4.
「お久しぶりです、冬月さん」
店に入ると椿は黒い器に白とグリーンの花だけを生け込んでいた。すらっと伸びた白慈色のカラーの下に萌黄色のピンポンマムが穏やかに佇んでいる。そのメッセージカードには御供という文字が書かれていた。
「こちらこそお久しぶりです。最近暑いですが、春花さんは元気にされてますか?」
「ええ、もちろん」彼はにっこりと微笑んだ。「冬月さんも自然に興味が沸いてきたみたいで嬉しいですよ」
「残念ながらそうではありません」リリーはきっぱりと否定した。「ただ桃子ちゃんの寂しそうな顔を見ると行かないといけないような気がして……」
「ああ、それはわかります。なんとなく……」彼も苦笑いを浮かべて頷く。「僕もそんなに得意ではないですが、彼女の助けになりたいと思っています。できる限りお二人をサポートしますので、よろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそ」
桃子によると花屋の店主・春花椿(はるのはな つばき)が屋久島に行ったことがあるらしい。お互いに山登りは未経験なため、彼の教えを請いに来たのだ。
「紅茶しかないのですが、これでいいですか?」
彼が手にとったものは冷えたストレートティーだった。ほっと吐息を漏らしながら受け取る。
「とりあえず必要なものを書いていきましょうかね」
椿はメモ用紙を取り出した。
「屋久島だと、登山靴、リュック、レインコートくらいですね。他の山と違って雨が凄く降るんです。なので雨対策は必須ですね」
思ったよりも必要な物は少ないみたいだ。レインコートは必須と、二重丸をつける。
「ああ、それと熱いお茶を持っていった方がいいですよ。夏場とはいえ標高が高いので体が冷えます。汗も掻きますので温度調節が大事です」
「なるほど」
登山経験者らしい意見だ。万全を期すためきちんと用意しておこう。
「春花さんはよく山登りなんかはされるのですか?」
「いえ、最近はまったく。子供の頃は父に無理やり誘われていっていました。家業が嫌いで、自分で花屋を開いたのですが、こっちの方が性にあっています」
意外だ、という言葉を飲み込んだ。彼のイメージからすると好んで散策などしているイメージがある。
……家業とは何だろう。
尋ねたい衝動に駆られたが今は止めておこう。そういった言い回しをする相手には訊いてはならないと、仕事特有の勘がいっている。
椿からメモ用紙受け取ると、彼は別の本を取り出した。
「そういえば、この写真、縄文杉に行った時に貰ったんですよ」
壁に掛かってある写真に目を向ける。雄大な自然な中にフレームに納まりきらない一本の杉が聳え立っている。
……お母さん。
心の中でガラス玉が揺れ動く。母親の最後の姿を見た場所に、自分はちゃんと向き合えるだろうか。
「……冬月さん?」
「あ、すいません。ちょっと見惚れていました」
目を反らすが、頭の中には百合(ゆり)の影が根強く残っている。
登山よりも、体の準備よりも、心の方が出遅れているようだ。
椿に愛想笑いを返したが、彼も何かを感じ取ったようで、それ以上は言及してこなかった。
5.
出発一週間前。
リリーは桃子とベッドの上で向かい合うようにして旅行計画の打ち合わせをした。すでに椿に薦められた荷物を準備し日程に合わせて宿も取っている。予定通り三泊四日の旅だ。
初日は鹿児島に車で向かい、その後フェリーで屋久島に直行。二日目はもののけの森をメインとし、朝八時に出発。三日目は縄文杉を見るため、朝四時に起き五時にはバス停に到着しておかなければならない。四日目は帰るために一日費やすといった流れになっている。
大雑把なスケジュールだがなかなかハードだ。桃子も今では真剣な表情で話し合いに臨んでいる。やっと事の重大さを理解したのだろう。
「来週から屋久島に行くと思うとドキドキしますね。ちゃんともののけの森まで辿り着けるかなぁ」
桃子は心細い声をあげている。
「確かに長い道のりになりそうね」
「私一人だったら、行きたくても行けてなかったです。リリーさん、本当にありがとうございます」
計画を立てた自分自身も不安は募っている。椿が来てくれるとはいえ、もし彼女に何かあればただ事では済まない。
「さあ明日も早いしそろそろ寝ましょうか」
リリーは灯りを消して目を閉じた。しかし母親への思いが交錯し中々寝付くことはできない。
頭の中では百合(ゆり)の面影が漂っていた。
――お母さん。これはなんていう花なの?
「鉄砲ユリよ。形が鉄砲のようでしょう?」
――そうなんだ。ユリの仲間なんだ。お母さんと一緒だね。
「そうよ。それに、このお花には『純潔(じゅんけつ)っていう意味が込められているの」
――『純潔』ってどういう意味?
「素直でいたいっていう意味よ。素直な心になりますようにってお花がお日様を浴びながら唄っているの」
――なんで唄ってるの? 誰に対して?
「もちろん、リリーに対してよ。だからお母さんは鉄砲ユリさんが元気に唄えるようにこうやって花壇を綺麗にしているの」
――リリーは素直だよ。お父さんのいうことだって聞いてるし、絵本の続きが気になっても、夜更かしだってしてないよ。
「そうね。リリーは偉いわ。だけどそれは今だけじゃ駄目なのよ。これからもずっと素直でいて欲しいから、お母さんはお花を大切にしてるの」
――お花を大切にしたらリリーはずっと素直でいられるかな?
「もちろんよ。リリーがお花にちゃんとお水を上げたらリリーの心は変わらないわ」
――そっか。じゃあ、これから毎日お水を上げるね。
「うん。お母さんがいない時もきちんと上げてね。お花は大事にしないと枯れちゃうから」
――うん。リリーは素直だから、ちゃんとお母さんのいうことを守るよ。
「うんうん。やっぱり、リリーは偉いわ。じゃあ一緒にお水を上げましょうか」
旅行前日、再び思いもしないアクシデントに見舞われた。桃子が風邪を引いたのだ。いつもの時間になっても彼女は部屋から出て来なかった。様子を見に行くと、この暑い中何枚も重ね着をして布団の中で包まっていた。
「大丈夫? 桃子ちゃん」
咳こんでいる口元を抑えながら、桃子は苦しそうな表情をしていた。側に落ちていた体温計は三十八度をさしている。鼻をかんだティッシュがゴミ箱の辺りで転がっており間違いなく風邪だとわかった。
「大丈夫です、一日寝れば直りますよ」
とても明日には治りそうには見えない。今回の旅は見送るしかないだろう。
桃子はコホンと一つ咳き込みリリーに告げた。
「店長にも悪いですし、今回は二人で行って来てくれませんか?」
表情が硬い。大分無理をして話しているのだろう、かなり辛そうだ。
「このまま私が行ったら迷惑かけてしまうので写真で我慢することにします」
「私もキャンセルするわ。これだけの高熱だったら動けないわよ」
桃子の額に手を当てようとすると彼女は体を反らした。
「駄目です、近くにいたらうつっちゃいますよ」
後ろを向いたまま桃子は続ける。
「宿も取ってるじゃないですか。私から誘っておいて今更キャンセルさせることはできません」
「そうはいってもね……」リリーは返す言葉に詰まり戸惑った。
「店長も楽しみにしていたんです。店長なら大丈夫です。私が保障します」
椿のことを心配しているわけではない。純粋に桃子のことが心配なのだ。
「是非リリーさんに行って来て欲しいんです。お願いです。こんな機会、もう二度とないですよ」
桃子の力強い目がリリーの心に強く響く。それは何かを訴える目だった。しかし彼女がここまで意固地になる理由がわからない。
……とりあえず彼に連絡を取ることにしよう。
椿に電話を掛けると、すぐに繋がった。
「桃子ちゃん凄く楽しみにしてたのに残念ですね……」
「ええ、そうなんです。お仕事でも体調は悪そうでした?」
「いやあ、そんな感じはなかったけどなぁ」椿は曖昧に答えた。「もしかするといつも以上に頑張っていたのでそれで体に無理がいったのかもしれません」
家の中でも桃子は疲れた顔を見せずに家事を手伝ってくれていた。それはきっとリリーの機嫌を損ねないようにと努力していたのだろう。
「桃子ちゃん、どうしても冬月さんに屋久島を見せたかったみたいですよ」
「えっ?」
「冬月さんにもっと花を好きになって欲しいからといって、最近はいつも花を買って帰るんです」
桃子が引っ越してきて以来、玄関やテーブル、トイレに一輪の花が咲いていた。桃子自身の趣味だと思っていたが一番の目的は自分に花の魅力を知って欲しいとのことだった。
やはり家の庭が気になったに違いない。雑草すら生えないように石膏で埋めているからだ。
それは父親の独断で行われたことだが彼女にとっても都合がよかった。母親が作り上げた庭を思い出さなくてすむからだ。
「桃子ちゃんは花を捨てるのが勿体ないからといっていました」
「まさか。仕入れてきたお花ばかり持って帰ってますよ。今の季節にあった花をです」
玄関に飾られていた花は薄藍色の竜胆(りんどう)に、縞模様の入った苺の葉。リビングには紅緋色に染まった鶏頭(けいとう)に、雷のような枝付きの素馨(そけい)が入っていた。どちらも葉は青々としていて花の茎は背筋を正しておりまっすぐに伸びていた。きっと長く楽しめるためにいいものを選んでいたのだろう。
「僕はキャンセルでも構いませんよ。キャンセル料といっても宿泊だけですし特に問題はないです。桃子ちゃんが心配で付き添いみたいな形でしたし。また別の機会でも――」
すいません、と言い掛けた時、トイレに飾ってある花が浮かんだ。鉄砲ユリの花だ。
桃子は花を飾る時、いつも花瓶の横にメモ用紙を立てていた。そこには桃子の手書きで花の名前と花言葉が書かれている。その切れ端はリリーの身長に合わせて少し傾けており見やすい位置にあった。
鉄砲ユリの花言葉は『純潔』
「もし、春花さんがよければ一緒に行きませんか?」リリーは思わず呟いていた。「桜の花びらを見た時、正直心を奪われました。もう一度あんな体験ができるなら是非行きたいです」
自分でいっておいて顔から火が出そうだ。妙に熱くて恥ずかしい、早く取り消さなければ。
「……すいません。やっぱり気にしないで下さい」
一時の沈黙の後、椿は口をひらいた。
「実は僕も楽しみにしていたんですよ」椿は穏やかな声でいった。「冬月さんがよければ、桃子ちゃんの思いに答えるためにも二人で行きましょうか」
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