ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

Standard Jazz Songコミュの【特別寄稿】アメリカン・ポピュラー・ミュージック(3)“ハワイ・コールズ”

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
皆さん、こんにちは。おなじみ田中宏幸先生のシリーズ(3)をお届けします。今度はハワイアンです。聴かれているジャンルの広さと深さにびっくりしますネ。

今回は南の島に舞台を移して、ハワイアン音楽の普及と発展に力を尽くした人たちのお話です。 暖かい日の光とゆったりした風に身をゆだねて、寒い日本の冬をしばし忘れて楽しんでください。

コメント(21)

      1950年代半ばから次々に発売されたLP。 すべて米キャピトル(Capitol Records)盤

         アメリカン・ポピュラー・ミュージック

(3)“ハワイ・コールズ”〜 Hawaii Calls

  今回はアメリカ本土から一歩外へ出て、常夏の楽園ハワイから話題をお届けします(ハワイ諸島は1959年に50番目の州に昇格)。 夏の音楽と言えば真っ先にハワイアンを思い出す方も多い事でしょう。 今回はハワイアン・ミュージック、中でも有名な “ハワイ・コールズ(Hawaii Calls)” に絞って、このグループのスターと優れたアルバムをご紹介します。 ハワイアンにも長い歴史があり、演奏家たちは古くから地元に伝わる歌も採り上げていますが、よく聴かれるポピュラーなハワイアンは、その大部分がアメリカ本土生まれです。 

  Hawaii Calls

  ラジオを通じて全世界にハワイアン・ミュージックを発信し、世界中を虜にした立役者と言える有名なグループです。 彼らが居なかったらここまでハワイアンがポピュラーになる事はなかったでしょう。 それほど彼らの功績は大きかったのです。 

  ハワイアンにも様々な音楽や形態がありますが、彼らは以前から “本物の” 音楽だけを提供してきたプロフェッショナル集団でした。 この名はグループの名ではなく実際は 【ラジオ番組】 の名称だったのですが、現在この名を聞けば、ファンなら誰でもこのグループを思い出すのはむしろ自然な事です。 以下、グループ名として扱って述べていきます。

  “ハワイ・コールズ” は1930年代には既に結成されていた歴史のあるグループで、当初よりラジオ番組を通じて、盛んに伝統的でオーソドックスなハワイアンを提供し、世界を席捲していました。 普段はハワイ諸島の7つの島々で、それぞれのグループを率いて演奏活動していた歌手や演奏家が、週末になるとオアフ島ワイキキ・ビーチのモアナ・ホテルに集合し、ひとつになって歌い演奏したグループだったのです。 トップ・スターが集ったグル−プですから、その演奏の素晴らしさは群を抜いたもので、瞬く間に世界中に大勢のファンを生んだものでした。 常に20人を下回らないスター達が、ラジオを通じて毎週ロマンティックな南国の香りを届けていたのです。 我が国でもFEN(米極東放送)を通じて聴く事が出来ました。 また発売されたアルバムも30枚以上に上り、今でも多くのファンが追い求めているのです。

  土曜正午の鐘の音と同時に司会の掛け声で、会場から一斉に “アロハ!” と沸き返り、有名なハワイ・コールズ・ショウの幕が開きます。 リーダーとして長年統率していたのが1902年生まれのウェブリー・エドワーズ(Webley Edwards)でした。 彼のナレーションには始めに決まり文句がありました。 

  彼が亡くなる1977年の2年前まで、実に40年もの間そのラジオ放送は続きましたし、流したラジオ局の数が世界中で750にも及んだなど、今では考えられない話でしょう。 さらに1966年にはラジオ・ショウと同じく30分編成のTVショウも開始されました。 1960年前後の最盛期にはスターが目白押しで、その中にはエセル中田、南かほるといった日本人歌手も在籍し、また世界中のポピュラー音楽ファンを驚かせた大スター、アルフレッド・アパカ(Alfred Apaka)を輩出したのです。 他にスティール・ギター奏者のジュールス・アーシー(Jules Ah See)は天才と呼ばれるものの若くして亡くなりました(1960年)が、もう一人の奏者ノーマン・アイザァクス(Norman Isaacs)は1975年の最後のアルバムでも元気に演奏していました。 常にサポートしてきたダニー・スチュアート(Danny Stewart)も有能な演奏者として、アル・ケアロハ・ペリー(Al Kealoha Perry)はグループ全体のオーケストラ・リーダーとして、共に才能を遺憾なく発揮しました。
 
  その後本土でのアメリカン・ポピュラーの急激な変化は1960年代に遠く離れた島々にも押し寄せ、ハワイアン・ミュージックそのものに影響を与えました。 伝統的な音楽は現代の若者にあまり受け入れられなくなり、結局このグループも解散せざるを得なくなりました。 しかしすぐに熱心なファンの間から再結成を望む声が高まり、1992年には若いメンバーも加わって集まった事がありましたが、ラジオ放送再開の話は立ち消えになってしまいました。 それでも1993年には有志により再結成され東京(原宿)公演も実現し、往年のファンが一堂に会したものです(筆者も聴きに行った)。
  
  彼らの素晴らしい音楽は、今となっては残されたアルバムでしか聴けなくなりましたが、その当時の録音は未だに色褪せずCDとして時に復活します。 米キャピトル(Capitol)レコードから出されたアルバムだけでも25種類に上り、そのほとんどは現地録音ですが、その後も地元盤や編集盤が出され総数で30数枚出されました。 別に我が国で編集された日本版LPやCDもありました。 ラジオ・ショウの録音がかなり残されている筈ですから、今後も世に出てくるかも知れません。 それではハワイ・コールズの遺したアルバムを見て参りましょう。 

<Hawaii Calls ディスコグラフィー> 〜アルバム・タイトル、製作会社、アルバム・ナンバー、年号 《(*) は全曲インストルメンタル、T- はモノラルのみ》

1 Hawaii Calls, Capitol Records T-470, 1956
2 Hawaii Calls At Twilight, Capitol Records T-586, 1957
3 Favorite Instrumentals of the Islands, Capitol Records T-715, 1957 (*)
4 Waikiki !, Capitol Records T-772, 1957
5 Island Paradise, Capitol Records ST-1229, 1957
6 Hawaiian Shores, Capitol Records T0904, 1958 (*)
7 Hula Island Favorites, Capitol Records T-987, 1958
8 Fire Goddess, Capitol Records ST-1033, 1959
9 Hawaiian Strings, Capitol Records ST-1152, 1959 (*)
10 Hawaii Calls Greatest Hits, Capitol Records ST-1339, 1960
11 Let's Sing With Hawaii Calls, Capitol Records ST-1518, 1961
12 Exotic Instrumentals, Capitol Records ST-1409, 1961 (*)
13 Stars of Hawaii Calls, Capitol Records ST-1627. 1961
14 A Merry Hawaiian Christmas, Capitol Records ST-1781, 1961
15 Hawaii Calls Show, Capitol Records ST-1699, 1962 (live show recording)
16 Romantic Instrumentals, Capitol Records ST-1987, 1964(*)
17 Waikiki After Dark, Capitol Records ST-2315, 1965
18 Hawaii Today, Capitol Records ST-2449, 1966
19 Webley Edwards presents "Hawaii Calls" Alfred Apaka's Greatest Hits, Vol.2, Capitol Records DT-2572, 196?
20 Best From the Beach at Waikiki, Capitol Records ST-2573, 1967
21 More Hawaii Calls Greatest Hits, Capitol Records ST-2736
22 Blue Skies Old Hawaii, Capitol Records ST-2782, release year unknown
23 Soft Hawaiian Guitars, Capitol Records ST-2917, release year unknown (*)
24 The Hawaii Calls Deluxe 2-LP Set, Capitol Records ST-2182, release year unknown (3-LP set is actually a repackaging of Favorite Instrumentals, Alfred Apaka's album Golden Voice of the Islands and Hawaii Calls Greatest Hits)
25 The Best of Hawaii Calls, Capitol Records ST1-141, release year unknown
26 Songs of the Golden People Lehua Records SL-7018, 1975
27 The Land Of Aloha Hawaii Calls HCS-920, release year unknown
28 Hawaii’s Greatest Hits Hawaii Calls HCS-921, release year unknown
29 Hawaii’s Greatest Hits Volume 2 Hawaii Calls HCS-922, release year unknown
他 Sound of Hawaii 東芝EMI ECS-67172-73, 1984(邦盤)など

<Compact Discs>
A Blue Hawaii Hula Records HCS-924A
B Hawaii's Greatest Hits, Vol. I, Hawaii Calls, Inc. HCS-921A
C Hawaii's Greatest Hits, Vol. 2, Hawaii Calls, Inc. HCS-922A
D Hawaiian Wedding Song, Hawaii Calls, Inc. HCS-923A
E A Merry Hawaiian Christmas, Hawaii Calls, Inc. HCS-925
F Hawaii Calls Greatest Hits, Hawaii Calls, Inc. HCS-927 (the best selections from Hawaii's Greatest Hits Volumes I & II)
G Memories of Hawaii Calls, Hawaii Calls, Inc. HCS-928
H Memories of Hawaii Calls Vol. II, Hawaii Calls, Inc. HCS-930
I The Land of Aloha, Hawaii Calls, Inc. HCS-920
J Hawaii Calls: The All-Time Favorites From the Famous Radio Program, Cema Special Markets CDL-57608, 1991
他 エセル中田のすべて 東芝EMI TOCT-5676, 5677, 1990(邦盤)

   

  
       左は器楽曲集。 スティール・ギター、ウクレレなどのハワイアン・インストルメンタルが存分に楽しめる。 右は素晴らしい演奏と歌を聴かせる数々の優れたLP。ライヴ盤を含めかなりの数がCDで復刻した

  アルバム解説
  米キャピトルからの初のアルバム 《Hawaii Calls》 (1956年) は10” LP(つまり10インチ=25cm)盤で、同じ年に日本盤も出ました(昭和31年)。 出た当時は日本中の熱狂的なファンはもちろん、西洋音楽に飢えていた人々からも大いに歓迎されました。 以下の各ジャケットも演奏のバックに時々入る静かな波の音も、南国情緒をいやが上にも盛り上げ、エキゾティックでのんびりしたリズムと美しい音色がファンの部屋を満たしたのです。 彼らの正統派の音楽は国籍を問わず大いに好まれ、またその後のミュージシャンたちにも多大な影響を与えました。 

  最盛期にウェブリー抜きにはハワイ・コールズの演奏はあり得ず、LPのジャケットのタイトルにはいずれも “Webley Edwards Presents” の文字が付いています。 1956年にLP発売を開始し、’50年代には計9枚のアルバムが出されていずれもヒットしました。 どれをとってみてもオーソドックスで美しい伝統的な音楽を聴かせ、常にリラックスしたムードを楽しめるのですが、時にはスリリングで楽しく、エキサイティングかつエキゾティックな美しいハワイアンを堪能出来ます。 ところで歌手のソロ・アルバムは別に出されていますが、ここに紹介したアルバムにもソロの歌はたくさん出ています。

  3、6、9、12、16、23の6枚はすべて器楽曲集です。 よく知られたナンバーからあまり聴かれない曲まで幅広く採り上げていますが、いずれも寛げるゆったりしたロマンティックな演奏を聴かせてくれます。 12の《Exotic Instrumentals》の選曲は他のアルバムとは異なり日本やフィリピンなど東洋のポピュラー音楽も含まれた面白いもので、それに合わせてリズムも違い、また東洋のドラなどの楽器も加わっていました。 1961年製作なので、当時流行したエキゾティック・サウンドの影響もあったのでしょう。

  1、2、4、5、7 ・・・ と立て続けに出されたアルバムはハワイアン・レコードを知らなかった人々に衝撃を与え、以前からのファンを大いに喜ばせた初期の歌ものです。 ジャケットからあたかも現地で聴いているかの様な、エキゾティックで暖かなムードに浸れる秀逸な作品群でした。 

  1の 《Hawaii Calls》 はジャケットにワイキキの浜辺があしらわれ、裏にはモアナ(Moana)ホテルの名が出てきます。 毎週土曜日の午前、ライヴでラジオ放送されてきたハワイ・コールズ・ショーの舞台でした。 ベニー・カラマ、サム・カプ、アンディ・ブライト、ラニ・ロドリゲスなど当時大活躍していた人たちの歌と演奏の、幕開け的なアルバムになりました。 “島の歌”、“ハワイの戦いの歌”、“アロハ・オエ”、“フキラウ” などお馴染みの歌が出てきます。 

  2の 《At Twilight》 ではソニー・ニコラス、プニニ、イワラニといったスター歌手が加わり一層華やかになりました。 “サンゴ礁の彼方に”、“カルア”、“星のレイ”、“ブルー・ハワイ”、“お別れはイヤ” などの綺麗なナンバーが並びました。 

  4の 《Waikiki !》 で初めて有名な女性シンガー、ハウナニが紹介されソロでいくつか歌いました。 “ワイキキの浜辺で”、“マプアナ”、“茶色の小娘”、“カイマナ・ヒラ”、“今別れの時” などの名曲を揃えています。

  5の 《Island Paradise》 は純粋なハワイ・コールズのアルバムではなく、ハワイ・コールズ以外にもオアフ島を中心にハワイの島々で活躍したソロイストやコーラス・グループをフィーチュアし、それぞれの演奏を聴かせる企画盤です。 有名なロイヤル・ハワイアン・バンド、アーサー・ライマン、セント・キャサリーン合唱団などの演奏も含まれ   ています。 普段はハワイアン・ヒルトン・ヴィレッジ(オアフ島)の専属歌手で世界的名声を博したアルフレッド・アパカのライヴも登場し、彼の声量豊かで透き通る美しいバリトンは実にロマンティックです。 他、レイ・キニーやマヒ・ビーマーなども独特の美しい喉を披露しています。 カメハメハ・アルムニ合唱団の “ハワイの国家” (旧国家時代)という歌は普段聴く事の出来ないものです。

  7の 《Island Favorites》 では各ソロイストが大いに気を吐いたアルバムで、ハウナニがソロで5曲歌った他、ソニー・ニコラス、イワラニ・カマヘレ、サム・カプ、ベナ・カペナなどが巧く歌いました。 曲は “フキラウ”、“可愛いフラの手”、“シーブリーズ”、“モアナ”、“ブルー・ムー・ムー” などです
       1960年代に出されたLP。 グレティスト・ヒッツは2種類

  8の 《Fire Goddess》 は火の女神 “ペレ(Pele)” を崇め祭ったもので、選曲はポピュラーなものよりもハワイに伝わる神秘的な音楽を主体にし、また普段聴かれない楽器、例えばコンク(ホラ貝)やシャーク・スキン等を駆使しています。 静かで全体に地味な印象を受け、溶岩で出来たハワイの深い海の底を歩いている感じですが、時に火を噴く場所に出くわします。 女性歌手ハウナニ・カハレヴァイによる控え目の歌が全体に聴かれます。 それを所々で美しくサポートしているのが今や大の付くヴェテランで現役男性歌手の偉大なスター、ダニー・カレイキニです。

  10の 《Greatest Hits》 では将来を予感させるダニー・カレイキニの美しい “フキラウ・ソング” 他が聴かれます。 前後しますが21の 《More Greatest Hits》 では再びダニー・カレイキニが登場し “オールド・プランテーション” で自慢の喉を披露しています。 他に新人としてボイシー・カイヒイヒカプオカラニが若々しい歌を聴かせました。

  13の 《Stars Of Hawaii Calls》 は数々のスターがソロで歌ったアルバムで、女性歌手ニーナ・ケアリイヴァハマナはもちろん、アパカもハウナニも出ています。 プア・アルメイダ他のヴェテランも多数参加し、ソロあるいはデュエットで “ハワイの結婚の歌”、“茶色の小娘”、“バリ・ハイ”、“お手々を見つめて”、“南海の魅惑の島”、“可愛いフラの手” など有名な歌を中心に歌いました。 

  14の 《A Merry Hawaiian Christmas》 は珍しいクリスマスもので、コーラスが美しくまた人気歌手がソロでも歌いました。 雪景色とは無縁なメンバーも多い筈ですが ”ホワイト・クリスマス“、”ジングル・ベルズ”、”きよしこの夜”、”ジョイ・トゥ・ザ・ワールド” などを清らかに歌っています。 彼らは基本的に英語で歌いますが、大部分は途中で現地語も加わります。 

  17の 《Waikiki After Dark》 ではハウナニの遺した録音も使っていますが、エド・ケニー、マヒ・ビーマー、カイポ・ミラー、ベニー・カラマ、プア・アルメイダといったヴェテラン陣が大いに歌いまくりました。 “ミロリイ”、“黄金の夢の島” などのお馴染みの歌が多数含まれています。 またアルフレッド・アパカのスタジオ録音で美しい歌 “虹のむこう”、“ラヴリー・フラ・ガール” が使われました。

  18 《Hawaii Today》 では1960年代後半から1970年代初期に活躍中だった新たなメンバーを加え、比較的新しい歌も含んだ作品です。 何と言ってもアルフレッド・アパカ・ファンにとって、彼の息子ジェフが歌っているのが大きな朗報です。
        左は1968~9年のアルバム。右のアルバムは1975年に出された最後のオリジナル作品

  22の 《Blue Skies Of Hawaii》 は製作ナンバーから言えば1968年後半〜1969年に発表されたものでしょう。 いつものメンバーに加え、当時既に亡くなっていたアルフレッド・アパカ、退団していたハウナニもフィーチュアされていました。 ミュージカルでも有名なエド・ケニーの若々しい歌声も聴かれます。 曲は “ヒア”、“アイル・リメンバー・ユー”、“マウイ・ガール”、“島の歌”、“ハワイの小さな藁ぶき小屋”、“ヒロ・マーチ” などです。 また晩年のプア・アルメイダが歌うエキゾティックな名歌 “シー・アンド・サンド” は秀逸です。 以上1から25までは米キャピトル・レコード盤です。

  26の 《Songs Of The Golden People》 はキャピトル・レコードを離れたハワイ・コールズが、地元の会社レフア(Lehua)レコードから1975年に発表したLPで、未だCD化されていません。 冒頭では美声のダニー・カレイキニが新しい歌2曲(アロハ!、ザ・サンズ・オブ・ワイキキ)を元気に披露し、B面では彼とペニー・シルヴァの2人が美しい喉で掛け合っています。 ペニーはソロでも歌いました(パオアカラニ)。 偉大なテナー歌手チャールズ・デイヴィスが歌い(コナ・カイ・オプア)、また有名なメンバー、ソル・カマヘレとその息子フランシスなども参加しました。 新進気鋭の歌手パラニ・ヴォーンが軽快な自作の機関車の歌(トレイン・ソング)を歌いました。 アルバム発表の時点で既に亡き名歌手プア・アルメイダが、珍しく美しい弦をバックに歌った1960年代後半の録音(アクロス・ザ・シー)もありました。 さらに、注目の女性歌手メルヴィーン・リード(ノ・ケアヌ・アヒ・アヒ)や、巨漢で新星の美声歌手ジョー・レカ(お別れはイヤ)などが加わって大層賑やかな顔ぶれでした。 これを最後に新作LPは出ていないと思われますが、偶然ワイキキ・ビーチのレコード・ショップで見つけた時は驚き大いに喜んだものです。
         左奥はキャピトル原盤でピックウィックから出された編集もの2枚組。 右奥は東芝(キャピトル原盤)から。 手前右手の2枚はキャピトル原盤ではなくラジオ用録音が編集されハワイ・コールズ・ミュージック・グループ(フラ・レコード)から出されたもの

  27~29 《The Land Of Aloha》 は1950年代後半〜1970年頃に録音された Hawaii Calls Showから抜粋した曲をレコード化したもので、全てライヴ盤となっています。 アルフレッド・アパカ、ニーナ・ケアリイヴァハマナ、パラニ・ヴォーンなどの美しい歌が聴かれます。 《Hawaii’s Greatest Hits》 及び 《Hawaii’s Greatest Hits, Volume2》 はスタジオ録音盤で、過去に出されたキャピトル原盤からの録音が収録されました。 

  30 《サウンド・オブ・ハワイ》 は東芝から発売された、我が国で編集されたLP盤で2枚組でした。 うち1枚は11曲のエセル中田のヴォーカルを前面に出したもので、彼女がハワイ・コールズにゲストで参加していた1958年の録音(オリジナル・タイトル 《Ethel Sings Hawaii》)であり、演奏は全てこのメンバーによるものです。 彼女がハワイアン・シンガーとしてデビューし本場の音楽を学びたいとオアフ島に飛んだのが21歳の時でした。 リーダーだったウェブリーはすぐに関心を寄せてラジオで共演させ、さらに “一緒にレコードを出さないか” と彼女を驚かせたのでした。 ハウナニとは義姉妹の契りを交わし、またウェブリーの薦めでモアナ・ホテル等の有名ホテルで歌う事になったのです。 彼女は回顧録で “日本人でハワイ・コールズにゲスト歌手として招かれただけでも光栄の至り” と述べています。 日本人の好きな歌、例えば “カイマナ・ヒラ”、“ブルー・ムー・ムー” なども含め英語に日本語を交えて歌いました。 さらに和製の “別れの磯千鳥” まで披露していました。 日系の聴衆にさぞ受けた事でしょう。
          最近出た “思い出のハワイ・コールズ” で懐かしの歌声が帰ってきた。 右はエセル中田の名盤(すべてCD盤)

  CD盤では “思い出のハワイ・コールズ“ (原盤は 《Memories Of Hawaii Calls》)と題した2枚が、それまでのLP では聴かれなかった録音を出し、ファンを大いに満足させました。 すべてライヴ盤で、当時こういう風な演奏を聴かせたのだな、と思わせるに十分な楽しい盤でした。 もちろんナレーションはウェブリー・エドワーズ自身が担当しています。 他にもエセル中田のヴォーカル11曲を含めたCDも2枚組で東芝EMIから出ましたが、ハワイ・コールズとの共演の内容はLP盤のものと同じです。
お待たせしました。田中先生の“ハワイ・コールズ”の後半です。お楽しみください。
      アパカと天才子役スター、シャーリー・テンプル(NBCラジオ局で): 息子ジェフ・アパカ氏よりの御好意。 中・右は貴重なLP盤2種: ストリングズをバックにした美しい1枚(中)とライブ盤

  アルフレッド・アパカ〜 今でも人気不動のゴールデン・ヴォイス

  ここで一人の男性歌手をご紹介せねばなりません。 世界的に名声を博したアルフレッド・アパカ(Alfred Aholo Apaka)です。 彼は “ハワイのビング・クロスビー” と称されるほど後世に残る名歌手でした。 声そのものが大変ロマンティックで、天性の甘く響く彼の歌声は瞬く間に全世界の聴衆を惹き付けました。 大変スムーズで甘くて深い、その比類無きバリトン・ヴォイスは高い音も歌いこなし、他のいかなるハワイアン・シンガーをも圧倒したのです。 

  1919年3月ホノルル生まれ。 地元で育った彼がまだ10代の時、父親の奨めでコーラス・グループに入って歌いました。 高校時代には医者を目指していたそうですが、級友から歌手になる事を奨められていました。 既に頭角を現していた彼に目を付けた、有名なバンド・リーダーのドン・マクダイアミッドは彼をプロの道に進ませたのです。 アメリカ本国に渡ってから1年間ラジオ放送で歌い、その人気に火が付きました。 また有名なレキシントン・ホテルに出演中だったハワイアン・シンガーのレイ・キニーの誘いで数年間滞在していました。 その当時次の様なエピソードが残っています。

  “彼の放送が始まると、誰もダンナの放送を聴かなくなってしまうのよ”。 これは当時アメリカで人気絶頂だったポピュラー歌手ビング・クロスビーの奥方が残した台詞でした。 また有名なエド・サリヴァン・ショー(TV)にも招かれて歌っています。

  本国で絶大な人気を得たアルフレッドは、地元へ帰った後も次々と仕事が舞い込む日が続き、出演した先々のクラブなどを客で満員にしました。 その後ワイキキ・ビーチのハワイアン・ヴィレッジ・ホテルのタパ・ルームにてバンドを組み活動を開始しています。 このグループが有名なハワイアン・ヴィレッジ・セレネーダーズ(Hawaiian Village Serenaders)で、毎晩観光客から喝采を浴びていたのです。 その頃の録音は米デッカ(DECCA)に多数遺されています。 しばらくしてハワイ・コールズにも誘われ、ハワイアン・ヴィレッジ・セレネーダーズとの演奏の合間に毎週土曜日にはこのグループと一緒に活動し、その人気たるや不動のものとなりました。 ハワイ・コールズでは先に出たドン・マクダイアミッドがプロデューサーとして常に付き合ってきました。 彼らが紹介して広まったハワイアン・ソングは如何に多かった事でしょう。
      左は、米DECCA盤、1950年代のアルバム。1940年代半ばに既に世界的なスターになっていた。 中は米のスタンダードを歌ったLP。 右は男性歌手3人がそれぞれソロを歌ったLP(いずれもDECCA盤)

  アルバムから
  彼の遺したLPは多数ありますが、まずお奨めするのが、かつて米Capitolから出た 《The Golden Voice Of The Islands》 はまさに絶頂期の貴重なライヴ盤です。 隅々まで透き通るような甘いヴォーカルがホール全体に響き渡る傑出した1枚で、やや速い歌もゆったりした歌も彼自身リラックスした雰囲気で歌いまくりました。 会場から聴こえる拍手の音もさほど気にならず、素晴らしい録音です。 彼のテーマ・ソングとなっていた “ヒア”(Here, In This Enchanted Place)で歌い始め、“ブルー・ハワイ”、“ハワイアン・パラダイス”、“パオアカラニ” など美しい歌ばかり12曲を披露してくれました。 “ヒイラヴェ” では途中で楽しそうに笑いながらバンド・メンバーと掛け合いをする、ライヴならではのシーンも登場します。 

  Capitolに移る前、1950年代に合衆国のDECCAから多数のソロ・アルバムを出しました。 伴奏は常にハワイアン・ヴィレッジ・セレネーダーズを従えたセッティングです。 ハワイアンのスタンダードと呼べる歌はほとんど紹介していました。 美しい弦(編曲・指揮はアクセル・ストーダール)をバックにした 《Aloha ! Apaka》 は大変素敵な1枚で、特に “マプアナ” (Mapuana)は美しさのあまり感涙ものです。 やや珍しいLPとしてハリウッドで作られた 《Some Enchanted Evening》 があります。 ミュージカル・ナンバー “魅惑の宵” も歌いましたがコール・ポーター作詞作曲の名歌 ”夜も昼も” さえ歌っているのです。

  その他、“スピーク・ロウ”、“踊り明かせば”、“君住む街で” などもありました。 他のアルバムも彼の魅力が詰まった安心して聴けるものばかりでした。 今いくつかはCD化され販売されていますし、更に父アルフレッド・アパカ Sr. と親子でデュエットした曲を含んだアルバムも遺されています。

  米ABC- Paramountから出されたアルバム 《Hawaiian Village Nights》 は有名なアレンジャー、ドン・コスタが編曲・指揮した珍しいもので、本国での人気の高さを証明した様なものです。 ハワイアン・ヴィレッジ・セレネーダーズ、これに弦中心の美しいオーケストラを加えた演奏で “ブルー・ハワイ”、“ハーバー・ライツ”、“ムーンライト・アンド・シャドウズ” などを詩情豊かに歌いました。 この後Capitolに移っていきなり彼のヒット曲を集めたグレティスト・ヒッツ2枚が出ました。 すべてキャピトル・レコード用に歌い直したベスト盤で、こちらのバックは勿論ハワイ・コールズのメンバーが担当しました。
        左は(DECCA原盤)のベスト盤LP(左)とABC-Paramount盤LP 右の左上と中2枚はDECCA盤、下はCapitol盤の “ゴールデン・ヴォイス・オブ・ディ・アイランド”。 右上は初期(1940年代後半)のCord盤、その下はABC-Paramount(MCA)盤

  大手Capitolと契約してから優れたソロ・アルバムを次々に出してくれる ・ ・ ・ 皆がそう信じ期待していた矢先、アメリカ本国でTV 番組の収録を終えた短い休暇中に、彼はテニス・コート上で心臓発作を起こし1960年の1月に帰らぬ人となってしまったのでした。 このニュースは、全米はおろか全世界のポピュラー音楽界に大きなショックを与え、深い悲しみが襲いました。 実に40歳の若さだったのです。 彼の実績は貴重なレコードでしか聴く事が出来なくなったのですが、人々の記憶から消え去る事無く、つい昨年も彼の 【生誕90歳を祝う会】 が地元で催されました。 そこにはシンガー、ジェフ・アパカの姿もありました。
     アパカ一家の父と子: 左は若かりし頃のアルフレッド。 右は彼の意思を受け継ぎ立派に成長したジェフ  (写真はジェフ・アパカ氏の御好意による)

  息子のジェフ・アパカ

  ジェフリー・アパカ(Jeffrey Apaka:愛称Jeff)は今やハワイを代表する人気シンガーとして活躍中です。 父親そっくりの甘くて力強いヴォーカルを聴かせ、往年のアルフレッド・ファンをも取り込んでいるかの様です。 彼の声は父親のそれよりやや低めで、同じくロマンティックな響きを持ち、レコードはソロ・シンガーとしての、またごく後期のハワイ・コールズの一員としてのものがあります。 彼とはつい最近アメリカのFace Bookを通じて知り合い、彼自身から父親の色々な話を聞かせてもらえ、また親切にも貴重な写真も送ってくれました。 1946年6月生まれ。
       Capitolのアルバム3枚(左は東芝盤、すべて廃盤)。 CDはDECCA原盤で現在何枚か出ている

  ハウナニ・カハレヴァイ(Haunani Kahalewai)〜 七色の声の女性歌手

  “ハワイのファースト・レイディ”、“七色のビロードの声の持ち主” などと評され、アルフレッド・アパカと人気を分かち合った女性歌手ハウナニは、同じくハワイ・コールズの看板歌手でした。 

  1928年ハワイ島ヒロの生まれ。 わずか3歳でラジオ・コンテストにて2位を獲得し、後にタレント発掘コンテストで優勝しプロの道へ進みました。 1954年のハワイの映画でバック・コーラスをしているところをウェブリーに見出され、そのままハワイ・コールズに誘われ1957年のアルバム 《Waikiki !》 でデヴューしました。 1960年代に3度来日公演しています。 アパカ同様、正規の音楽教育を受けた事のない、生まれ持った才能を持った有能な歌手でした。

  大きなからだで貫録も存在感もありましたが、その虹色の声は2オクターヴを出す事が出来、特に低音域では男性歌手と間違われそうな太い声色も出せる、とても輝いた存在でした。 速い歌もゆったりした歌も彼女の声とすぐに分かるほど特徴的です。 ハワイ・コールズの一員としてキャピトル(Capitol)レコードに移ってから3枚のソロ・アルバムを出した人気歌手でした。 もちろん彼女の歌はハワイ・コールズの各アルバムで随所に出てきます。 やや気性が荒かった為かリーダーのウェブリーと衝突し1960年半ばにハワイ・コールズを離れたのは大きな損失でした。 その後デッカ(DECCA)レコードに移籍しソロ・アルバムを作り、1970年に引退後は本国サンフラン・シスコでハワイの土産物店を開いていました。 今では彼女のソロとしてのキャピトル原盤のCDが無くて大いに不満なのですが、デッカ盤がいくつかCD として復活し、ハワイ・コールズ復活CD盤(キャピトル原盤)の中ではソロを聴く事が出来ます。 
 
  キャピトル・レコードから出た3枚のソロ・アルバムはいずれも天性の美しい声を十分発揮したもので、ハワイ・コールズの主力歌手であった事を十分認識させるものです。 《Haunani !》 では “魅惑の宵”、“島の歌”、“アドヴェンチャー・イン・パラダイス”、”黄金の夢の島“、“スウィート・レイラニ” などを、《Trade Wind Islands》 では “ハワイの結婚の歌”、“珊瑚礁の彼方に”、“イサ・レイ”、“タヒチの花” などを、《Moon Of The Southern Seas》 では “ビヨンド・ザ・レインボウ”、“タンギ・タヒチ”、“リリウ・エ”、“バリ・ハイ”、“パオアカラニ” 等を実にロマンティックにまた力強く歌いました。
     左は女性シンガー、ペニー・シルヴァとのライヴ共演LP盤。 右はスタジオ録音CD盤

  ダニー・カレイキニ(Danny Kaleikini)〜 アパカ亡き後の第一人者

  彼はカハラ・ヒルトン・ホテルで長年、しかもほぼ毎晩の様にハワイアン・ショーを開いてきた、現在人気ナンバー・ワンのバリトン歌手です。 1955年にプロとしてデヴューし、ハワイ・コールズの1959年のアルバム 《Fire Goddess》 ではハウナニを支える様に、所々ダニーの美しい歌声が聴かれました。 当時 “ダニーこそアパカの後継者である” とハワイ・コールズの解説にあったほど、早くから大きな信頼と期待が寄せられていたのです。 1937年生まれ。

  スムーズで魅力ある低音域と同様に高音域も完璧にコントロールされた、張りのある甘い美声で多くのファンを持っています。 さらにショーマンシップに長けた歌手で、ステージを降りては聴衆の目の前で、日本語を含む様々な言語を駆使してジョークを飛ばし、客と一体になった楽しい演出を披露していました。 その様子は20年以上前にNHK-BSでも放映され、彼の素顔を垣間見ることが出来ました。 ハワイ・コールズではソロ・アルバムが無いのは不思議ですが、後期のアルバムではソロがいくつか聴かれます。 他社からいくつかアルバムを出しましたが、近年は女性の美声歌手ペニーシルヴァ(Penny Silva)との共演も多かった様で、デュオのライヴ盤(Hula Records)も出しています。 今や彼は “音楽界のハワイの大使” と呼ばれています。
       現代の歌姫ニーナ・ケアリイヴァハマナ出演の各種アルバムとCD盤。いずれも美しい声が聴こえてくる

  ニーナ・ケアリイヴァハマナ(Nina Kealiiwahamana)〜 ハワイのマリア・カラス
  今や女性歌手の代表はニーナ・ケアリイヴァハマナ(Nina Kealiiwahamana)以外に考えられません。 “ハワイのマリア・カラス” の異名をとるほど、彼女の実に澄んだ美しい声は、ハワイ・コールズのアルバムの中でソロでもよく聴かれましたが、特にあらゆる女性バック・コーラスの一員としても彼女は欠かせませんでした。 東京原宿公演(1993年)の際にはリーダー兼音楽ディレクターとして参加しましたし最近もCDを出し続ける第一人者で、年齢を重ねても相変わらず力強く綺麗な歌声を響かせています。 CDだけでも現在10枚以上が入手可能な人気歌手です。 

  彼女はハワイ・コールズが一旦解散した(1975年)後もダニー・カレイキニなどと一緒にグループの再生に取り組み、復活し公演する都度リーダーとなって中心的役割を演じてきました。 1975年以降は地元の若手バンドやシンガーと組んで新たな面を打ち出す事に成功しました。 1966年頃から有能なジャック・ディ・メロのアレンジで彼のオーケストラと組みいくつもの優れた古いハワイアンを紹介し、有名な 《Music Of Hawaii》 シリーズや 《Nina》 他を出しています。 1992年にはアメリカ生まれの古いスタンダードを歌ったCD 《Love Songs》 等を出すなど、彼女の芸域は広がるばかりです。 

  彼女が出たロドリゲス家は昔から有名な音楽一家で、ニーナ(3女)の姉ラニ・カスティーノ(Lani Custino、ロドリゲス家の長女)も美しい喉を持ちニーナと一緒にコーラスで歌い、またフラ・ダンスにも定評がありました。 すぐ上の姉ラヘラ(Lahela、2女)も美声歌手としてハワイ・コールズで大いに活躍しました。 この3姉妹の声質は元々よく似ており、誰が歌っているのか分からないほどです。 また同じ一家の男性歌手ボイシー・カイヒイヒカプオカラニはニーナのすぐ上の兄に当たります。 彼らの母ヴィッキー・イイ・ロドリゲス(Victoria (Vicki) Ii Rodrigues)もまたハワイ・コールズの創生期を支えた有名な歌手でした。 この一家が総出演したアルバム 《Na Mele Ohana ~ Vicki Li & Family》 も残されています。

  他のハワイ・コールズのスターたち
  ハワイ・コールズのメンバーなら誰でもスターでしたが、プア・アルメイダ(Pua Almeida, 1922-1974)を筆頭に、ハワイアンの大スター男性歌手は他にもたくさん在籍していました。 プアはラテン系(ポルトガル及びスペイン他)の血を引く有名な音楽一家アルメイダ家に生まれ、スティール・ギターの名手としてもつとに知られました。 演奏だけのものやユニークな美しい声のヴォーカル盤を含め、メンバーの中では最も多くのソロ・アルバムを色々な会社から出しています。 速い歌も得意でハワイ・コールズでは彼の巧みな演奏と歌が数多く聴かれますし、多くのアルバムは彼の歌で最後を飾っていました。 彼の父親もまた有名なメンバーでした。 カラニ・キニマカ(Kalani Kinimaka, 1939-)も素晴らしい喉を持ったテナー歌手として有名で、ベニー・カラマ(Benny Kalama, 1917-1999)は高い美しい喉を持った歌手で昔から活躍していました。 ソニー・ニコラス(Halemano ‘Sonny’ Nicholas)はやや鼻にかかった甘い声が特徴で特に男性コーラスには欠かせませんでした。 ソル・カマヘレ(Solomon Kamahele, 1921-2004)も年輪を重ねた巧い演奏者・歌手で、彼の息子フランシス・カマヘレ(Francis Kamahele)も立派な美声バリトン歌手に成長し、またTVシリーズ “Hawaii 5-O” にも出演しましたが、現在は牧師をしています。 

  
     ユニーク・ヴォイスのマヒ・ビーマー(左、CD)、演奏も格別巧かったプア・アルメイダ(中)、及びゴールデン・ヴォイスと呼ばれたジョージ・カイナパウ(右)

  ジェイムズ・カオプイキ(James Kaopuiki)は低いバリトンの美声歌手でベース演奏にも定評があります。 チャールズ・カイポ・ミラー(Charles Kaipo Miller)はやや高い美声の巧いテナー歌手でした。 エド・ケニー(Ed Kenney, 1927-)はブロードウェイの舞台でも活躍したヴェテランで吹き込み数も多いヴェテラン・バリトン歌手でした。 マヒ・ビーマー(Mahi Beamer)は有名なビーマー一家の出で特にユニークな喉の持ち主として知られ、ファルセット(裏声)の高いテナーが自慢でキャピトルからアルバムを2枚出し、また彼の息子たちはセシリオ&カポノ・ビーマーとして活躍中です。 後期で迎えられたチャールズ・デイヴィス(Charles K. L. Davis, 1925-1991)はテナーで太い声を持つ技巧派のヴェテランでした。 古いところでは戦前に既にスターだったジョージ・カイナパウ(George Kainapau)は裏声で高い美声を出す人気歌手でした。 他、それぞれ特徴ある美声で鳴らしたレイ・キニー(Ray Kinney, 1900-1972、テナー)、ジョー・カスティーノ(Joe Custino)、ジョーン・カマナ(John Kamana)、ドナルド・パイション(Donald Paishon)、アンディ・ブライト(Andy Bright)、サム・カプ(Sam Kapu)などと綺羅星の如く揃っていたのです。

  米本国ではバリトン歌手が活躍していた時代に、ハワイでは何故多くの男性歌手がわざわざ裏声で歌う事が多かったのか、それには理由がありました。 実はその昔ハワイでは女性が人前で歌う事を法律で禁止していたのです。 当時から男性が女性の代わりに歌い、裏声で歌う風習がつい最近まで続いていたと言う事なのでしょう。 現在、世界的に男性バリトン歌手にはあまり人気が無く、またほとんどが高い声の持ち主であり、現在は女性も歌えるので裏声は必要ありません。

  1940年代から活躍してきた女性シンガー、ジェノア・ケアヴェ(Genoa Keawe、93歳で没)も高くて綺麗な声を出す名歌手で、かつて “ハワイのエラ・フィッツジェラルド” と称されましたが、さすがに東京公演では声がかすれていました。 しかし壇上では元気いっぱいでしたし、一緒に歌っていたゲイリー・アイコは彼女の息子です。 イワラニ・カマヘレ(Iwalani Kamahele)もヴェテランの一人で、ソロやコーラスでもよく聴かれました。 プニニ・マクウェイン(Pinini McWayne)もシンガー・ダンサーとして腕を鳴らし、メルヴィーン・リード(Melveen Leed, 1943-)はソロのヴェテランとしてハワイ・コールズに迎えられ元気の良い歌を披露しましたし、ペニー・シルヴァ(Penny Silva)は声量があり力のある美声歌手のホープで、有名なカハラ・ヒルトン・ホテルでのショーでもダニー・カレイキニの相方として既に有名です。 ハワイ・コールズには、日本人として先に出たエセル中田以外に南かおるがゲスト出演していました。 

  グループ解散時の1975年当時には新進気鋭であった、現在のハワイアンを代表する歌手もたくさん居ます。 ゲイリー・アイコ(Gary Aiko)はやはり太めの低い美声で、東京公演でもその美しい喉を披露していました。 当時まだ若かったジェフ・アパカも既に60代ですが、同世代のパラニ・ヴォーン(Palani Vaughan, 1944-)はビロードの様な低い声を持つロマンティックな歌を聴かせる一人として活躍し、美しいアルバムの数枚は音楽賞を受賞しています。 ボイシー・カイヒイヒカプオカラニ(Boyce Kaihiihikapuokalani)もいつも若い声で素敵な響きを持った歌手です。 

  ここでは最も若いジョー・レカ(Joe Recca)は巨漢ですが高音域は繊細で、低音域は太くてたくましい美声を出すホープです。 東京公演の彼のソロのステージでは堂々とした歌いっぷりでした。 先に出たフランシス・カマヘレ(Francis Kamahele, 1953-)も美しく伸びのある声をよく響かせる有望株の一人でした(今は歌っていない)。 男性トリオとして参加したのがフイ・オハナ(Hui Ohana)で軽快な歌を披露していました。 兄弟デュオブラザーズ・カジメロ(The Brothers Cazimero)はローランド(Roland)とロバート(Robert)の名コンビで、ハーモニーの美しさには定評があります。 洒脱ながらもローカルな風を残した音楽センスは特に光りを放っており、既に37枚もの優れたアルバム(CD)を出し “The Caz” と呼ばれ親しまれています。 彼らに共通するのは、新しい流れを追い求めながらも常に伝統的な歌を大事にしている点なのです。
        新旧の2大ロマンティック・シンガー、エド・ケニー(左)とパラニ・ヴォーン右は、東京公演の際持参したアルバム ‘Songs Of The Golden People’。ジョー・レカから裏面にサインをもらえた。 公演では他に、ニーナ・ケアリイヴァハマナ、ゲイリー・アイコ、ジェノア・ケアヴェ等のスターが出演

  楽器演奏者にも優れた人がたくさん居ましたが、歌手自身はそれぞれ何らかの楽器を演奏していました。 演奏に徹した欠く事の出来なかった存在に、天才と称されたジュールス・アー・スィ(Jules Ah See, 1924-1960)や、バーニー・アイザアックス(Barney Isaacs, 1924-1996)、日系のメル・阿部のスティール・ギター奏者がありました。 他、アレンジャーとして活躍したダニー・スチュワート(Danny Stewart)、及び後期のアルヴィン・カラニカウ(Alvin Kalanikau Isaacs)も優れたスティール・ギター演者でした。 バックでフラを踊る女性ダンサーたちも色どりを添えたものですが、その中には勿論ロドリゲス家出身のメンバーも居ました。 更に長年音楽監督を務めたアル・ケアロハ・ペリー(Al Kealoha Perry, 1903-1999)の存在を忘れる事は出来ません。 彼はウェブリー・エドワーズの善き片腕としてハワイ・コールズに奉仕し、ジャケットにもよく名前が出ていました。

  さて話は変わって、私が在京したほぼ最後の時期に開催された 【新生ハワイ・コールズ 東京公演】 (原宿駅近くの会場にて、1993年7月23日夜)では、持参した数枚のアルバムの裏に数人からサインをもらう事が出来、またニーナとはほんの少しの間会話も出来たのでした。 周囲の見知らぬ中高年のファンから “こんなの持っている!” などと驚かれ貸して欲しいと言われ、ちょっぴり鼻が高くなったものです。 後日オアフ島在住のニーナ宛に書簡を出したところすぐに返事が来た事も、恐らくもう2度とない想い出となる事でしょう。
           左側の一番下は故ジェノア・ケアヴェ、中はニーナ・ケアリイヴァハマナの各サイン(LP裏ジャケット) 右は在りし日のウェブリー・エドワーズ (LP “Hawaii Calls Show” から)

―◆―◆―◆―◆―◆―◆―◆―◆―◆―◆―◆―◆―◆―◆―◆―◆― 

  ・ ・ ・ 多数のスターを輩出しヒット曲を数多く生み出したハワイ・コールズでしたが、1960年代に思いがけずアパカとハウナニの2大看板スターを失い、また長年音楽監督を務めたウェブリー・エドワーズ自身は1973年に引退し、他のリーダーが引き継ぐ事になりました。 しかしハワイ・コールズは放送ラジオ局の減少など資金面で苦しくなり、ウェブリーの引退2年後の1975年8月16日に、ラジオ放送ナンバー2083回をもって “長い休暇に入る” と宣言したのです。 その2年後にウェブリーは亡くなりました。 彼と一緒に歩んできたハワイ・コールズが最も輝きを放った時代だったのです。 彼らが遺した美しい永遠のメロディー、忘
れ得ぬ栄光のスターたちは、これから先も数多くのファンの心に末長く刻み込まれる事でしょう ・ ・ ・

MUCH ALOHA !
以上で、(3)“ハワイ・コールズ”の全編です。思い出された方、聴いてみたくなった方それぞれだと思います。演奏の音源をいろいろ探して楽しんでくださると嬉しいです。

ログインすると、残り2件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

Standard Jazz Song 更新情報

Standard Jazz Songのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。