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2016年06月01日12:55

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『瞬花終灯(しゅんかしゅうとう)』 第二章『花火の閃き』 PART1

  1.

  ……なぜ私はこんな所にいるのだろう。

 リリーは筋肉痛になった足を引きずりながら山の頂上を目指していた。全てがエメラルドグリーンに覆われた土地で登山靴を履き、たった一本の杉を見るためだけに旅行に来ている。体は無意識に動いているが、心がついていかない。

 ……まさか有休を使って彼と二人でこんな所に来るなど想像していなかった。

 自分の100m先には花屋の店主・春花椿
はるのはな つばき
がいる。彼はしなやかな体を生かして、猿のように素早く山を登っていく。

 ……それも、後もう少しだ。

 汗をたぐりながら時計を見ると、山登りを始めて三時間半が経っていた。もうすぐ目当ての杉が見える。鹿児島の屋久島に来て三日、ようやく目的地に辿り着いたのだ。

 ……あれがお母さんが好きだった木。

 リリーは天高く聳(そび)える杉を見た。その木は空高く天空を突き刺しているように見える。
 夢中で杉の元に近づくと、これは一本の杉などではないと感じた。自分が想像していたものを遥かに超えている。

 この木は、まさに一本の『森』だ――。

  2.

 色とりどりの紫陽花(あじさい)が全て小豆(あずき)色に変わってしまった季節に、リリーは紅茶を冷やしていた。暑い日にはさっぱりとした独特の香りがするアールグレイに限る。ミルクを入れるのが定番だがストレートでも十分美味しい。砂糖はもちろんなしだ。

 クーラーの温度を下げて本を広げると桃子が台所から口を開いた。

「リリーさんは盆休みとかないんです?」

「そうねえ、取れないことはないんだけど……どこか行きたい所があるの?」

 秋風桃子(あきかぜ ももこ)は現在リリーの家に居候している。一度は被疑者として疑った身だが真犯人が見つかったため自由の身となったのだ。

「実はですね、一つだけあるんです。ただ行く相手がいなくて……」

 事件は解決したが桃子が母親を失ったことには変わりない。父親は桃子が生まれる前から行方不明、つまり両親は不在だ。

 桃子の母親・綾梅(あやめ)の初七日の時、リリーは桃子の身を案じて家に来ないかと誘った。大きな一軒家に一人で暮らす彼女の姿を想像すると胸が痛み良心の呵責に負けてしまったからだ。

 今ではもう、サクラの木は全て花びらを散らして、葉がどっしりと生え若々しい姿になっている。

「ここに行きたいんです。鹿児島にある屋久島(やくしま)という所です」

 屋久島。
 リリーの頭の中にもその言葉の記憶はあった。だが嫌な記憶しかない、トラウマといってもいい。

 桃子に促されるまま鹿児島のガイドブックに目をやる。そこは見渡す限り全てがエメラルドグリーンに染まっていた。木だけでなく地面全体が苔に覆われており石にまで張り巡っている。

「凄いわね。本当に映画みたいな所ね」

「そうなんですよ。もー行きたくって、行きたくって」

 桃子には現在彼氏がいない。その彼氏が桃子の母親を殺害したのだ。今の現状を最も理解しているのは椿(つばき)とリリーだけだろう。現実逃避をしたい気持ちもわかるが、さすがにそれは無理な提案だった。

「行くとしたらどれくらい日数がいるの?」

「そうですね。最低でも二日はいりますね」桃子は眉間に皺を寄せた。「もののけの森には絶対行きたいですし縄文杉も見たいんですよね。フェリーでしかいけないから、やっぱり四日はないと厳しいと思います」

「屋久島には空港があるわ。そっちの方が早いと思うけど……」

 そういって後悔する。桃子がその言葉を見逃すはずがない。本を盾にして彼女の視線を防御しながら続ける。

「テレビでそういった情報が流れていたのを覚えていただけよ。どうしてフェリーがいいの?」

「私、飛行機は怖くて乗れないんです」

「え? そうなの?」

 思わず噴き出した口を塞ぐ。桃子が飛行機に搭乗し震えている姿が容易に想像できたからだ。

「でも三泊四日は厳しいね。私も行きたいんだけど事件が起きたらそこから戻らないといけないし、迷惑掛けると思うわ」

「……そうですよね。無理をいってすいません」

 ……く、くるしい。このまま見過ごすことはできない。

 桃子の小さな溜息を見て鋭い棘が刺さったような痛みを覚える。血塗れの畳の上で座り込んだ彼女の姿が一瞬にして蘇ってくる。

「……む、無理かもしれないけど一応訊くだけ訊いてみるわ」

 良心の呵責に負け、そういうと桃子の顔はぱっと賑やかになった。

「本当ですか? リリーさんと一緒に行けたら楽しいだろうなぁ」

 気分をよくした桃子は鼻歌を歌いながら洗物を片付け始めた。その姿を見てリリーは溜息を飲み込みながら、再び本のページをめくった。

  3.

「どうせ君の提案ではないのだろう? いいよ。たまには君もゆっくり休んだ方がいい」

「あ、ありがとうございます」

 リリーが頭を下げると、上司である橘(たちばな)は腕を組み直し小声でいった。

「時に彼女はどうだね? 元気にしているか」

 現在桃子が居候していることを知っているのは橘と万作だけだ。それは警察官という立場を考慮してのことだった。
 事件は解決したが被疑者に肩入れし過ぎるのはご法度だ。警察という組織の公平性が欠けてしまうし何より問題があった場合、自分だけの問題ではすまなくなる。

「ええ、最近笑顔が見られるようになりました」

「そうか。それはいい」

 橘はこほんと空咳をして真剣な表情を見せた。

「ところで君の方は大丈夫なのかね」

「といいますと?」リリーは意味がわからず聞き返した。

「屋久島に行くことがだよ」鋭い視線がリリーに掛かる。「君の父親から話は聞いている。君は行っても大丈夫なのかと訊いているんだ」 

「それは……行ってみないとわからないです。ただ彼女が喜ぶのなら行ってあげたいという気持ちだけです」

「そうか……まあ今の時期の方がいいだろう。冬には帰ってくるみたいだぞ、君の父親は」

「そうなんですか?」

「ああ、日本で仕事の打ち合わせがあるみたいだ」

 聞いていない内容なので答えようがない。父親とはほとんど連絡を取っていないからだ。

「また日程が決まったら連絡してくれ」

「承知しました」

 自分の席に戻ると万作が羨ましそうな顔でこっちを見ている。彼は椅子を回転させ彼女に話し掛けてきた。

「先輩、珍しいですね。夏季休暇を取るなんて。どこに行くんです?」

「屋久島よ。縄文杉を見に行こうと思ってるの」

 万作は驚嘆の表情を見せ腕を組んで唸った。
「それは凄い。世界遺産になった場所でしょう? 友人から聞いてますよ、行くだけで大変だと」

「そうみたいね。縄文杉だけで往復八時間掛かるみたいよ。もののけの森にも行きたいといっていたから、そっちも六時間くらいだけど」

「お察しします」万作は頭を下げていった。「でもたまには山登りもいいんじゃないですか、屋久島では常に雨が降っているみたいですし、先輩が行けば晴れるかもしれませんよ」

 そういった瞬間に万作の表情が曇った。おろおろと怯える彼の前に進むと彼の椅子が大きく曲がった。

「す、すいません。えっ、いやだなぁ、冗談ですよ。冗談。まさか本気に―――」

「ご忠告、ありがとう」

 リリーは躊躇することなく万作の足を力一杯踏んだ。


 家に帰ると、桃子が待ち構えていた。玄関で正座をしてリリーの帰りを待っていたようだ。

「お帰りなさい、リリーさん。ご飯も準備できていますよ」

 まるで子犬のようだなと彼女は微笑んだ。主人の結果を心待ちにして尻尾を振っているようだ。

「それじゃあ先にご飯を食べましょうか」

 ……すぐに結果をいうのは勿体ない。

 こんなに可愛い彼女は見たことがないからだ。鞄を部屋に戻しリビングに向かう。

 テーブルの前にはリリーが好きなものばかり並んでいた。今日は特別に気合が入っているようだ。桃子の得意料理の一つ、肉じゃがもテーブルの上にある。
 椅子に座り桃子と共に食事を始めた。

「それでどうだったんです? お休みはとれそうですか」桃子は顎を引き上目遣いでリリーを見ている。その大きな黒目が再び子犬を連想させた。

「うん。今日管理官に声を掛けたんだけど承諾してもらったわ。三泊四日でいいんでしょ?」

「ほんとに? ほんとですか?」桃子は席から立ち上がりぴょんぴょん、飛び跳ねている。

「そんな大袈裟に喜ばなくても」

「だって嬉しいんですもん。やったっ」

 桃子のはしゃぐ姿を見て、心の底から胸を撫で下ろす。これで少しは彼女も元気になってくれるかもしれない。
 リリーの前では元気な姿を見せようと振舞ってくれているのだが就寝中に声を殺して泣いていることもある。

 無理もない、と彼女は思った。四ヶ月前に母親を失い同時に付き合っていた彼氏に裏切られたのだ。
 血に塗れた畳の上で桃子が声も上げず座り込んでいる姿が再び蘇る。彼女はぐったりとしてじっと庭を眺めているように見えたが、目に光がなかった。彼女は何も見ずにただ呆然とそこにいただけだった。

 もしかすると今度の旅行の際に、内に秘めた何かを語ってくれるかもしれない。

 それに、自分自身にも課題はある――。
「じゃあ早速日程を決めないといけないですね」桃子は無邪気に微笑んでせわしなくガイドブックの耳を折っている。

「桃子ちゃん、片道三時間と四時間の登山になることを知ってるのよね?」

「もちろんです。大丈夫ですよ、それくらい」桃子は嬉しそうに味噌汁を啜りながら答えた。

 ……どうやら腹を括るしかないようだ。

 リリーは観念し大好きな肉じゃがを口に放り込んだ。最高の味付けだったが、しっかりと味わうことはできなかった。





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