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2018年08月29日19:01

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ある会津人のこと その十五

 こういう人物が幕末の会津藩の外交官だったことを思うと、
新選組を使う以外はほとんど権略的な外交をせず、
一見、時勢の中で居すくんだようでもあった
会津の京都守護職というものの性格の一部が、
すこしわかるような気もする。

 その在職中のある日、
秋月は教壇に立って、いつものように本をひろげるけとをせず、
よほど時間が経ってから、じつは昨夜、
文久三年以来三十余年ぶりの友人が訪ねてきて、
そのために終夜、痛飲してしまった、といった。

秋月が詫びているのは、
要するに下調べができなかったために今日は授業を勘弁してもらいたい、
ということで、かれはていねいに一礼すると教室を出て行った。

 昨夜きた戊辰以来三十年ぶりの友人とは、
宮内省の顕官である高崎正風である。

その一月三十一日の項に、
「朝のほど、雨ふる。秋月胤永来訪」
 とあり、また二月六日のくだりにも、
「朝霧ふかし。秋月胤永来訪」
 と、ある。

秋月が終夜痛飲したというのは、
この両日のどちらかはわからないが、
いずれにしても「薩会同盟」の当時のことを語って語りあかしたに違いない。

冷静にいえば、
「薩会同盟」は結局のところ薩摩藩にだまされるたねをまいたに過ぎないが、
しかし秋月は高崎を前にしてそういう恨みもいわず、
ひたすらに当時を懐かしみ、翌日の授業もできないほどに飲んでしまった。

 このあたり、いかにも秋月らしい人の好さを感じさせるが、
しかしむしろ秋月にとってこの思い出は
同藩の者を相手ではしづらいという機微もあったかもしれない。

文久三年八月同床異夢の政敵だった高崎を相手に語るときのみ、
往事を回顧して手ばなしに感傷的になりうるという
微妙な何かがあったに相違ない。

秋月はこのとき七十歳である。


                   完

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