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秋月悌次郎と言う人
2018年12月25日17:12

「ある会津人のこと」と言う題名(ハイカラな言葉で言うとタイトル)で、十五編の連載を終えた。何故私が、「秋月悌次郎」と言う人の事を書いたかと言うと、彼が私の理想像を体現しているからだ。戊辰戦争の後、彼は、変遷を経て、熊本の五高(現在の熊本大学

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 こういう人物が幕末の会津藩の外交官だったことを思うと、新選組を使う以外はほとんど権略的な外交をせず、一見、時勢の中で居すくんだようでもあった会津の京都守護職というものの性格の一部が、すこしわかるような気もする。 その在職中のある日、秋月は

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 明治後、秋月は薩長の連中に記憶されていて東京によばれ、左院議員になったりした。しかし自分だけが官を得るに忍びないとし、やがて辞した。その後ふたたび東京に出て私塾をひらいたりしたが、明治二十三年、六十七歳で熊本の第五高等学校によばれ、漢文を

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 話を秋月にもどす。 といって、私は秋月について多くは知らない。かれは明治後、諱(いみな)の胤永を正称とした。私はタネナガとよんでいたが、当人はカズヒサと訓んで(よんで)いたことを最近、秋月一江氏からきいて知った程度である。 ただかつて『竜馬が

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が、このときは薩会同盟の功労者である秋月は京にはいなかった。かれは同藩の者たちにその功を嫉妬され、北海道警備の代官に遷されてしまっていた。その後、時勢は変転した。薩摩は会津をすて、長州と結び、慶応四年正月、鳥羽伏見で徳川軍先鋒の会津軍に対し

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翌日、高崎は秋月の案内で黒谷本陣にやってきて、松平容保に拝謁し、薩摩藩の方針をはっきりとのべ、薩会同盟を結ぶのである。それまでの下相談として、会津側は重役たちを出し、高崎と綿密にうちあわせした。薩摩側はつねに高崎一人だった。おそらくあとで藩

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いっそ、秋月ならだましやすいということを高崎はおもったかもしれない。この時代、他藩への感覚というのはいまの国際関係の中の国々よりもそらぞらしく、ときに仇敵視してみる心理があった。とりわけ薩摩藩と会津藩では気心も知れがたい異国同士の観があった

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日没後だから、高崎は格子戸をたたいたにちがいない。下宿先の者が、用心ぶかく格子ごしに、どこの何様かということをきいたに相違ない。この時代の京では、夜間に他家を訪れるなどよほど懇意な仲でないとありえない。高崎は懐中から、折り入って面ゴ?を得た

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西郷にきらわれたために、高崎の政治手腕はついに未知数におわった。明治後も大久保についたが、西郷についていない。明治政府の政治面にはあまり出ず、主として宮内省の役人として終始した。ついでながら、この人物について百科事典ではどう書かれているかと

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最後に、高崎佐太郎の場合である。かれの政治的能力は、未知数だったといっていい。このとき満二十七で、前年二月、はじめて鹿児島を出て、他郷を知った。島津久光は文久二年閏八月に京を去ったのだが、高崎の日記ではこのときはじめて伏見で久光に御目見得し

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この薩会同盟(とはいえ、三年後の慶応二年には薩摩は長州と極秘裏に薩長連合を結び、会津をほうりだしてしまうのだが)がおこなわれた時期、京都の薩摩藩邸には、めぼしい者がいない。久光は国もとにあり、大久保利通もまたその久光のそばにいる。西郷は遠く沖

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 文久三年前半期の京都は、三大勢力が鼎立していた。 倒幕を露骨に打ち出している長州藩と、保守家で、この時期とくに英雄的気負いがつよかった島津久光の指揮下にある(西郷隆盛は流謫中だった)薩摩藩と、それに幕府の正規の治安機関として京都に最大の兵力

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   幕末、京都が騒然とした。文久年間になって幕府は京都に強大な治安機関を置こうとし、それを京都守護職と名付け、会津藩に命じてその任につかせた。会津藩は藩主松平容保以下、この職につくことをきらい、再三幕府にことわった。ひとつには御家門として

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しかしそれでもなお気になって、会津若松にゆくたびにM氏をつかまえては秋月韋軒を語ったりするのは、私が勝手に秋月の中に平均的会津人を見出してしまっているせいなのかもしれず、あるいはそれ以外に私自身が気づいていない理由が、秋月悌次郎の側にあるの

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会津若松では、前記のM氏と久闊(きゅうかつ)を叙しあった。 私から持ちだした話題のほとんどは、秋月悌次郎(ていじろう)のことで、これはM氏に会うたびにつねにそうであることに気づき、途中でわれながらおかしくなって笑ってしまった。 M氏は四十過ぎ

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先日、思い立って会津若松へ行った。私が住んでいる大阪からは、会津という土地はいまなお遠い。以前は、東京で一泊して息をついたあと、上野から汽車に乗った。こんどは、新潟までは飛行機で行った。新潟と会津とはちょっと方角違いのようだが、しかし新潟市

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