本能寺は京都の中京区下本能寺前町に所在する。法華宗本門流の大本山の寺院。本尊は本門八品上行所伝の南無妙法蓮華経本能寺の変の舞台として知られるhttps://youtu.be/KU2HCHnf8fU?si=y93qrNf7oxS1oMTG
さいきんみたYouTubehttps://youtu.be/EHeSGi2xB9w?si=BQ_HTju8paTjIzZC
量子力学についの話題をかいてる本をよみましたど素人感想わたくしはよくわかりませんがイメージとしては投影宇宙のストーリー内のなかのストーリー用物理学は古典物理学でありアカシックレコードから投影原理の法則をかいまみたのが時間や空間にしばられない
ナチュラルノンデュアリティ音声配信今ここ うちがわ 自力他力なしhttps://stand.fm/episodes/69d83355385f800d27c1366f
観照とはヴィヴェーカ(ノーマインドとマインドの識別 存在意識の智慧)とマインドの無効化といういやしのことです^_^存在意識から識別することは批判ではありません(識別説明を、批判してる、と誤解されてしまう場合がよくあります)そして自我とは好奇心
https://stand.fm/episodes/69d2ef49efe9cdbe58e5658d
ナチュラル ノンデュアリティhttps://line.me/ti/g2/N4J8fw2CBIVliLRQ_f4eNmRGl_g8MUDFnocCkw?utm_source=invitation&utm_medium=link_copy&utm_campaign=default
愚かな説法者の例迷いのうちに経験することは悲惨であるが目覚めた者にとってはこの幻の世界は、神のダンスのようなものであると説くことですこのような説法者は完全なる覚醒をしておらず、迷う者をこの世界に縛り付ける因を説いていますそうではなく完全なる
昔塗装のメッキの定職についていたとき朝の田舎の通勤道で(仏教を勉強してたので)もう苦しみの世界から去ろうとおもいその朝に会社をやめその足で遍歴の旅にでました(大阪から広島の尾道まで)2回目の遍歴の旅では先祖のふるさと長野県の木曽まで遍歴でい
福祉の仕事も15年したけど障がい者の主張って要は健常者と同じ権利を獲得したいだけこの狂った世界の健常者とおなじね福祉の世界に悟りがあるとおもって15年やってきたけどあほらしかった悟りとは何な関係もなかった生活補助なだけ老人介護もナンノキョウミモ
欲望はよくなく、今の自分に必要なのかと考えなさいとかいうが欲望イコール必要である欲望はいらない だから必要なものは一切ないこれが答えである(最後の人生はまだつづくけどね)必要ってなんやねん全部幻想やんけ笑
客観はまったく存在しない実在は在るがまま空想大自我は主観その投影が私たち客観は存在しないあなた さえ存在しないあるのは私たちそれは大自我からの投影そして大自我は在るがままに還るどこに客観があったのか?どこに常識があったのか?そんなものはどこ
日中の目覚めは私の世界夜の夢見も私の世界熟睡は悟りではない私の休息で私はあっても対象はないしかし熟睡では私は対象がないとしっているということができない私自体を忘れているからだ朝おきたとき私はよく寝たというそれは私自体も忘れてたぐらい休んでい
先日土方歳三のおはなしをしてましたが(ドラマ ちるらんや映画 燃えよ剣)不思議にもそのときわたくしの住む地元の大阪の富田林市が地上波で放送されていました(バラエティ)寺内町も映っていました(岡田准一さん主演燃えよ剣 のロケ地です)さいしょは
2012年はマヤ暦終了の年でありアセンション(平行宇宙分岐)のはじまりの年、アクエリアス(水瓶座)の黄金時代への光の世界線でしたかね^_^(スピリチュアル業界での時代解説です)4月からの新時ドラマがそれっぽい^_^?リボーン 〜最後のヒーロー〜#TVerhtt
不完全覚醒メッセージとはなにか在るがままのサブ性質であるワクワクが空想(特別性)のあと自我催眠や投影シナリオをかけずに空想のまま宇宙を訂正させたり再び作ったりして遊んでる状態ですこれは自我催眠をかけたあとの独房者による悲劇感の強い幻想宇宙シ
夢の中のストーリーニューエイジまでの映画https://youtu.be/xq9rORYaYEI?si=8EnvvQ1fIn3kSY3oるろうに剣心シリーズ映画第一作品は2012年でした(2012年はマヤ暦終了のアセンションのはじまりの年だそうです。)
滋賀県の地球ひろしさんは「ちはやふる 結び」が劇場公開された2018年にミロクの世がはじまったと今日のYouTube動画でいっていますがそういうマルチシナリオに自分ははいったという意味なのでしょうね地球ひろしさんとかもそうですけどなんらかの覚醒した方
私や感覚が実在しないと感じるのが平安なのです感覚がよくなるだとかは悟りではありませんラベリング(ジャッジ)がなくなったりすることだけが悟りなのでもありませんスクリーン(意識)も魂も悟りではありませんしばしばよく拭かれた心は真実を写すとかいい
ACIM(奇跡のコース)では自我ではなく一歩退いて聖霊にまかせるとありますがじつはナチュラルノンデュアリティではこれは無条件、無努力の恩寵によるいやしのことなのですいちいちACIMのように主体が聖霊を選択するとかいうハナシではないのですそれにACIMで
本とは関係ないですが昨日の黒い袋と懐中電灯のたとえでいうと黒い袋が映画館懐中電灯は作られた光を放っている映写機これらが大自我という作用でありスクリーン(膜)への投影やのぞいてるかのような観客席は開いた小さな穴のたとえになるのかなとおもいまし
まちがった例え話あるノンデュアリティスピーカーさんがYouTubeで次のような例え話をしていた黒い袋と懐中電灯を用意し光を黒い袋の中で照らしさらに黒い袋にたくさん穴をあけるすると光がところどころ漏れるそれが個人の意識だとそして黒い袋と懐中電灯が全
哲学者ショーペンハウアー苦の世界は 意志の消滅によって救済されるとしたとかいています努力や願望は一時的な錯覚にすぎないと解説していますつまり架空のハムスターが架空のハムスター用ホイールを作り回し続けているだけらしいです死の恐怖は現在を喪失さ
https://youtu.be/FjQM2D19DB8?si=XabiRC_uWFU9chZD
よくスピリチュアルでは内観すればいいといいますがそれはちがいます無努力であればいいのであり内観しようとすると自我の維持を作ることになりますなぜなら何かをしたいのは自我だからなのです