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ラテン(イベロ)アメリカ文学コミュのロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』〔白水社)

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 しょせん詩人なんてハンパ者。  銭を追ってる者にはとうてい思いつけないようなことをして、ひとりほくそ笑んでいればいいという、ただそれだけのこと。  詩聖なんていうのは、ただのことばのまやかし。  そんなところにオクタビオ・パスなんてのがのこのこしゃしゃり出て、詩とは見えないものを見せてくれる業なのだとか宣う。  へえ、なるほどねえ、そういうものかねえ。。。と、騙されてみるのも一興。  そこへくると、詩とは生きること、その生きざまなんだと吠える輩もいる。  それはそれで、じつにもっともらしい。詩とはもっともブルジョア的ではないアートだと諭すエライさんもいるにはいる。  さて、ではでは、詩人というのは、自堕落で、わがままで、身勝手で、ただの極道モノだと思っていいのだろうか。  ところが、そのへんに政治なるものが絡まってくると、ついおろおろしてしまう。  そこで、あらためて、詩って?と呟いてしまう。  ああ、進歩がないなあ。

( メキシコは自由の国のように見えて、アルフォンソ・キュアロン監督「Roma/ローマ」でも読み取れるように、そしてこの作品中でも何度か言及されるように秘密警察の眼に見えぬ存在が大きかった。いわゆるミッシング。ギリシャの監督コスタ・ガブラスにも「ミッシング」という映画があり、それはアジェンデ政権打倒武力クーデターのミッシング米国人を描いたものであったが、それが撮影されたのはメキシコ、主人公の住まいはコヨアカンにセットされていた。メキシコで起きてもすこしもおかしくない、と知人らは呟いてたもの。そんな背景もあり。)

読み出してみるとメキシコ・シティのバルデラス通り界隈のごみごみした、剣呑な街を基にフエンテスの『澄みわたる土地』にインスパイアされたモザイク・タイプの作品かと判じたくなる。

その一方で、詩はだれのためのものか、といういわば「階級」闘争が試みられ、詩を編むというのは、どう生きるかが問われているのでは、という流れになる。

詩の「階級」闘争でやり玉にあげられるのはオクタビオ・パス。

長いこと詩を編んでいればその姿勢に揺るぎが出てくるのはある程度、当たり前(もちろん、ぶれることなく編んでいった詩人も存在したわけであるが)。

半ば冷やかし気味に読み始めたわたしではあったが。読み進むにつれ、その拡がりに驚きをおぼえる。自己完結を目指すのではなく、自己拡散というやり方を見せつけられることで、いっきょにヴィジョンが拡がる。

詩人というのはどんな生き物であることか。

昔、聴いた話で、アリ・チュマセロという保守派とも見なせられかねないメキシコの詩人は「どこで書くかが問題なのだ」と宣わった。

国境を越えることが常態であったラテンアメリカの文人にとっては、きわめて意味深。

あるときまでのラテンアメリカ文学は、一国の国民文学という色彩を帯びていたが、あるときから国際性に彩られていった。

その意味では、この作品は、世界の今、そしてそこで生きる人、というテーマに迫ろうという気力に溢れていた。

そしておなじく溢れるひとの声。

この志向性はいったいどこから来たものであるか。定住と漂泊、ということばを噛みしめてみる。

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