今を無視して何かを欲するということはべつの悟りを得たいという欲は欲でありすべての雑想念つまりこの世界を作りだしているのです世間的にもスピリチュアル的にも今を無視した別のなにかを観たいという欲は同じ欲なのですなんの違いもないのです今(永遠)を
夢は夢でしかない夢は実在しない夢がわからないのはそれがじつは全く実在しないからである一時的な夢を叶えよう、叶えた、とおもってもそれは永遠ではない過去に私はこんな最高記録を作りましたと、年寄りが語ってもそれは一時的な状態でしかなかったのてすそ
すでにただ在るが実在であるなら何も変わらないとは無活動だから だったのである無活動は穏やかさであってそのなかで好奇であり苦しみの空想活動がおきていたかのようだった穏やかに 成る ということはありえない穏やかさ(平安)はすでに在るのだから穏や
奇跡講座ACIMというシナリオ(最後のカリキュラム)を癒し終焉させるナチュラルノンデュアリティオートマチックのメッセージ奇跡講座の誤ったメッセージは以下のように癒されていきますナチュラルスピリット(ひとつの存在しかない父とキリストという二つはあ
主体化解離催眠の存在(アイアム)が設定するシナリオ(最後のカリキュラムという罠)について、ご説明いたします。まず奇跡講座について。主体化催眠と解離催眠はほんらいまったく分けることはできず(わけたとしても作り話です)つまり空想された個への主体
https://ameblo.jp/726548/entry-12956817108.html
ナチュラルスピリットによるオートマチックな癒しについて今を考えることはできません今のなかで考えることができただけですそして思考をやめることがおきるときそれはまだ涅槃ではありませんエネルギー活動つまり努力がおきなくなることが涅槃への癒しなので
涅槃(完全覚醒)とは私や宇宙が即時に消滅するなら完全死のことでありもしくは、そうでなければ完全なる死人 として最後ののこりの人生を生きることですこのすでにただ在るがままの覚醒はこれよりマイナスの状態はないため挫折経験や鬱経験などはまだ、中途
自在神によるフォーカスの特性について顕在意識はマインドのテリトリーにあるそれは多次元的なものであるそれに執着して、今ここ、とすることは無意味であるこの日常の顕在意識では五感や思考や感情を経験するそれだけでなく魂は多次元的な顕在意識(心身への
静寂である平安は自然に停止することである意図的なコントロールは主体化催眠によるものである主体化催眠は実在のサブ性質であるワクワクから全自動により起きているもの(空想された個の主体化)であるそれが私である瞑想は迷想である世俗的には私はいつどこ
実在は無条件、無努力である無条件には主体も客体もない主体も手段も客体もない原因も縁も結果もない主体も手段も結果も幻の努力という呼び方の別称にすぎないじつはそれらの性質は同じ努力という幻想なのである実在のなかのサブ性質であるワクワクから努力(
夢の中のシンクロストーリー映画「冷静と情熱のあいだ」について(完全ネタバレあり)幼稚園の頃からバイオリンを習っていたわたくしは小学6年生で大阪市内で面接を受けて大阪市ユースオーケストラに所属いたしましたその頃母がはじめてCDを買ってくれました
昨日は読書のほかに自宅にある映画DVDを再鑑賞していました。イタリアオリンピックの時期なので冷静と情熱のあいだを再鑑賞いたしました。ラストのあたりの主人公のことば過去、未来についてだけでなく今を響かせなくてならないというのを仏教を読書中のわた
はじまりというものを作れないところからすべては自動的に起きて終了するのである起こることしか起こりえないシナリオがあろうが、必然だろうが、偶然だろうが、マルチシナリオだろうが自我が起きていようが、判断が起きていようが、ジャッジが起きていようが
去年の、故郷での車の車検の見積もりの待ち時間のあいだに以前に中古で買っておいて、途中で読み終えていなかった岩波文庫の「真理のことば 感興のことば」を今朝読みおえた真理のことばはダンマパダ(法句経)感興のことばはウダーナヴァルガといわれている
私という悩み、客体という悩みそれらは実在しない私は疑いであり、疑わしい存在が客体をも疑って生きているのが幻の、迷う者の世界である疑の世界であるすでにただ在ることは実在であり自我や客体、そして好ましい悪いなどという善なるもの、悪なるものは実在
ちなみに仏教では(読書内容より)勝義諦イコール無為世俗諦イコール諸行無常(有為 空性)凡夫(無知)イコール日常物語として解釈ということである
仏教の解説書をまた一冊読み終わりつつあります。仏教についての疑問がわたくしと共通していてやっぱりみんな、同じ疑問を抱くんだなあと共感できました。しかし疑問の解決の内容については共感や違和感もありました湧いた感想をまとめかきます。生成消滅する
すでにただ在るという覚醒は到達するものではなく難しさというものもない空間的に到達するものでもないし時間的に到達するものでもないたとえばセミナーに参加して覚醒できるというなら参加するのに、空間的に移動しなくてはならないしそれ以前に金銭を稼ぐた
仮説ナチュラルノンデュアリティにおける覚醒後の最後の人生(即時に宇宙の消滅がおこらない場合)ナチュラルノンデュアリティという覚醒においては主体化催眠(自我を実在と信じること)は解除されているしかし宇宙か消滅していない場合は催眠解除されてはい
仮説 無記とは語らない 記さないということである概念「かたち」は空想であり独立的実在『私』、というのは、信じることつまり『催眠』にすぎない実在は永遠のいまここであり信じる必要はないからである『私』を信じるとき、『私の中に『対象』』を信じはじ
非二元では活動の源である無条件の存在が基盤(ノンデュアリティ)といわれている在るがままである無条件の存在のサブ性質であるワクワクという実在が空想の源である)そして活動は雲のような現象にすぎないのでありほんとうのあなたはなにもしていない無条件
パーリ聖典長部経典 戒うん編のポッタバーダ経と説明邪見の10の質問については無回答である仏陀(十無記という)霊魂と肉体は同じか(断見)異なるか(我の常在、常見)は邪見であるため回答しないそして無明である我が夢幻のようにみている世界についての質
パーリ聖典長部経典 戒うん編マハーリ経と説明霊魂と肉体は同じであるか、異なるかブッダはどちらも説かれない説明同じとは説かない我は色であることになり、断滅論または虚無論となるから異なるとは説かない我は色を有するとなり常住論となるからつまり我や
レムリアについてhttp://youtube.com/post/UgkxM9UnTRCmZmGOjZU9omVd7bWHMORL8Ctn?si=V6xNTeJcoOHmZ98fhttps://youtu.be/J6ONlxd7lJg?si=xlEZSmMX0M44ijYF
今よんでる仏教についての現代の識者の対話の本はわかりやすい内容である(まだ読書途中であるが)その対話にはどんな理想社会が実現してものこる苦(ドゥッカ 空虚 不安定という意味 諸行は苦という真理 苦諦ともいう)を説くのが仏教であるというまた、