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京の街を歩く〜京都人の京都案内コミュの地名の由来を歩く

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京都の歩き方は様々です。

いわゆる観光地といわれるスポットを中心に歩くことも楽しいものですし、美味しい食べ物や、スイーツを求めながら歩くという方法もあるでしょう。

私は地名に惹かれて歩くことがあります。
京都は町の歴史が古い分、とっても珍しい地名がたくさんあります。
いわゆる難読地名と言うのでしょうか。
もし私が京都に住む人間でなかったらとてもじゃないけど読めないような地名も多いのです。

難読地名だけでなく、地名や町名はそれぞれが歴史を持つ文化です。
そんな地名の由来を訪ねてみたいと思います^^

【画像】伝説に彩られた一条戻り橋、蚕の社、鳥居本

※お断り
このトピの記述は私が一市民として知り得た事を纏めたものです。
研究をしたりした結果ではありませんので、その点お含み置き下さいますようにm(_ _)m

コメント(15)

【清水】

なんと言っても京都で一番の人気スポットは清水寺^^
このコミュでも「あなたのコースプラン」でのご相談も清水寺を含むプランをご希望になる方が圧倒的多数ですし、一度でも京都にお越し下さった方の大半が清水寺の訪問をされています^^

確かに清水さんは「京都観光の」殆ど全てがあります^^
「舞台造り」と呼ばれる独特の伽藍建築そのものに加えて広い山内は春の桜、秋の紅葉などの美しさ、音羽山の中腹という高台に配された伽藍、特に‘清水の舞台’から一望出来る京都の街並みの美しさ、そして参道の清水坂の情緒や周囲にに展開する三年坂や二年坂、そして高台寺から円山に至る風情も含めて、旅することの魅力に溢れています。
私たち京都市民も日常的にお詣りする楽しさがあります^^

清水さんは昨日、今日の事ではなくて平安の昔から人々を惹きつけて来ました。
それは何よりも清水寺のご本尊である十一面観音菩薩様の魅力だと私には思えます。
清水寺は西国三十三ヶ所観音霊場の中核の札所です。
そして十一面観音様は、観音様の中でももっとも人気があって、十一のお顔の中に、慈悲、憤怒、激励、笑い、悟りなどのお顔があって、庶民を救ってくださると伝えられる観音様です。
そのお慈悲に満ちた庶民的なお優しさこそが人を惹きつけて来たのだと私には思えます^^

清水寺は奈良時代の末に、南大和、子島寺(観音寺)の僧賢心が、観音様のお告げを受けて山城の国の東山に金色水の源を尋ねて、音羽山中の滝で行をしていたとき、観音様の化身である白衣(びゃくえ)の老人に会い、その命に従って千手観音の木像を彫って開山したことが始まりとされています。

その後、坂上田村麻呂が妻の安産の為に登山したおりに、滝行中の賢心に出会い、生類殺生の非と観音様のお慈悲を説かれて妻とともに観音様に帰依して、観音浄土に相応しい滝の北の崖に仏堂を建立寄進したと言われています。
元々は大和の観音寺に対して「北観音寺」と呼ばれていたそうですが、音羽の滝が六根清浄(ろっこんしょうじょう)の‘清めの滝’として神聖視されていたところから「清水」という寺名になったと言われています。

京都は「水の都」とも言われます。
京都盆地の地下には琵琶湖にも匹敵する地下湖の存在が現在に至って科学的にも確認されていますが、深い地底から湧き出る枯れることのない水脈から音羽の滝は流れ出ています。

三筋の滝は「中は利、右は知恵、左は慈悲。観音の三体とす」と言われます。
庶民的な観音信仰と清らかな水、それこそが清水の地名の起こりなのですね^^

【画像】仁王門、本堂、音羽の滝
【清水】(追加)

●コースプラン
三十三間堂から清水へ
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=2748050
京都駅から六波羅を経て清水へ
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=28428116&comm_id=321830
【三年坂・二年坂】

◆清水寺への三つの参道
清水と言えば正面参道に当たる清水道(或いは清水坂)と共に三年坂や二年坂でしょう^^
この道の風情を求めて多くの方がおいで下さいます。

清水には三つの参道があります。
一番南側が五条坂。
五条大橋から清水に至るいわば南の参道。
旧平安京の五条通りに繋がる正面参道に当たる清水道。
そして北の円山から至る三年坂です。

この三つの道は清水寺楼門のおよそ300mほど手前で正面の清水道に合流します。
近年は清水道に並行して清水寺のいわば裏門に至る茶わん坂という道もあります。

◆子安信仰の産寧坂
ところで何故三年坂なのでしょうね(笑)
一説には、この三年坂で転ぶと三年以内に死ぬという伝承があります。
この三年坂は祇園さん、八坂神社から清水寺へお詣りするために出来た道ですが、確かに清水寺に合流する辺りは勾配もきつい石段の道で、雨でも降れば滑りやすい道ですね^^

ところで三年坂は「産寧坂」とも呼ばれます。
清水寺の奥に子安の塔と呼ばれる三重の等があります。
元々清水寺が出来る前からこの地には「泰産寺」というお寺が、現在の清水寺の入口付近、清水坂を登り詰めた右側あたりにあったそうです。
昔から「子安さん」と呼ばれ、安産の守護として庶民の人気も高くかったそうですが、そこからお産の安寧の為にお詣りする道という意味で「産寧坂」と呼ばれ、「アンネイサカ」という音が先の伝承などと合わさって「サンネンサカ」となったと言われます^^

今でも必ず産寧坂と言われる方も多いようです^^

現在の子安の塔は寛永年間に再建されて現在の清水寺の奥の院近くに移されました。今も子安観音様として安産祈願の信仰を集めています。

◆竹久夢二と二年坂
二年坂は三年坂に繋がる道として名付けられたそうで、特段の意味はないようです。ちなみに二年坂の入口付近には一年坂もあります(笑)
ちょっと乗りすぎかも、ですね(爆)

この二年坂には明治から大正にかけて活躍した叙情画家竹久夢二が住んだことで有名です。
岸たまきと言う女性と結婚し、東京に「港屋」という店をたまきに出させたところ、そのお店で知り合った12歳年下の笠井彦乃と深い仲になって、たまきと彦乃の板挟みになって夢二は京都に逃げます。
たまきも家を出て、結局夢二は二年間ほど次男の不二彦とこの二年坂で暮らします。
その後、彦乃も京都に絵の修行に行くと言って、夢二、不二彦と三人で暮らすことになるのですが、その半年後、彦乃は東京に追われ、夢二も東京に帰ります。
彦乃はその後僅か23歳の短い生涯を病気の為に閉じます。

芸術家らしいと言えばらしい、激しく波瀾万丈の生涯を送った夢二ですが、その儚げな作風に女性のフアンも多いようです。

三年坂とは違い二年坂は由来と言うものはありませんが、夢二の人生の一こまが刻まれている場でもあります。

【画像】三年坂にて、三年坂のお地蔵さん、子安の塔
【みたらし団子】

みたらし団子は今や全国に普及した和菓子と言うよりは、おやつ菓子と言った方がいいようなお手軽なお菓子ですが、各地でいろんな形で食されていて、そのそれぞれにルーツもあるようです。

このお菓子のルーツについて、その一説に京都の下鴨神社が発祥の地という説があります^^

下鴨神社は通称で正式には「賀茂御祖神社・かもみおやじんじゃ」と言って、加茂川上流にある上賀茂神社(正式名は「加茂別雷神社・かもわけいかづちじんじゃ」)と共に、平安遷都以前の山城の国の支配者であった加茂氏(或いは鴨氏)にゆかりの神社とされています。
毎年5月15日行われる「葵祭り」は古くは「枕草紙」や「徒然草」などにも出てくる「加茂の祭り」のことで、この下鴨・上賀茂両神社のお祭りです。

下鴨神社は大原から発して比叡山の麓を流れ下る高野川と北山から流れ出る加茂川が合流して鴨川となる地点、出町柳と呼ばれるすぐ北側に広がる糺の森全体を境内にするところにあります。
糺の森は古代の山城の国の植生を今に残す古代の森として知られています。
住宅街の真ん中に広がる古代の森は御所のある京都御苑などと共に市民の憩いの場所でもあるのですが、その森の東側を流れるのが御手洗川(みたらしがわ)。
そして下鴨神社本殿の東端にあるのが御手洗社(みたらしのやしろ)です。

御手洗川は御手洗社の地下から沸き上がる地下水が流れ出たもの。
流し雛や足つけ神事などがこの御手洗川で行われます。

京都が水の都であることは↑の【清水】編で触れましたが、その京都の水系の要は下鴨神社とされています。
この地点での池の水位を測ることで京都の地下水の状態がわかるとされているのです。

御手洗社からは土用になれば清水が湧き出て、それは京都の七不思議の一つになっていますが、その時に出来る水泡。。。。
それがみたらし団子のルーツとされています^^

物事は何事も諸説あるものですが、みたらし団子のルーツは下鴨神社!
ある意味、京都の奥深さを表すお話しかも知れませんね^^

下鴨神社の西には「みたらし団子」発祥のお店と仰るお店、「加茂みたらし茶屋」さんがあります^^
http://www.kyotogmap.com/shop/0106_kamomitarasi/index.html#

【画像】糺の森、下鴨神社楼門、御手洗社



【一条戻り橋】

一条通りは旧平安京の北の一番端の通りでした。
現在は一方通行の数mほどの道幅ですが、平安京にあっては、幅35mに及ぶ大通りだったそうです。
その一条通りが堀川を渡る所に架かっているのが戻り橋。。。

すぐ近くには陰陽師阿部晴明を祀る晴明神社があって、戻り橋を少し東の一条通りには小野小町ゆかりの石碑も残されて、その昔から不思議な伝説が残されています。
東よりの南側には安部晴明の旧宅跡もあります。


延喜18年(918)のことです。
律令制の大学の学科の一部である文章科の教官の長である文章(もんじょう)博士だった三善清行(きよつら)が亡くなり、その父の死を知らずに熊野から京都に戻ってきたその子の浄蔵(じょうぞう)が堀川の橋を渡ろうとすると大層な葬列に出会い、聞くとそれが父清行の葬列であることに気づき、僧である浄蔵はお数珠を高くもんで、梵天帝釈や四天王並びに閻魔大王に、父の魂を今一度戻すに叫ぶと棺の中から父の声が聞こえて、父と子はその夜を橋の上で語り合って明かしたと伝えられています。

清行は当代一流の学者で、妖怪をも退治するほどの魔力を持っていたとも言われ、浄蔵は浄蔵貴所と言う僧侶で、賀茂川の水を逆流させて八坂の塔の傾きをなおしたと言われる霊力の持ち主。
この親子の伝説からこの橋を戻り橋と呼ぶようになったそうです^^

他に源頼光の四天王の一人だった渡辺綱(わたなべのつな)が美しい女性に化けた鬼の腕をここで切り落としたとも言われます^^

戻り橋のすぐ近くにある「楽美術館」は楽焼きの家元。
ろくろを使わずに手こねで作られ低温で焼く楽焼きは茶器などに重宝され、この美術館は楽焼き400年の歴史と伝統を伝え、初代長治郎から15代吉左右衛門までの作品や書、絵画、古文書などが展示されています。

【画像】戻り橋と楽美術館

橋の架かる堀川は昔は友禅流しも行われ、私の子供の頃は美しい水も流れていましたが、水流は暗渠になり、堀川は唯の排水路のようになってしまいました。
その辺りが少し残念ですが、夜にこの辺りを通るとなにげに不気味ささえ感じる一条戻り橋です。

【祇園】

祇園と言えば、京都でも有数の繁華街、祇園町とも呼ばれる花街は舞妓さんの姿を求める方などで賑わいます^^
清水と共にそお名前の認知度は一、二を争うことでしょう^^

でも、意外とその名前の起こりについてはおそらく多くの方がご存じないのではないでしょうか。

元々祇園は八坂神社の門前町として発達しました。
応仁の乱で焼け野原となった京都ですが、江戸時代になって八坂神社や清水寺への参拝者を相手に「茶屋」が次第に出来て、そこに働く女性が芸を身につけるようになって、芸も見せる茶屋として発展してきました。

祇園とその西側にある宮川町や鴨川西岸に発展した先斗町はそれぞれお八坂神社や、清水寺をはじめとする西国三十三ヶ所霊場のお詣りする人たちで発展してきましたが、伏見港の賑わいを背景に発展した伏見墨染の橦木町、そして西陣の勃興と共に旦那衆に愛された上七軒などの花街があります。

寛文年間に幕府による茶屋営業の正式認可を得て以来、幕末の祇園は御茶屋の数700軒、芸妓、舞妓の数は3000名を越えていたと言われています^^

明治になって祇園は「祇園甲部」と「祇園乙部」に別れて、「祇園乙部」が「祇園東」となって現在に至っています。

さて「祇園」という名前は江戸時代以後に定着した名前で元は「祇園村」と呼ばれていましたが、「祇園」という名前そのものは八坂神社にそのルーツがあります。
この八坂神社は明治維新までは「祇園感神院」「祇園社」と呼ばれる神仏習合寺院でした。
神仏習合寺院は、鎌倉時代に至って民衆に深く普及した仏教に対抗して、伝統的な神道の影響力を回復するために、外来の仏様は神道の教えを説くために神様に姿を変えてこの国においでになったという本地垂迹説に基づく考え方に拠るものですが、祇園社のご本尊の薬師如来(垂迹)の本来のお姿(本地)は素戔嗚尊とされました。
それが明治の「廃仏毀釈」による神仏分離令によって古代のこの地の地名である「八坂郷」から八坂神社と称されたのだと思います。
明治の廃仏毀釈は「神国日本」を創世するための大変恣意的なものですが、日本では外来の仏教と日本本来の宗教観を持つ神道が融合していたのですね。
私は日本人の寛容な宗教観が、宗教戦争を生み出すことなく、日本人の精神性を作って来たように思えます^^

『平家物語』の冒頭にも「祇園精舎の鐘の声・・・」と祇園の名前がありますが、この「祇園精舎」の「精舎」は古代インドにおける「寺院」の事です。
「祇園」の言葉のルーツは仏典(お経)にあって、古代インドの長者が私財でお釈迦様のために建てた僧坊(古代の寺院)の名前です。
仏典では「祇樹独孤独園(ぎじゅどっこどくえん)」と記載されていて、略して「祇園」となったのでしょう。

このことは他のトピでも「祇園」の名称のルーツとして何度も触れてきましたが、「神社」である祇園さんが仏教に由来する名前を持っている理由がおわかり戴けたかと思います。

【画像】祇園新橋・辰巳大明神、祇園の路地
バヒーヤさん☆

おそれいります^^

わたしが研究したわけでもないのですが、京都をもっと知って戴くきっかけになさって下されば嬉しく思います^^
クローバーさとみさん

いつもありがとうございます。

これをマスターして、京都を知らない人にすらすらと
話せるようになるまでがタイヘン!!

プリントアウトさせていただいて、熟読吟味します(笑)
じんさん☆

プリントアウトってマジですか(笑)

是非、マスターなさって、いろんな方にお伝え下さいませ^^
【太秦・蚕の社・かいこのやしろ】

京都市内四条大宮から嵐山へ至る通称嵐電(らんでん)、京福電車の「蚕の社」駅の近くにあるのが「蚕の社」と呼ばれる神社です。

あまりお耳に馴染みのない神社かも知れませんが、古くから雨乞いの神社として信仰も篤く、平安に時代の『梁塵秘抄』などの文献にも多くの参詣者で賑わっていたことが記載されているそうです。

そして何よりもこの神社の特徴は「蚕の社」と言う名が伝えるとおり、京都でも最古に属する養蚕、織物、染色などの神様であることでしょうか。
決して大きくはありませんが、それほど小さくもない境内はいつもとっても清潔に保たれていて、なんだか空気がとっても澄んでいるような感じ^^

「蚕の社」はもちろん通称で、正式には「木嶋坐天照御魂神社・このしまましますあまてらすみたまじんじゃ」という長い名前ですが、「蚕の社」と言えば京都では知らない人はまずおられないと思います。

「蚕の社」がある太秦一帯は渡来人である秦氏が勢力を持っていたところ。
戦前は日本の輸出品のチャンピオンだった絹織物ですが、その元となる養蚕は秦氏によって日本にもたらされたと言われます。
そして、それはこの太秦の地を皮切りに全国に広まって行きました。
その影響を伝えているのが「蚕の社」だと言われています。

この神社の本殿に向かって左に「元糺の池・もとただすのいけ」と呼ばれる池があります。
池とは名ばかりで殆ど水が涸れていますが、「糺」とは「正しく為す」「誤りを正す」の意味で、下鴨神社の「糺の森」を連想してしまいますが、「糺の森」はこの蚕の社の池から神様がお移りになったとされて、「糺の森」の起源はこの「蚕の社」とも^^
夏の土用の丑の日にこの池に手足を浸すと病にかからないという、下鴨神社と同じ「足つけ神事」が「蚕の社」にも伝わっています。

そんな故事からもこの神社の長い歴史が偲ぶことが出来るようです。
その「元糺の池」に奥にあるのが「三柱鳥居」。
この鳥居は三本の柱があって、真上から見ると正三角形に組まれていて、三方が鳥居の正面という珍しいもので、日本では唯一のものと言われています。
神社の由緒下記には1300年前に日本に伝えられたと言われるキリスト教の一派のネストル教、景教の遺物と言われています。

景教については全く知識がありませんので、どなたかご存じでしたら^^

鳥居のある位置は周りの木々に光も遮られる薄暗いところ。。。
お見逃しのないように^^
この三柱鳥居と京都御苑内南端にある厳島神社の唐破風鳥居、そして北野天満宮の伴氏社(ともうじのやしろ)の鳥居は「京都三鳥居」と呼ばれています。

●京福電車嵐山線「蚕の社駅」下車  0.30km 徒歩7分
 地下鉄東西線「太秦天神川駅」下車 0.48km 徒歩10分

◆コースプラン
蚕の社〜源光寺(常磐地蔵)〜東映太秦映画村〜広隆寺〜車折神社〜鹿王院〜嵐山

【画像】蚕の社、三柱鳥居
【千本通り】

千本通りは旧平安京の朱雀大路にあたります。
平安京は一条通りが北端の大路ですから、現在の千本通りは北はその郊外に、南は鳥羽街道に繋がります。

旧平安京の北郊外は、風水の玄武に比定された船岡山から西側を流れる紙屋川にかけて蓮台野と呼ばれる風葬の地でした。

その昔、大和の国、吉野山の笙の岩屋で修行していた日蔵上人は、冥界に行って、故人となった醍醐帝が苦しんでおられる所にあわれたと言います。
そこで故帝は「自分が苦しみを受けているのは、無実の臣下を左遷した報いだ」と仰って、上人に娑婆へ帰ったら、今上帝にこのことを申し上げて、自分のためには経典を読んで千本の卒塔婆を立てて欲しい、と仰ったそうです。

その卒塔婆を立てたところが蓮台野。
そこから出ている通りを千本通りと名付けたそうです。

その千本通りに面して蓮台野の南端の位置にあるのが千本閻魔堂の名で親しまれている引接寺(いんじょう)です。
ご本尊が閻魔尊天と言えば何か恐ろしげですが、閻魔尊は本来は地獄に堕ちた衆生を救う仏法の守護神でもあり、引接とは亡くなった人を「引接する」=極楽へ導くと言う意味で、風葬と言っても、遺骸をそのままに放置するのがその実態ですから、その菩提を弔う寺院として建てられたのだと言われます。
また蓮台野という地名は、引接寺を創始した恵心僧都の弟子、定覚(じょうがく)上人がこの野で「二十五三昧」という仏事を行ったときに、蓮の花が蘇生したという故事からこの地名が生まれたとも言います。

平安京を囲む三大風葬地は、東の鳥辺野、西の化野、そして北の蓮台野と何れも「野」の字が付いていますが、京都では風葬の地そのものを「野」と表現したとも言われます。

この近くには「釘抜き地蔵」で有名な石像寺(しゃくぞうじ)、千本釈迦堂の呼称を持つ、京都市内現存の最古の寺院建築を持つ「大報恩寺」などの名刹、古刹があります。

【画像】千本閻魔堂の閻魔尊天
【千本通りのコースプラン】

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=2960258&comm_id=321830
【百万遍・ひゃくまんべん】

京都の地名表示の慣習に従うと東大路今出川。
東大路と御所の北側の塀に沿って東西に走る今出川通りの交差点あたりの地名として京都市民に親しまれています。
交叉点の東南一帯は京都大学の本部キャンパス。
年末とお正月に行われる高校駅伝や、都道府県対抗女子駅伝ではコース途中の勝負所の地点としてご記憶にある方もおられる方もあるかもです^^

百万遍と言う地名はわたしにとって馴染み深いものです。
百万遍交叉点の南側は左京区吉田呼ばれる地域ですが、それはわたしの本籍地^^
小学校から大学まで、わたしはこの左京区吉田で過ごしました。
あたり一帯は京大の学生街でもあります。
この近くの病院でお仕事をしていた時期もあります^^
いわばわたしの地元なのです^^

よく考えると「百万遍」という地名は変わった名前ですね(笑)
百万遍って言うけど、何が百万遍なの、何を百万遍したの、って思いませんか^^
これはこの交叉点の北東にある知恩寺というお寺に由来します。
知恩寺であって知恩院とは違いますから間違えないでくださいね^^
知恩寺の正式名称は長徳山功徳院百萬遍と言って開祖が法然上人、その弟子の源也上人が建立したと言われる浄土宗の大本山の一つです。
昔は加茂神宮寺とか今出川釈迦堂などとよばれたそうです。

法然の教えは阿弥陀如来がわたしたちの大先祖であって、その阿弥陀様の世界である極楽浄土こそがわたしたちの生命の故郷だから、阿弥陀様のお名前を唱えれば、その故郷である極楽に帰ることが出来ると言うシンプルなもので、それが「南無阿弥陀仏」というお念仏だと言うことになります。

「南無」とは「帰依する」「南無する」という意味の動詞ですから「南無阿弥陀仏」というのは阿弥陀様に帰依致します、と言う意味になります。

知恩寺第八世善阿上人頃、都に疫病が発生し、元号を「元徳」から「元弘」に改めて、後醍醐天皇の勅によって宮中で十七日に渡って百万遍の念仏を行い効験あって疫病が鎮まったと言われています。
これが「百万遍」の地名のいわれと言われています。

交叉点に立つと東に大文字山の「大」の字正面に、西に鴨川・京都御所。北に北山のやまなみを望み南には京都大学のキャンパス。。。
かつて70年安保の時代には学生デモ隊と警察機動隊が激しくぶつかり合って、催涙ガスの匂いが漂った百万遍も、今は静けさを取り戻し、広い知恩寺の山内は近年、弘法さん(毎月21日)や天神さん(毎月25日)とともに、京都三大縁日とも呼ばれるようになった「百万遍手作り市(毎月15日)」で賑わっていました^^

●京阪電車出町柳駅下車、徒歩約10分
 市バス「百万遍」バス停下車
●コースプラン
 京阪電車出町柳駅〜下鴨神社〜百万遍知恩寺〜銀閣寺方面、或いは吉田神社〜真如堂〜金戒光明寺〜平安神宮

【画像】百万遍知恩寺と手作り市の様子

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