いっそ、秋月ならだましやすいということを高崎はおもったかもしれない。
この時代、他藩への感覚というのはいまの国際関係の中の国々よりもそらぞらしく、
ときに仇敵視してみる心理があった。
とりわけ薩摩藩と会津藩では気心も知れがたい異国同士の観があったのではないかと思われるし、
その心理の牆壁をこえて相手と接触するには多少、甘ったるさのある相手のほうがいいのではないか。
秋月は政治家ではない。
後年のかれをみても、まず他人を信じるきる所から関係を結ぶという男だった。
秋月は、高崎のいうことをきいて驚いた。
高崎は、長州藩とその傘下の過激志士が公卿を擁し、
その公卿はほしいままに詔勅と称するものを志士たちにあたえ、
それでもっと幕府をゆさぶろうとしている、
天下の乱はここからおこる、「貴意如何」と、問うた。
秋月は即答できない。
高崎のいうことを聴いていたが、抗幕姿勢をとる薩摩藩の公用方のいう言葉とは思えない。
しばらく聴いてから、「いまの説は、私見なりや」 と反問した。
高崎はかぶりをふり、これは薩摩藩の藩論である、と答えた。
京都の薩摩藩邸にはさきに触れたように、のちのように西郷や大久保はおらず、
むろん久光もおらず、奈良原繁以下数人の頭株がいるだけである。
高崎が「藩論也」としてここまで言いきる以上は
薩摩へ急使を出して久光の訓令を仰いだのであろうか。
薩摩藩は、幕末のぎりぎりの時期には、
京都と国もとの連絡を敏速にするために、
兵庫沖に藩の蒸気船をつないでおき、
手紙一本を運ぶために大坂湾と鹿児島を往来した。
船は片道、三、四日で航走した。
しかしこの時期にはそういう贅沢な通信法を用いていないはずだから、
手紙の往来はそう敏速にできない。
しかし顔ぶれからみて、独断ともおもえない。
あるいは久光が、
「京都の混乱が極に達した場合にはそのようにせよ」
と言いのこしておいたのかもしれない。
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