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2018年07月15日03:25

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ある会津人のこと その七

最後に、高崎佐太郎の場合である。
かれの政治的能力は、未知数だったといっていい。
このとき満二十七で、前年二月、はじめて鹿児島を出て、他郷を知った。

島津久光は文久二年閏八月に京を去ったのだが、
高崎の日記ではこのときはじめて伏見で久光に御目見得している。
このため、久光に愛顧された側近衆ともいえない。

ただ高崎日記でうかがえるのは、
かれは大久保(在薩摩)に目をかけられているらしいことである。
政治的には高崎は久光派か大久保派に属すべき存在かもしれず、
すくなくとも西郷派ではない。

なぜなら後年西郷が京にのぼってきて薩摩藩外交を切りもりしたとき、
西郷に激しくきらわれ、国もとへ追いかえされた。

西郷は好悪の情が強かった。

慶応三年十二月二十八日という日付の西郷の書簡では、
西郷は高崎について「妖説を唱え候はんと存じ奉り候」と書いている。

西郷・大久保は慶応年間に入って激烈に革命化し、武力による討幕を決意した。
高崎はそれに対し佐幕論をたて、しつこく反対したらしい形跡がこの書簡にうかがる。

西郷によれば、(高崎の亡父は久光の生母お由良に反対して処刑された。
それからみても同然高崎は自分の与党であるかと思っていたのに、
意外にも久光の与党だったか) という意味での憤りもこもっていたであろう。

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