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宗教的対話ー「三つのL」ーコミュの三つのL-光Light・生命Life・愛Love-

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 「新宗教・新興宗教ウォッチング」の「君も私も宗教的傾向?異質者排除は人間の本能?ご意見大募集!」というトピックで宗教的対話を通して「三つのL-光Light・生命Life・愛Love-」が信仰の共通の対象になるのでは、という私の議論に対して、大変議論になりました。全く飛躍した議論だということですね。

 たしかに批判されていますように、既成宗教から都合のよいのだけ選んできているわけで、霊山信仰などの自然信仰や物神信仰にもそういう共通性はいえるのかということです。「君も私も宗教的傾向?異質者排除は人間の本能?ご意見大募集!」というトピックではテーマの関係もあり、その議論ばかりすると迷惑ですので、議論の場をこちらに移すことにします。

 引き続き、こちらに書き込んでいただければ幸いです。

 なお議論の発端になったエッセイを採録します。「宗教のときめき」に含まれているものです。

 

コメント(6)

------------------19. 光・愛・命 ----------------------


--------大いなる命の光に照らされて愛に生きなむ時を忘れて-------
        
 十二月二十五日と言えばクリスマスですね。では何の日のでしょう?え、イエス・キリストの誕生日ですって。と思われて当然ですが、実はイエスの誕生日に関する伝承はないのです。冬至には太陽の陽射しが最も弱くなり、これから強くなるでしよう。それで、冬至に太陽信仰のお祭りがあったのを、「世の光」と呼ばれたイエスの誕生を記念する日に当てることになったわけです。

 愛の神イエスも光信仰、太陽信仰と習合していたわけですね。愛という感情を物質で表現すれば光なのです。イエスは救世主なので希望の光なのです。仏教では仏陀は慈悲深い存在ですね。特に慈悲の権化である阿弥陀如来は、物質的には無量壽光なのです。もちろん宇宙の根本仏とされる大日如来も実体は光です。

 日本神道の主神である天照大神は太陽ですが、やはり愛の神なのです。つまり恵みの光なのです。天照大神と素盞嗚尊は姉と弟ですが、高天原では主神は天照大神とされ、地上を支配するのも、天照の直系の子孫であるとされました。

□実際に覇権を握っていた素盞嗚尊の子孫は国譲りをさせられてしまったのです。これは太陽神は恵みの光で徳による支配であるのに対して、スサノオは荒ぶる神であり、暴力による支配を意味するからです。

□正当なのは王道であり、覇道ではないという儒教思想が影響しているのです。でも実際は、スサノオの子孫である大国主命は平和で豊かな国づくりをし、それを天照大神の孫が突然侵攻して国譲りを迫ったのですが。

 このように全く異質の宗教であるかに見える、キリスト教、仏教、日本神道は、いずれも光を信仰の対象にしていることが分かります。そして光を感情として捉えた時にはそれは愛です、愛が神・仏として捉えられているのです。このように理解すれば、全く異質の信仰と思われていたものが、核心において同じ信仰だと言うことが分かるでしょう。

 このことは生命信仰においても言えます。イエスは、自らを「命のパン」だとし、永遠の生命につながるためにはメシアの肉を食べ、血を飲めと命じました。

□つまり大いなる生命の循環に戻るためには、食べるだけでは駄目で、食べられることが必要なのです。イエスは自らの肉体によってそれを示し、永遠の命への道を開いたのです。生は個体的な死を介して類的生命の、さらには大いなる生命の循環を開示します。

 釈尊も飢えた虎に自分の体を与える行者の行いに触発されて悟りに達したと言われます。

□個体的生命の自己否定による永遠の生命との合一に宗教のテーマがあるのです。

□有限な個体的生命と無限な大いなる生命の循環には、悟るには宇宙の果てよりももっと遠い彼岸かもしれないけれど、煩悩即菩提であって、まさしく命を受け取り、命を与えているこの世界にこそ、個体としての生の苦しみも、大いなる生命とのエターナルな共感もあるのです。

 光も愛も生命も、ああ何も私を超絶しているのではなくて、私自身の生きるということ、そのものではないでしょうか。

□こうしてご飯を炊き、物を作り、言葉を交わし、花を愛でることなのです。太陽も星も風も私の命の姿なのです。

□それを命であるということを離れて、事物としての形式で捉え返した時に、永遠の命は見えなくなってしまうのでしょう。

 



----------------「三つのL」による宗教的対話の可能性------------------

□私は、オーム真理教事件で大きな衝撃を受けました。一つの小さな宗教カルトが全人類に対して、皆殺し戦争を挑んだのですから、驚かない方が不思議です。

□以来、さまざまな宗教や宗派を見てきまして、もうかれこれ十数年になりますね。宗教相互の溝は深くて対話できないようにいわれますが、Light 光・Life命・ Love愛の「三つのL」に対する信仰に、ほとんどの宗教は共通性を見出せるのではないかと思うようになりました。

□この「三つのL」について対話を深めていけば、深刻な宗教対立の溝はかなり埋められるのではないかと思います。そこで「三つのL」を共に語り合うコミュニティを作って、宗教や宗派を超えた対話を呼びかけたいと考えています。

□今のところ一人でこれはなかなかいい思いつきだと思っているだけで、反応はもうひとつなので踏み切れませんが、皆さんからご批評をいただければ幸いです。

□Light光は、物質の根源であり、光によってすべては知らされ、力を与えられます。光からすべては生まれ、光に戻ります。その意味では光こそアルケー(原理)です。

□もちろん闇があっての光であり、その意味では闇も原理ですが、闇は光の濃淡として捉えられるので、宗教的には光に含めることが出来ます。

□もともと光と闇の対立を原理にしたゾロアスター教が有力でユダヤ教やキリスト教の成立にも大きな影響を与えています。イエスは「世の光」と呼ばれ、冬至が太陽の誕生日だったのをイエスの誕生日にしたわけです。

□仏教でも仏陀はコスモス(宇宙、世界)を遍く照らす光とされ、「阿弥陀如来=無量光」や「大日如来=巨大な太陽」という光信仰になっています。弥勒菩薩も太陽信仰の仏教化といわれています。

□多神教においても光信仰は重要で、太陽神が主神である場合が多いようです。特に農耕社会では水と共に太陽の恵みが決定的なので、農耕社会では太陽が主神になっているといわれます。

□農耕と光の関係を考えますと、光には強弱の変化がありまして、これが時間変化をもたらします。「光陰」は時を意味するのです、そして朝・昼・夜の変化、春夏秋冬の暦を形成します、もちろん歳を経て成長・老化し、死んでいくという生死の問題にも連なってきます。

□次に「Life命」の信仰も全ての信仰で主要な役割を果たしています。元々、物質の根源である光も明るさという感覚と切り離せません。感覚は命の営みですね。光自体が生命の姿でもあるのです。

□生物学的な生命概念ではなく、感覚し、知覚し、区別し、反応し、摂取し、排出し、消費し、生産するさまざまな活動や実践は生命的なものですから、コスモス全体が大いなる生命の循環と共生として捉えられます。あらゆる宗教はなんらかの形で、この大いなる生命とのつながりを実感しようとして生まれたのではないでしょうか。

□生命は大いなる生命の循環と共生として、コスモス全体に広がり、その意味でエターナル(永遠性)な存在ですが、それは個的生命として現れざるを得ませんから、生死の鎖、食物連鎖によってつながる命の環です。

□個的生命としては永遠性は彼岸のものであり、個的身体の時間的空間的有限性の彼方に、先祖から受け継ぎ、子孫へとつなぐ形や他者とのつながりを通して、また大いなる生命との一体感を通して実感するしかありません。それが宗教では様々な浄土や他界信仰、輪廻思想として語られているわけです。

□生命に対する信仰は、大いなる生命に対する信仰としては一神教として現れますが、生命は生命の諸相としてさまざまな姿をとりますので、八百万の神々の信仰が咲き乱れることになります。

□命の信仰は、命を受け取り、与えるという営みを通して培われます。この個的生命相互のつながりを意識しますと愛がテーマになります。愛こそが魂を救うのですから、愛が神として意識され、仏は慈悲の権化として捉えられます。

□しかも愛として捉えられた神や、慈悲として捉えられた仏は、もはや超越的存在ではなく、人間の心の純粋なあり方として主体的に捉え返されるわけです。

□飢えた虎に我が身を与えた修行者を見て、ゴータマ・シッダルダは覚りのきっかけを掴んだとされています。我が身を与える捨身こそ永遠の生命の循環に連なるので、永遠の生命への還帰と讃えられます。

□永遠の生命を象徴する大地母神カーリーに、生贄として捧げられる身体は永遠の命への還帰なのです。神への生贄は、それ自身神との一体化であり、神となることとみなされます。

□逆に神も人に食べられて、永遠の命を与えるわけで、キリスト教会では主イエスの聖餐を礼拝の中心的儀式にしています。イエスが弟子たちによって最終的に神と認められたのは、自らの血と肉を食べさせて聖霊を受け継がせようとしたからではないかとこの秘儀から連想されるわけです。

□永遠の生命は、個々の一つ一つの食物として我々に与えられているわけですから、個々の一つ一つの食物こそが、我々の命を支える命の神であり、愛の神であるわけで、稲荷や年神などの穀物神として穀物は信仰されていますし、食糧になる魚や獣たちも神として信仰されています。

□人は食物連鎖の頂点にたって食べられることを忘れてしまっています。本当は土や空気に戻ることも永遠の命の循環なのですが。

□たとえ、我が身を食べさせなくても、食物を与える営みを通して、命の循環に参与しています。ですから食物を調理して、食べさせることも命を与える宗教的行為であると思います。

□キリスト教ではイエスに対する聖餐が中心儀礼ですが、聖職者が調理し、共食の儀式を行なうということは、宗教儀礼にもっと取り入れられてもいいと思います。そうすることで、日常の家庭での食事も命をいただく宗教的な儀礼であることが省みられ、本来の宗教性が取り戻せるのではないでしょうか。

□食事を作るだけではなく、衣食住やその他の文化的な楽しみのために様々なものを作り出す営みも、生活を支え、彩り、活力を与えるのですから、命を与える活動の一環であり、愛の営みです。愛があって初めて生産やサービスの様々な活動が創造的な喜びにあふれることが出来るのであり、愛への信仰なしに生きる喜びもありません。

□その意味で、仕事や家事といった日常の営みこそ宗教的活動だということに気付くことが一番大切で、それこそが幸せに生きる道です。

□ですから宗教団体の儀礼や活動の中に光、命、愛を讃美し、しかも感覚的にも光、命、愛で満たされ、それが活動として光、命、愛を生むような形が常に創意工夫されていなければなりません。

□そういう視点から各宗教団体の組織のあり方、儀礼の内容、組織的な活動の内容、信仰の中身が吟味され、洗練されるように改革していくべきではないでしょうか。

□そういう観点から互いに批評し合い、評価しあうことによって、相互に宗教間の理解が深まるでしょう。そして平和や環境、文化などの各分野で協同し合い、協力し合える課題を見出して、力を合わせていけば、宗教の違いによる文明間のトラブルもなくなることでしょう。

>□そういう視点から各宗教団体の組織のあり方、儀礼の内容、組織的な活動の内容、信仰>の中身が吟味され、洗練されるように改革していくべきではないでしょうか。

なぜ、人は宗教が必要になるのでしょう?

祈るのは、なぜでしょう。

この二つの問いを導くために、団体が必要になるのでしょうか?
それは根源的な問ですね。法然上人も経も、教団も、寺塔も要らないという専修念仏を説かれたわけですが、浄土宗や浄土真宗は巨大な教団になっています。おおいに議論していく必要があることです。
三つのLが「光・命・愛」にあたることを指摘されているサイトが見つかりましたので、ご紹介致します。
「愛と希望と喜びにあふれた教会阪神チャペルセンターへようこそ」の
「礼拝メッセージ」より
http://www.geocities.jp/hanshinchapelcenter/3message2008/30807message4.html#

ーーーーーーーーーーー7月27日 礼拝メッセージーーーーーーーーーーーー

ーーーー「神の愛を生きる幸せ」  ヨハネよる福音書3種16節ーーーーー


□「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ:16)

□この聖書の言葉は聖書66巻の主旨を最も短く要約しているといわれている。弟子ヨハネは“三つのL”をテーマに書き残しているといわれる。その“三つのL”は「愛」、「命」「光」である。

□「愛」は、神の愛である。「世を愛された」というのはこの世の一人ひとりへの神の愛を言っている。人間は自分の力で生きているように思う。しかし、生まれながらにして母親の乳で育てられ、生まれたときから呼吸をする。その空気も、既に人が生きるために備えられたものである。生きることの出来る環境に人は生まれるのであり、所与のもの、言い換えればもともと与えられたものである。

□ヨハネの福音書の1章には「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神でああった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は言葉によって成った。」(ヨハネ1:1,2,3)と記されている。すべてのものは神の創造による。聖書の冒頭には「初めに、神は天地を創造された。」(創1:1)と言われている。

□神が、すべてのものを創造し人を生きるようにこの世を備えられた。
人を生かす、しかも、幸せに生かす環境を創造された。正に、それは神が人を愛することの証明となる。自然は偶然にできたのではなく「神の言葉」、「言葉」とは、聖書の言葉では「ロゴス」でありそれは理性と知性を意味する。物事には原因と結果がある。すべてのものは、創造の神に根源があり、その創造の動機は愛である。人を愛するために、生かすために自然は神に造られたのである。

□「愛」は責任をもつことによって確かなものになる。責任のない愛は、愛でなくなる。神を信じない人は自分を中心に生きる。「友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)とイエスは言われた。

□愛するものの為に「命を捨てる」犠牲になることこそが真実の愛の証である。神を信じることは、神の愛に生きることを意味する。互いに人が、共に生きる。それは愛に生きることでもある。その愛が自己中心の愛ではなく、愛する人のために自己を犠牲にする愛で生きるときに人は真実の幸せを経験する。神は、活ける神であり、愛であるからこそ、「光」としてその独り子イエス・キリストによって神の愛を証明された。

□人は、キリストに出会うことによって現実の自分を知ることになる。キリストは神の愛を語り、真実な愛から生まれる平和と喜びを伝えられた。人々は、キリストの真実に打たれ群がるようになる。それに対して為政者はキリストに反感を持ち、キリストを十字架につける。キリストは「敵をも愛せよ」との教えを空論にとどまらなかった。呪い、憎み、拒絶する人々を赦し、祝福し、最期まで罪深い人々を憐れまれた。これを見ていた人々は、「この人こそ神の子である」と告白したという(マタイ27:54、ルカ13:47)。

□人が、現実に神の愛に生きるときにこそ、神の約束される平和、平安、融和と希望が経験されることになる。それは変わることのない真実の命に生きることでもある。限りのある人生でなく、時空を終えた永遠に変わらない「命」、神の愛に生きることになる。人生は一度しかない。神の愛に生きる幸せを日々に築いこうではないか。


□今週のみことば コリント?、9章23節




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