語のような言語は、きわめて、分析的な度合いが低い。それゆえ、むしろ、外国人には学びやすいかもしれない。文意を取るヒントは、すべて、表明された言語の中に呈示されているからだ。
そのいっぽうで、中国語の文法が、どこか、“雲をつかむよう” であるのは、こうした孤立語的な性格のなせるワザなのだ、と理解されたい。
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最後に、こうした言語の形式のちがいは、単に、それぞれの民族の話していた言語のナレノハテが、現在、どうなっているか、ということに過ぎず、どれが、高度に発達したか、とか、どれが遅れているか、というモンダイではない。
単に、やり方が違うだけだ。水をわかすのに、たきぎを使うのか、ガスなのか、IH なのか、電子レンジなのか、電気ポットなのか、という違いにすぎない。できあがった湯は、どれも、高温の H2O に過ぎぬ。
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