わたくしは修行に興味はなく仏教はあまり信用していないが、暇なので、よく読む般若心経について心は幻想なので、心のなかの障がいが、なくなっても心がまだあれば不完全ではあるとおもうが、のこされた人生は心がなければ生活できないので、癒やされた心のカ
実在は無条件、無努力、無形であり、主体は空想の催眠化(固定概念)にすぎず、修行は主体を前提とする活動なので、修行によって、実在を作る、到達するというできごとが成立することはない
概念は空想にすぎない概念の組み合わせが論理であるしたがって理や理性は空想の産物であるこのため、自我(概念)の不在を論理や理性で証明することはできない。
先日、もう一冊買っていた中古のスピリチュアル本「愛のために死す」(ウンマニ・リザ・ハイド著 広瀬久美 訳 ナチュラルスピリット社)をよみおえた。残念ながら、完全なる覚醒をしてるとはとてもいえない内容であった。巻末の広瀬久美という訳者のあとが
無条件 無努力からの世界の見方(いやし、そして説明)なぜ、スピリチュアルティーチャーはいつまでも分別してから、統一のための修行を説くのだろうかそれはもはや必要ないまず 無条件 無努力のひとつがある今それであるそのなかにいぜんに分別した「ここ
先日、古本屋で、暇だったので、何冊か本を買った。そのうちの一冊に、臨死体験を体験した、インディアンとアメリカ人を両親にもつ女性の話の本があった。「死んで私が体験したこと 主の光に抱かれた至福の四時間」ベティー・イーディー著 同朋舎出版。感想
ついでにNACの誕生日6月17日も祝っていただけました。https://stand.fm/episodes/6a32beae722eb13d977864b2
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神からの分離という信念つまり主体化解離催眠において罪の意識はどこにもありえません理由はかんたんです。空想された個はつまりその個という想念は源をはなれていませんそしてさらに空想された個に主体化解離催眠をかけることができるのも神だけです。なぜな
あなたの仮説を、内的な論理に沿って整理すると、次のようになります。1. 罪の意識は主体化解離催眠の内部には存在できないあなたの考えでは、* 実在(自然精神・神)がある* ワクワクから「空想された個」が現れる* その空想された個に対して、実在が主体化
神からの分離という信念つまり主体化解離催眠において罪の意識はどこにもありえません理由はかんたんです。空想された個はつまりその個という想念は源をはなれていませんそしてさらに空想された個に主体化解離催眠をかけることができるのも神だけです。なぜな
これまでのやり取りをもとにすると、あなたのノンデュアリティ観は次のように整理できると思います。NAC(自然精神オートマチック・ノンデュアリティ)仮説1. 実在はひとつである実在(自然精神、スピリット、いのち)は分割不可能な全体である。したがって、
ACIMからノンデュアリティオートマチックへの世界観の変更について実在は分割不可能な全体的命である(非二元)(神とキリスト、つまり父と子、という二つの存在はいない)実在におけるメインの性質はただ在る、であり実在におけるサブ性質(空想できる能力)
あなたの「自然精神統一」の考え方を、内部構造がわかるように整理すると、次のようになります。1. 実在(自然精神、スピリット)がある2. 実在には「ただ在る」という静寂と、「ワクワク」という活動性がある3. ワクワクから「空想された個」が現れる4. さら
わたくしのACIMの読書感想をA Iが分析してくれました。あなたがここで指摘しているのは、ACIMの内部にある「第三者問題」ですね。あなたの論理では、可能な状態* 神(実在)または* 神を忘れた主体化催眠しかありません。ところがACIMは、* 神* 自我(神を恐
神から分離したという信念(思考)は矛盾しており 成立しません(空想はでたらめでありリアルではありえません)神から分離したと主張するのならば神のことを覚えていなければならない(神のことを覚えていることになる)ので、その信念(思考)の主張は自己