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2018年05月20日23:34

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ある会津人のこと その三

しかしそれでもなお気になって、
会津若松にゆくたびにM氏をつかまえては秋月韋軒を語ったりするのは、
私が勝手に秋月の中に平均的会津人を見出してしまっているせいなのかもしれず、
あるいはそれ以外に私自身が気づいていない理由が、
秋月悌次郎の側にあるのかもしれない。

私が行ったとき、市の会館で「明治戊辰のあとさき」という展覧会をやっていて、会場に秋月一江氏が来ておられた。

 一江氏のお名前は早くからきいていたが、勤務先が会津若松市から三十キロほど北へ離れた喜多方市の高校だったためにその機会がなかった。
 氏は、悌次郎の子孫にあたられる。

会場に大屏風が展示されていて、江戸末期の会津若松城下が克明にえがかれている。
 私は一江氏をつかまえて、悌次郎の秋月家はどのへんにありましたか、
とたずねてみた。

 一江氏は竹棹をとりあげ、しばらくその先端を漂わせていたが、
やがて外堀に面した一点をトンとたたき、「このあたりです」 と言われた。
 そのあたりは城郭から遠く、一般に徒士階級の住んでいた界隈で、
悌次郎もそういう身分に属していた。

 会津藩はその瓦解まで身分関係がやかましく、たとえばやがて仇敵の関係になる長州藩がさかんに下級の人材を政務の座につかせたのにくらべ、登用ということはまずまれであった。

 悌次郎の場合は数すくない例外かと思われる。
 長州藩の場合、登用の条件として当人に機略の才があるとか、
藩の産業に一見識があるとか、
あるいは洋学を身につけて世界的視野をもっているとかという例が多いが、
会津藩が期待した秋月悌次郎における条件は、もっとせまい。

 悌次郎なら京都に出て他藩の連中とつきあいができるだろう、
という程度のことだった。

 会津藩松平家は、徳川の家格制度では、
いわゆる御三家とともに将軍家の一門のあつかいをうけている。
 このため老中や若年寄になるというふうな幕政に参与することはなかった。

 幕政に参与するのは徳川家にとっての使用人の家
---井伊とか酒井とかという譜代大名---がやることで、
「御家門」である会津松平家はそういう番頭・手代の仕事に対してごく貴族的に超然としていればよかった。

 中央政治についての無経験が江戸期いっぱいつづいたということが、
この藩を世間知らずにしていた。
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