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 こういう人物が幕末の会津藩の外交官だったことを思うと、新選組を使う以外はほとんど権略的な外交をせず、一見、時勢の中で居すくんだようでもあった会津の京都守護職というものの性格の一部が、すこしわかるような気もする。 その在職中のある日、秋月は

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 明治後、秋月は薩長の連中に記憶されていて東京によばれ、左院議員になったりした。しかし自分だけが官を得るに忍びないとし、やがて辞した。その後ふたたび東京に出て私塾をひらいたりしたが、明治二十三年、六十七歳で熊本の第五高等学校によばれ、漢文を

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 話を秋月にもどす。 といって、私は秋月について多くは知らない。かれは明治後、諱(いみな)の胤永を正称とした。私はタネナガとよんでいたが、当人はカズヒサと訓んで(よんで)いたことを最近、秋月一江氏からきいて知った程度である。 ただかつて『竜馬が

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が、このときは薩会同盟の功労者である秋月は京にはいなかった。かれは同藩の者たちにその功を嫉妬され、北海道警備の代官に遷されてしまっていた。その後、時勢は変転した。薩摩は会津をすて、長州と結び、慶応四年正月、鳥羽伏見で徳川軍先鋒の会津軍に対し

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翌日、高崎は秋月の案内で黒谷本陣にやってきて、松平容保に拝謁し、薩摩藩の方針をはっきりとのべ、薩会同盟を結ぶのである。それまでの下相談として、会津側は重役たちを出し、高崎と綿密にうちあわせした。薩摩側はつねに高崎一人だった。おそらくあとで藩

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いっそ、秋月ならだましやすいということを高崎はおもったかもしれない。この時代、他藩への感覚というのはいまの国際関係の中の国々よりもそらぞらしく、ときに仇敵視してみる心理があった。とりわけ薩摩藩と会津藩では気心も知れがたい異国同士の観があった

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