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NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【武田信玄】山梨県

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【武田信玄】にまつわる山梨県の史跡写真館です。

コメント(14)

信虎誕生屋敷跡(岩下氏館跡)(春日居町)

この地域を支配した岩下氏の館跡で、武田信縄の側室だった岩下夫人がここで武田信虎を産んだという。
1508年武田家を統一し、1518年甲府に躑躅ヶ崎館を築いて、国衆ら家臣を集住させた。1522年、甲斐を統一する。
1541年、今川義元と会うため駿河に赴いたところ、息子晴信によって国境を封鎖され追放された。追放後は駿河や京で暮らし、晴信没後は息子信廉の居城である高遠城に身を寄せ、勝頼とも対面したという。
武田信玄公誕生之地(要害城跡)(甲府市)

母大井夫人が身重であったとき、駿河の武将福島正成が甲斐に侵入した(飯田河原の合戦)。大井夫人は躑躅ヶ崎館から、有事の際の詰城である要害山の要害城へ避難し、信玄を産んだという。
信玄公産湯の井戸(積翠寺)(甲府市)

大井夫人は要害城へ避難する途中に産気づき、積翠寺で信玄を産んだとする伝承もある。
躑躅ヶ崎館跡(武田神社)(甲府市)

武田信虎は1518年、甲府に躑躅ヶ崎館を築き、国衆ら家臣を集住させた。城下町は東西を藤川と相川に挟まれ、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地の扇頂部に居館が位置し、条坊制的に基幹街路が設定されるなど京風町並を意識していた。
躑躅ヶ崎館は以後、信虎・晴信・勝頼の3代の居館となったが、勝頼は1582年韮崎に新府城を築き、躑躅ヶ崎館から移転した。
平岩親吉が1590年に甲府城を築くと、甲府は甲府城を中心とした城下町に再建された。
1919年、館跡に武田神社が創建された。
武田典厩信繁屋敷跡(甲府市)

1525年、武田信虎の四男として生まれる。信虎は信繁を寵愛し、嫡男晴信を廃し信繁に家督を譲ろうとしていた。
左馬助の官途を称し、その唐名が「典厩」である。文武に優れ、信玄を補佐し信濃攻略で活躍した。1531年、第4次川中島合戦で戦死した。
1558年には「武田信繁家訓」を制定。中国古典から引用された箇所があるなど、信繁の教養がうかがえる。この家訓は江戸時代まで、武士の心得として広く読み継がれた。
武田刑部少輔信廉屋敷跡(甲府市)

1532年、武田信虎の六男として生まれる。兄信繁が戦死すると親族衆筆頭となり、戦時には後方守備や本陣守護をもっぱら務めた。1570年、高遠城主となる。
1573年に兄信玄が死去すると、一族の重鎮として飯田城代や大島城代などの要職を任された。信玄に人相が似ていたため、その影武者も務めた。北条の使者が信玄の生死を確認しに来たとき、信廉が応対して欺いたという。
父信虎が信玄の死後に帰国を望んだため、信廉が身柄を引き取り、居城高遠城に住まわせた。画家としても知られ、このとき「武田信虎像」を作成した。
1582年織田軍が南信濃から侵攻したが、信廉は大した抵抗もせず大島城を放棄して甲斐へ逃亡した。後に織田軍に捕らえられ、殺された。
板垣駿河守信方屋敷跡(甲府市)

板垣信泰の子として生まれる。武田晴信の傅役となり、晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと、家臣団の筆頭格となる。
武田が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代となり、諏訪衆を率いて信濃攻略で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで討死した。
甘利備前守虎泰屋敷跡(甲府市)

武田信虎時代から仕え、信虎追放事件では主導的役割を果たし、その後は最高職「両職」に就いた。
村上義清との上田原の合戦で戦死した。
飯富兵部少輔虎昌屋敷跡(甲府市)

1504年に生まれた。山県昌景は弟。
1531年武田信虎に反旗を翻したが、敗れたのちは臣従した。
信玄の嫡男義信の傅役や、赤備えを率いる大任を務めた。1561年の第四次川中島の戦いでは、妻女山攻撃の別働隊の大将を務めた。
義信が信玄と対立すると、虎昌は謀反の罪を一身に背負い自害した。弟の飯富昌景は山県に改姓し、飯富家は断絶した。
馬場美濃守信春屋敷跡(甲府市)

教来石信保の子として生まれる。教来石景政を名乗り、1546年馬場氏の名跡を継いで馬場信房と改名。1562年には、前年に隠退した原虎胤にあやかり美濃守の名乗りを許され、馬場美濃守信春と改名し、鬼美濃と恐れられた。
山本勘助から築城術を学び、深志城、牧之島城、江尻城、諏訪原城、田中城、小山城など武田の支城を築城して、築城の名手と評された。
長篠の合戦で殿軍を担い、勝頼を逃がすため奮戦して戦死した。
山県三郎右兵衛尉昌景屋敷跡(甲府市)

飯富虎昌の弟。甲陽軍鑑によると、昌景は虎昌が謀反を企んでいると承知で信玄に訴えた。この功績により、虎昌の赤備え隊を引き継ぐとともに、山県の名跡を継いだ。
1572年、信玄が西上作戦を開始すると、秋山虎繁とともに別働隊を率いて信濃から三河に侵攻し、浜松で信玄本隊に合流し、三方ヶ原の戦いに参加した。
1575年、長篠の合戦で戦死した。
高坂弾正忠昌信(春日虎綱)屋敷跡(甲府市)

石和の百姓春日大隅の子として生まれる。幼名は春日源五郎。信玄に見出され近習となり、その後小諸城代、海津城代に任命されるという異例の出世を遂げた。信玄とは男色関係にあったとされる。
虎綱は海津城にあって上杉謙信に備え、景勝の代には甲越同盟の締結に携わった。
信玄・勝頼の事績を記した「甲陽軍鑑」の著者とされる。
原隼人昌胤屋敷跡(甲府市)

原昌俊の子として生まれる。陣立てを立案する陣場奉行に任じられ、西上野侵攻では上野国衆への取次を務めた。信玄の晩年には、武田家の最高職である両職を担った。
1575年、長篠の合戦で戦死した。

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