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宗教的対話ー「三つのL」ーコミュのほふられた仔羊ーオウム真理教と「ヨハネ黙示録」ー

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これはオウム真理教事件に刺激されて書いたもので『月刊状況と主体』に掲載されたものです。

-------ほふられた仔羊ーオウム真理教と「ヨハネ黙示録」ー ---------

----------------------------------やすい ゆたか著------
---------------目次---------------------

一、オウム真理教事件

二、転輪聖王・シヴァ神

三、ほふられた仔羊・キリストの再来

四、「ヨハネ黙示録」の地位

五、愛と憎しみのアンビバレンツ

六、「ヨハネ黙示録」の呪い

七、「ヨハネ黙示録の要約

参考文献 山谷真牧師によるオウム真理教の総括

コメント(8)

-------------------------一、オウム真理教事件----------------



 一九九五年一月十七日、地震とは縁が無い筈の阪神地域で大地震が起こりました。紫色の閃光が走り、地底から衝き上げられる縦揺れの衝撃で、ビルや高速道路や家屋が瞬時にして崩壊し、日本の安全神話は吹っ飛びました。つい最近、ロスアンゼルス地震の惨状を見て、日本の建造物の耐震性は別格としていただけに、天狗の鼻をへし折られた恰好になりました。

既に九〇年代不況が長引き、技術面でも経営面でもアメリカに遅れが目立ち始めていただけに、日本人の自信喪失は深刻でした。それに消火活動が全くできず、大災害への対応が全く整っていなかったのがショックです。いざというときに国家が頼りになら ないと分かって、国家共同体意識の強かった日本人は根底的な反省を迫られたのです。

 その二カ月後、東京都心部で地下鉄サリン事件が発生しました。未曾有の凶悪な無差別毒ガステロ事件でした。この事件は世界一治安の良好な国としての日本のイメージを根底から覆したのです。この衝撃は「魂の縦揺れ」というべきものでした。

事件は目黒公証人役場の刈谷さん拉致事件の捜査を攪乱するために行われたらしいと、端からオウム真理教が疑われました。というのは、既に上九一色村のオウムサティアン付近でサリンガス散布の痕跡が発見されており、製造疑惑が持たれていた上の出来事だったからです。

 その後捜査が進展するに伴い、驚愕的な真相らしきものが見えてきました。サリン製造・散布は、オウム真理教が社会不安を引き起こし、国家への信頼を喪失させ、国家権力の転覆を企んだものだったらしいのです。

しかもそれに止まりません。彼らの宗教的な狙いは、「人類救済計画」という美名の下にハルマゲドンを現実化するという、究極の地獄絵の実現にあったのです。

彼らはオウム真理教施設が米軍からの毒ガス攻撃に晒されているという虚偽のプロパガンダを行ってきました。裏で化学班に毒ガスを製造させ、意図的あるいは事故でガス漏れを起こして、被害妄想に信徒を陥れ、対抗的に毒ガスの製造・保有 を正当化しようとしていたのです。

  教祖麻原彰光は、満州事変のシナリオを書いた石原莞爾の『世界最終戦争論』と同様、 ハルマゲドンが日米間の戦争によって到来すると予言していました。

麻原は、自らの行った予言は、それを現実化させることで真実であったことを証ししようとしたのです。毒ガステロを日米双方で引き起こして、それを相手のせいだと宣伝して敵意を持たせ、開戦に持ち込む作戦だったという推測も行われています。

  ともかく大規模に毒ガスを散布するなりして、人類を恐怖に陥れ、その大部分を殺戮した後で、オウム真理教施設に逃げ込んで、毒ガスから防御された人々だけが生き残るという計算です。その上で生き残った人々の上にオウム真理法王国を建国し、世界の統合を実現するという野望だったのです。それにしても麻原はどうしてこんな身の毛もよだつことを構想できたのでしょう。



    
-------------------二、転輪聖王・シヴァ神 -------------------

 吉本隆明は、麻原が宗教家としてスケールが大きいと指摘し、オウム真理教団に抹殺されかかった小林よしのりに糾弾されています。麻原の美化はその被害者の神経を逆撫でしますから、不用意に麻原賛美と受け取られる発言を行うべきではありません。

麻原の凶悪さは人類犯罪史上、画期的なものです。閻魔大王も麻原をいかなる地獄に落とすべきか大いに悩むに違いありません。これまでいかに凶悪な人間であっても、人類の大部分を掃滅して、自分を絶対的に崇拝する信徒だけを生かしておこうなどという発想をした人は恐らく皆無でしょう。織田信長、ヒットラー、スターリンより恐ろしい構想です。

そこまで世界を一新し、全く新しい世界をつくり出そうとしたのは、ノアの方舟の時の神であり、「 ヨハネ黙示録」の「ほふられた子羊」つまりイエス・キリストなど神および神の一人子に限定されるのです。同じ事をしても、神やイエスの構想が新しい天と新しい地をもたらすと賛美されるのに対して、麻原の場合は悪魔的行為として驚愕されるのです。

 バイブルでは神の審きに関しては、神は万物の創造主であるから、自分が作ったものを出来が悪かったので破壊して作り直すのは全く当然の営みとされているのです。同じことを人間である麻原が行えば、神が作られた世界を崩壊させようとしている悪魔的所業として糾弾されます。そこで麻原は、自分を神の位置にまで高めておく必要がありました。

 釈迦やイエス・キリストは、後世の人々によって神秘化され神格化されています。さまざまな超能力を発揮し、死人までも蘇らせるという奇跡さえ行っていると伝えられています。イエスが墓から三日目に蘇り、弟子たちの前に神の子の証明をしたことになっていますが、それが粉飾でないかどうかは、今更事実関係を確かめる術などありません。

麻原の場合、空中浮揚などの超能力が彼の神性を証明するものですが、公開の場で超能力を証明できたとは言いがたいものです。それにあの麻原のとても解脱したとは思えない好色ぶりや大食漢ぶりなど強烈な俗物性から判断しても、およそ聖人からは掛け離れています。で も限られた資料で釈迦やイエスの超人性を本物、麻原の超人性を贋物と決めつけるのはフェアではありません。

 麻原は彼を信仰する信徒の中では、釈迦やイエスの弟子たちに近い絶対的な帰依を集めていたことは想像できます。もちろんそれは長時間の監禁の末、薬物を投与したり、地獄を体験させたりした上でのマインド・コントロールの技術的な成果ですから、人徳によるものとはとても言えないでしょうが、結果的には帰依をかちえていたことに変わり有りません。

それに麻原の教義は、ハルマゲドン予言以降は、古い世界を一掃し、新しいオウム帝国に一新するというそれこそ画期的なもので、このような発想は、とても最終解脱者を除いては不可能だと浅はかな信徒達に思わせたのです。

自分を神に等しいランクにまで引き上げる宗教的な自己絶対化、ナルシシズムの極致において、宗教家としてとてつもないスケールに達したのです。でも彼は俗物根性を引きずったままでしたので、それと共に権力欲・金欲・性欲・食欲も肥大させてしまったのです。

 仏教という統一的な教説はありませんが、仏教の一説によれば、最終解脱者には二つの タイプがあります。一つは釈迦のように悟りの内容と悟りに至る方法を一人一人に伝授していく伝道者です。しかしこれでは時間が掛かりすぎます。とても一代で世界を「救済」することはできません。もう一つのタイプは世界を力で征服して、仏国土を建設する転輪聖王です。麻原は転輪聖王に成りたかったのです。

 転輪聖王は古い世界を一掃しますから、その破壊面はヒンズーの神で言えばシヴァ神に当たります。オウム真理教では、表向きは、シヴァ神は創造と破壊を司る神だと言っていますが、維持を司るヴィシュヌ神に対して、シヴァ神は破壊を司る神なのです。麻原は地上におけるシヴァ神の化身となって、彼が汚れきったと審判する人間世界を破壊し尽くそうと構想したのです。

 もちろん麻原がただの人間なら、彼の構想は殺人狂以外の何者でもありません。しかし彼ほど組織的に人類を掃滅しようと計画し、それを実行に移しつつあった殺人狂はいませんから、彼を人間という既成の概念に包摂することはできない、シヴァ 神の化身以外の何者でも有り得ないと、彼自身や彼の側近達も思い込んでしまったのでしょう。つまり麻原は狂気の人類大虐殺につながる教説を唱えれば、唱えるほど自己を神格化できることに気付き、その快楽にのめり込んでいったのです。
ーーーーーーー三、ほふられた子羊・キリストの再来ーーーーーー

 オウム真理教は、ソ連邦解体後の精神的空白を癒そうと宗教への飢餓状態に陥ったロシアに進出を計りました。そしてあっという間に、三万人の信者を獲得したと言われています。その際、神秘的なチベット仏教のイメージの上に、キリストの再来のイメージを付加しようとしたのです。 

  もっとも麻原のいう『滅亡の日』(オウム出版一九八九年二月刊)のキリストはイエス自身の生まれ変わりではなくて、シヴァ神に帰依する救世主ですが、人類の為に犠牲になって神に身を捧げられた者という意味で、麻原もキリストの境涯にあるということです。今にして思えば、シヴァ神信仰の導入やキリスト宣言は、麻原がハルマゲドンを人類に対して行うという宣言に他ならなかったのです。

 麻原は、ヨーガ道場を主催し、最終解脱までに階梯を設けて、弟子のランクづけを行って、競争させて上から階級的に教団を組織しました。教団内でのステージの向上に信徒の目標を定めさせていましたから、慈善や愛の実践などにはほとんど関心を示しませんでした。ですから突然キリストを持ち出しても、イエスのように隣人愛の実践を説くようなものではないのです。 

  キリスト教団は、オウム真理教の麻原キリスト再来説を荒唐無稽と嘲笑するだけで、その狙いや危険性を見抜くことができませんでした。そのことはキリスト教団が自らの教義の内容が、どのように悪用される恐れがあるか分かっていないということです。実に無責任な対応だと言わざるを得ません。

 麻原は自分の宗教活動を人類救済活動と位置づけています。そういいますと、麻原はただの詐欺師で金儲けの為に宗教をネタにしているだけだと反発されそうですが、たとえそうだとしても、詐欺活動を貫徹する為にも人類救済活動としての筋を通さなければならないのです。 

  教団のサティアンを建設し、信徒の修行場を確保し、大量の出家者を養成する仕事は、全人類の「救済」を意味するオウム帝国形成の第一歩の筈でした。オウム帝国は人類を麻原の奴隷化することに他ならないとしても、教団の目から見れば、それこそ真の解放であり、人類の救済に他ならないのです。

  この「人類救済」の第一歩のサティアン作りの段階で、熊本県の波野村の住民からの激しい反対運動に直面しました。また全国のオウム真理教の施設周辺住民のオウム真理教排斥運動は根強く、教団は次第に「人類救済」の為の修行活動に理解を示さない地域住民に対して激しい憎悪を抱くようになるのです。

 教団活動を強化、拡大していくためには教団が単に宗教法人であるだけでなく、もっと社会的に認知されなければなりません。そこで坂本弁護士一家を惨殺して「妨害」を除去する一方で、衆議院総選挙に立候補し、国政参加をねらいました。

  これには惨敗を喫し、憎悪の対象は周辺住民から国民全体へと向けられます。組織の危機に直面して、終末思想に飛びつき、終末が来るから出家しておかないと生き残れないと説得し、信徒の多くから全財産を巻き上げ、出家させることになったのです。

 仏教系の終末思想では末法万年説ですから、人類が当面滅亡の危機にあることは説きにくいのです。ところがキリスト教系ではノストラダムスの大予言が千年代末での終末を予言しているとされますから、麻原には好都合なのです。

  そこでノストラダムスの大予言の根拠にされている「ヨハネ黙示録」が注目されます。そこでは何と神の一人子イエス・キリストが再臨し、審判を行う姿が画像的に預言されています。「右の頬を打たれれば左の頬を出せ」「汝の敵を愛せよ、汝を迫害する者の為に祈れ」と説いた同じイエスが、そこでは人類の救済者というよりも、人類の大部分のホロコーストを指揮するのです。

 イエスは「ヨハネ黙示録」では、「ほふられた子羊」や「人の子のような者」いう名で 登場します。つまりイエスは、神の一人子でありながら、人類の罪を贖うために屠殺された犠牲の子羊だったというわけです。

  神は人類に不信仰の罪に気付かせ、正しい信仰に戻すために神の一人子を遣わされ、神への愛と隣人への愛に生きるべきことを教えました。

  しかし拙稿「バイブルの人間観」(『月刊状況と主体』一九九二年二月号)で解明しまし たように、人の子としての姿で現れなければならなかった為に、彼が神の言葉を伝え、神のごとき奇跡を行うことが人々には神を騙る者として、偶像崇拝のごとく思えたのです。

いかに生きるべきかはトーラーの形で既に預言者を通して神の預言として与えられていま す。イエスが本物のキリスト(メシア=救世主)に見えれば見えるほど、偶像崇拝として十字架に付けざるを得ない構造になっていたのです。

 イエスは神の真実の愛を悟ることができない人類の罪を一身に背負って、「ほふられた子羊」になったのです。この神の子の死を通して、人々は今や肉体を離れて純粋に思想となったイエス・キリストの福音を思い起こし、その思想的真実に直面せざるを得ない筈です。

  そして神の子を殺した神への裏切りを懺悔し、真の信仰に目覚めるべきなのです。そうしてこそ始めてイエスは人類を霊的に救済することができるのです。

  「ヨハネ黙示録」は、神が自らの最愛の一人子を敢えて十字架に付けてまでも深く人類を愛されたことに思い致すとき、その愛を素直に受け入れて改心することができない者達は、神を元々受け入れることができない者達であり、救済にあたいしない者達だと言いたいのです。

  イエスは再臨によって地上に神の支配をもたらすわけですが、その際に、新し い天と新しい地を引継ぎ、神の王国の住民と成れるのは、神の愛を受け入れた者だけであり、神にあくまでも背いた者達はすべて、人類の為に敢えて自らの身を捧げた「ほふられた子羊」イエス・キリストによって審かれて滅ぼされるべきだということになるのです。

  ただし麻原の解釈では、「人の子のような者」はその光り輝く様子からして、麻原がアストラル界で会うシヴァ神と同一だとし、「ほふられた子羊」はシヴァ神のしもべだとしていますから、イエス自身が破壊を指揮するのではないことになります。これはキリスト教徒ではなく、オウム真理教徒こそが破壊に携わるのだという解釈なのかもしれません。

 麻原は地域住民との闘争を通して、また総選挙での挫折を通して、「人類救済計画」の為にあくまで教団に敵対する現存の大部分の人類を清算すべきだという確信を「ヨハネ黙示録」から「啓示」されたのです。あの隣人愛を説いたイエスですら、地上に神の国をもたらす為には、人類の大部分を粛清せざるを得ないと考えていたのだから、自分たちが同じことを考え、実行しても何ら疚しいところはない筈だと考えたのです。

 そして人類救済の為に幾多の犠牲を払ってきたと自負している麻原は、自分こそ「ほふ られた子羊」=キリストだと主張します。何故ならキリストは人類救済の為にハルマゲドンを実行するのですが、それを本当にやろうとしているのは空前絶後、自分だけだと思われたからです。麻原の弟子達は、自分達はキリストである麻原の御使いとして、聖なるホロコーストを実行できるのですから、これ程神聖で光栄な仕事はないと考えたのです。

 麻原は『ノストラダムス秘密の大予言』(オウム出版一九九一年十二月刊)で、「神々 が人類に姿を現す。彼は大きな戦争の首謀者となる。神の前に静まりかえって見える軍事と攻撃、左手に向かってもっと大きな攻撃を起こす。」というノストラダムスの予言詩を「神または神の意を受けた超人類が人類を滅亡させる大きな戦いを仕掛けていく」(一一九頁)と解釈しているのです。もちろん麻原はそこで生き残るのは超人類だと思っています。予言者酒井勝軍の予言から次の言葉を『滅亡の日』に引用しています。

 「人類は今世紀末のハルマゲドン(人類最終戦争)で滅亡する。生き残るのは神仙民族だけだ。その王は日本から出るが現在の天皇とは違う。」(『滅亡の日』一八〇頁)

  
-------------------四、「ヨハネ黙示録」の地位--------------

 「ヨハネ黙示録」はヨハネにキリストの御使が示したとされるもので、福音書の著者でもあるヨハネの話を教団としても否定することはできなかったのです。

  とはいえ、「ヨハネ黙示録」の内容を教義に含めてしまいますと、キリスト教は普遍的な愛の宗教としての性格を著しく損なうことになります。つまり頑強にキリストの福音や贖罪を信じないものは、やがてイエス・キリストが軍勢を引き連れて現れ、皆殺しにしてしまうという内容だからです。

  世界には沢山の神の子や預言者を自称するものが現れ、民衆の目からは奇跡と思われる業を示し、尊い教えを遺しました。その中には迫害にあって殉教した人も沢山いたでしょう。その中からイエスを唯一のキリストと認めることができなかったとしても、それ程、神を冒涜していることになるでしょうか。

  それに世界にはイエスの名前すら聞いたこともない圧倒的多数の人民がいます。その多くは素朴な自然信仰や偶像崇拝を行っており、フェティシズムの風習も未開では多く見られます。

  そうした人々もヨハネから見れば無知蒙昧のせいで神を知らないで神を冒涜していることになるのでしょうが、それだけで審きの際に滅ぼされて当然なのでしょうか。それ程、イエス・キリストは無慈悲で残酷で非寛容 なのでしょうか。

  ユダヤ教やキリスト教の神には、愛の神と審きの神の両面があります。審きの神としては、唯一絶対神であるヤハウェ信仰を受け入れない者は、審判の時には厳しい裁きを受けます。ヤハウェ信仰を守った人々は楽園を約束されます。義の為に生きた人々も審判の際には、蘇って楽園に入ると夢想されています。つまり歴史の終焉の時に、神の義が証されて、最後に帳尻が合うという仕掛けになっているのです。

  ハムラビ法典では「目には目を、歯には歯を」という同等報復的な正義観念が強く、バイブルでも報復主義が強烈です。バイブルによれば、預言者サムエルはサウル王にイスラエルの出エジプトの際に、進路を妨害したアマレクを神の意志に従って女子供家畜まで皆殺しにするように命じたが、彼は王を捕虜にし、女子供と家畜を生かしておきました。サムエルは怒ってアマレク王を殺し、サウル王を一代限りにしたのです。

  ダビデは周辺部族を襲撃しては、頭皮を剥いで何千枚も持ちかえり、女たちの「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」(サムエル記上)という歓声に包まれます。つまりこの侵略は偶像崇拝を行い、神を汚している連中に対する神の名誉回復を賭けた正義の戦いなのです。

  イスラエルはヤハウェの信仰共同体でもあり、ヤハウェは契約によって、イスラエルの 最終的勝利と全地支配を保証しています。

  ですから最終的に審判で異教徒を絶滅させるという発想は、ユダヤ教の伝統を引き継ぎ、徹底したものでもあるわけです。

  神は正しい信仰を持ち続けた者のみを聖別され、それ以外は火の池で未来永刧苦しめられることにしなければ、正しい信仰は衰退し、イスラエルの分裂は避けられないと考えたのでしょう。

  キリスト教ではイエスが神の御子であり、人類の罪を贖って十字架の犠牲につかれたことを信仰するだけでキリスト者として認められることになっています。これはキリスト教徒にとっては自明の真理です。神が自分の愛しい一人子を犠牲にされた愛の深さに、感動し、この愛の神に帰依することは至極当然の事だと思われるからです。

  しかし非キリスト教徒にとっては、どうして大工の息子の殉教だけをそれ程特別視することができるのか、さまざまな奇跡物語がキリスト教徒達の作り話でないとどうして信じることができるのかと、はなはだ疑問なのです。

  そうした疑問を持つことが、審判で滅ぼされる充分条件だと したら、そんな無慈悲な神がどうして愛の神でありえるのかと反発してしまいます。
---------------五、愛と憎しみのアンビバレンツ-----------
  ヨハネが本当にキリストの御使から啓示を受けたのかどうか、事実関係を確かめる方法はありません。でもヨハネが書いた文章であることは一応認められるでしょう。そうでないとこういう幻想的な内容が教団の信憑性を得て『新約聖書』に収録されることはできなかったでしょうから。そこでヨハネの意識から「ヨハネ黙示録」の意味が解読されます。

それは神の愛に対して人間が応えることができなければ、神の愛は憎しみに転化するだろ うということです。その際、神の愛が深ければ、深い程、それが転化した憎しみのエネルギーも巨大化することになります。

 ヨハネはキリストが死者を蘇らせた奇跡を記しています。そしてイエスが永遠の生命を説いて、「我は蘇りなり、生命なり、我を信じる者はたとえ死んでも生きる。また生きていて我を信じる者は、いつまでも死なない。」と語ったことを福音書で紹介しています。

ヨハネはイエスが神の子であり、奇跡を行い、死んでも蘇ったこと、だからイエスに帰依することで永遠の生命を獲得できることを主に説いているのです。その点、イエスの愛の思想を深く追求したマタイやマルコの福音書とは性格が異なります。ですから神の愛を受け入れなければ、神の愛は激しい憎しみと怒りに転化して、恐ろしい罰を下すだろうと警告するのもよく分かります。

 神の深い愛に人間が応えなければ、人間は神の怒りに触れて滅びるという論理は、教団の側からみれば至極当然です。しかしこの神の愛は、無償の愛、自己犠牲的な愛、分け隔てない愛、寛容な愛といったアガペーの概念とは掛け離れています。それはこれだけ愛しているのに振り向いてくれないと逆上する、身勝手な片想いの論理です。昔は、素行の良くない男子中学生が、憧れの女子中学生に交際を申し込んで、断られると頬を張り倒して溜飲を下げることがありました。あまりそれと変わりません。

  またおびただしい殺戮シーンの連続に、ヨハネの潜在的な殺人願望が反映している気がします。小中学生の頃、私は東映のチャンバラ時代劇の大ファンでしたが、あの華麗な剣の舞で数十人、数百人の悪者達が次々と切り殺されていくシーンに陶酔感を感じていました。サタンが禁欲的な愛の実践に飽き飽きしたヨハネの殺人願望に働き掛けて、黙示録という形の殺戮のユートピアを体験させたのかもしれません。

  ともかくキリスト教が受容される文化的環境がどれだけあるかよく考え、それに対応した布教の仕方を考えるべきです。受容されないからといってそれを相手のせいにし、滅ぼしてしまおうなんて論理は神にしては大人気ないし、犯罪的です。弾圧下でのキリスト教の布教に苦労し、教会内の異端との闘争に手を焼いたヨハネのあせりと怒りが反映している気がします。

  それに「ヨハネ黙示録」には、ヨハネの創作だと仮定すると、神への裏切りと不信仰を人間の本質と見なす人間観が前提になっていると解釈できます。深層心理においてはヨハネ自身が不信仰に苦しんでいるのです。だからこそ、神の審判を人類に対するハルマゲドンとして凄惨な地獄絵に表現して、神を恐れることで信仰を守ろうとしたのです。ヨハネが本当に愛の神を信じているのなら、キリストの再臨を契機に愛の実践が実を結んで、教団が強固な共同体として社会に根づき、様々な愛の奇跡で頑迷な反キリスト者が改心するようになると考える筈です。
----------------六、「ヨハネ黙示録」の呪い--------------

 不信仰がもたらす愛や希望のない世界がいかに恐ろしいものか、それをキリストの審判にシンボリックに表現しただけで、実際にイエスがホロコーストを指揮するという解釈は表面的だという反論があるかもしれません。それならキリスト教団はそのように解釈を統一した上で、異教徒に対して敵対的で極度に恐怖心を与え、文化衝突の原因になる「ヨハネ黙示録」をバイブルから削除すべきです。

 最近統一協会やオウム真理教の「マインド・コントロール」が、カルト信仰を注入し、そこから脱却しようとすれば、激しい恐怖と苦痛を与えるものとして注目されています。地獄を映像的に見せたり、疑似体験させて、カルトの教義を信じないと地獄から抜けられないという固定観念を植えつけるのです。

「ヨハネ黙示録」も、ヨハネの創作なら、神が愛ではなく、憎しみや怒りとして登場すればいかに恐ろしいかを疑似体験させて、神への信仰を強制する「マインド・コントロール」の技術です。教団が自己暗示で信仰を固めようとするのは宗教としては当然ですが、その仕方には節度が必要です。特に愛の神、慈愛と寛容の神の信用を損なうべきではありません。また他宗教との凄惨な戦争を引き起こす 原因を作るべきではありません。

 「ヨハネ黙示録」と「ノストラダムスの大予言」に便乗して、今後ともカルト教団のいくつかが、ハルマゲドンに向けての危険な準備を始める恐れは充分あります。それに「ヨハネ黙示録」がバイブルから削除されないかぎり、異教徒はキリスト教に対してどうしても警戒心を拭い去るのは難しく、キリスト教徒の中に異教徒が審判で滅ぼされる日の到来を待ち望む心情が完全には払拭できないと思われます。とするとそのような他人の不幸を願う心を持っていて、神の国に入ることはできないでしょうから、キリスト教徒自体が「ヨハネ黙示録」によって呪われていることになります。

 このことは重大ですね。ユダヤ教徒はバイブルに書いてあるトーラー(律法)をひたすら遵守することに熱中しました。でもそのトーラーに呪われていたのです。何故なら彼らはトーラーを遵守して、何を願っていたかというと、自分が神の御国に入ることです。自己一身の彼岸での幸福の為に、隣人を愛するなどのトーラーを実践していたということになります。

そんな利己的な隣人愛は、親切の押し売りに過ぎず、偽善であって、神の御心に叶う愛ではないのです。トーラーを守れば、御国が保証されると教えられて、それを信じてトーラーを守ったのに、かえってそのことでトーラーが成就できていない、このこと を示したのが、イエスの福音でした。こうしてイエスはトーラーの呪いを解いてキリストに成ったのに、「ヨハネ黙示録」は新たな呪いをキリスト教徒にかけているのです。

 現在のキリスト教団の多くは、「ものみの塔」等の原理主義者を除けば、バイブルを字 句通り受け取ることをしません。バイブルが書かれた時代の文化や信仰の有り方が、今日とはかなり掛け離れているからです。奇跡や預言の受け止め方でも、象徴的な意味や精神的な意味に読み変えて、信仰の糧にしています。

「ヨハネ黙示録」のような凄惨な復讐的審判の預言は、神から心が離れた時に人間はどのような地獄を精神的に体験するかを、幻想的なイメージで示したものとも解釈できます。それに福音書中心の信仰が強調され、預言書は過去の信仰の記録と考えられているようです。再臨・審判信仰は後景に退き、愛の 神キリストの贖罪で人類の救済は既になされており、後はそれを信じるかどうかの問題だと考えられているようです。

 でも贖罪信仰と共に再臨・審判信仰は信仰の根幹だと考える傾向は、根強く残っています。そして「ヨハネ黙示録」がバイブルにある限り、バイブルを字句通り解釈する原理主義的解釈は常に台頭してきます。現に様々なカルトが「ヨハネ黙示録」の実現を待望していますし、オカルトブームに乗って、ノストラダムスの大予言がもてはやされています。

グローバルな世界統合が進展するなかで、いらざる猜疑心や恐怖心を与える内容は、お互 いに指摘し合って無くし合い、また互いに他宗教の持っている教義の中の普遍的部分を学び合う努力をすべき時代が到来しているのです。それを気付かせたという意味で麻原彰光の存在はダーティ・ヒーローだったと言えるのかもしれません。

  
-----------------七、「ヨハネ黙示録」の要約-------------

  「ヨハネ黙示録」に何が書かれているか、それは読者がじかに確かめて欲しいのです。私は、ここに要約を示しますが、麻原ショックから読み間違えているかもしれません。私自身はキリスト教に多少思い入れがあり、強い愛着を持っていますから、決して悪意で中傷する為に書いたのではありません。キリスト教会が私の提案を真剣に検討されることを願っています。

  ヨハネはこの預言が、すぐにも実現するとしています。そこで麻原はこれまでの世界史を「ヨハネ黙示録」の実現過程として読み解く作業をしています。ヨハネの預言の数字を一日を一年に読み変えたりしてなんとか、「ヨハネ黙示録」の記述をハルマゲドン直前までは世界史に見事にあてはまると解釈したのです。でもここでは麻原の「ヨハネ黙示録」解釈の検討は棚上げにして、「ヨハネ黙示録」の要約を紹介しておきます。

  ヨハネはパトモスという島で、映像による啓示を与えられます。復活後天に昇っている人の子(イエス)が現れて、まず七つの教会へ手紙を書いて、審判が近づいているから誤りを正すよう警告せよとヨハネに命じたのです。特にベルガモの教会ではバラムの教え奉じて、偶像崇拝に陥ったり、ニコライ宗を奉じている者いて、悔い改めないとイエスが口の剣で戦うというのです。またテアテラの教会では、淫らな女預言者が教えを乱しているので、イエスはこの女を病気にして、それと関係する者たちを患難に投げ入れると警告します。

  次にヨハネは天の映像を見せられ御座にいます「碧玉や赤めのうのようにみえる」神を仰ぎ見ます。右手には巻物があり、七つの封印がしてあります。これをほふられた子羊が解くのです。「あなたはほふられ、その血によって神のために人々を贖い、御国の民とされました。彼らは地上を支配するでしょう。」

  第一の封印を解くと、弓を持った者が乗る白馬が出て出陣します。

  第二の封印を解くと赤い馬に乗った者が現れ、人々が殺し合うようになる赤い剣をあた えられます。

第三の封印を解くと秤りを持つ者が乗った黒い馬が現れました。

  第四の封印を解くと青白い馬にのった「死」という名の男が「黄泉」を連れてでてきま す。彼らは地の四分の一の支配権と殺戮の権利が与えられます。

  第五の封印を解きますと、義の為に殺された人々の霊魂が「まことなる主よ、いつまで あなたは私達の血の報復をなさらないのですか」と大声で叫びます。

  第六の封印が解かれますと、太陽は黒くなり月は血のようになり、天の星は地に落ちま す。天は消え失せ、島と山は移動します。そして神の僕の額に印を押します。印を押されたのはイスラエルの部族の内十四万四千人だけです。もちろん印を押されていない人には審判で害せられるのです。そしてあらゆる国民の中から数えられない位の多くの白い衣を纏った群衆が神と子羊を讃えます。彼らは大きな患難を通ってきた人達だとされていますから、義の為に犠牲になった人々でしょう。

  ついに第七の封印が解かれます。香炉が天から地に投げつけられ、雷鳴や地震が起こり ます。まるで核爆弾ですね。そして七人の御使いがラッパを次々と吹き鳴らすのです。

  第一のラッパで、血の混じった雹と火が降り注ぎ、地と木の三分の一、全ての青草が焼けてしまいます。もちろん沢山の人も焼け死んだでしょうね。

  第二のラッパで、山の様な火の固まりが海に投げ込まれ、海の三分の一は血となり、三 分の一の海の生物は死に、船の三分の一が壊されました。

  第三のラッパで、燃えている星が落下して水源におち、水が苦くなって多くの人が死に ます。

  第四のラッパで、太陽や月や星の三分の一が打たれて、昼と夜の三分の一が暗くなります。第六の封印が解かれたときの異変は第四のラッパまでに直っていたのでしょうか。

  第五のラッパで、一つの星が落下して、底知れぬ所の穴が開かれ、そこから煙が出で、暗くなります。その煙の中からいなごが出てきて、額に神の印のない人達を襲い、さそりにさされる時のような苦痛を五カ月間与え続けます。人々は苦しみの余り死を願いますが死ねなかったのです。

  第六のラッパで、四人の御使が解き放たれます。彼らは二億人の騎兵隊を引き連れて、その馬の口から出る火と煙と硫黄で人間の三分の一が殺されたのです。でも生き残った人達は、それでも偶像崇拝やその他の犯罪を止めようとしなかったのです。

  第七のラッパで、大きな声が天に起こります。「この世の国は、われらの主とそのキリスト(麻原は自分こそこのキリストだと思っています。)との国になった。主は世々限りなく支配なさるであろう。」「すべて御名を恐れる者たちに報いを与え、また地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました。」

  また太陽を着て、足の下に月を踏み、頭に十二の星の冠をかぶった女と大きな赤い龍と戦い、天使ミカエルと龍の戦いがあり、サタンである龍は地に投げ落とされます。また豹に似た獣が海から上がり、龍から力と権威を与えられ、全地の人々はこの龍と獣に従います。彼らは聖徒に戦いを挑んで勝つことを許されていたのです。

  ほふられた子羊の命の書に名を世の始めから記されていない者は、皆この獣を拝むのです。この箇所はルターやカルヴィンの予定説に影響を与えています。また別の獣が現れて、獣の像を作らせそれを拝 まないものをみな殺させます。また獣の名または数字の刻印を額か右手に押させて、刻印がなければ売買ができないようにしました。

  やがて御使が神のさばきの時がきたと告げます。そして七人の御使が、最後の七つの災 害の入った七つの金の鉢を携えて登場します。

  第一の鉢が地に傾けられると、獣の刻印を持つ者と獣像を拝む者は悪性のでき物ができ ます。

  第二の鉢が海に傾けられますと、海は死人の血のようになり、海の生物は全滅します。

  第三の鉢が川と水源に傾けられると、みな血になります。人々は血を飲まなければなら なくなったのです。

  第四の鉢が太陽に傾けられると、人々は激しい炎熱で焼かれます。しかし彼らは悔い改めず、神を罵ったのです。つまり罰を下す神のさばきにあって、自分達の罪を反省することができないわけですから、ヨハネにすれば、救う値打ちがないということですね。でもこんなひどい目に遭わせる神を恨みこそすれ、帰依する気持ちになれないのは当然です。

  第五の鉢は支配獣の座に傾けられ、人々は苦痛とでき物ゆえに天の神を呪います。

  第六の鉢がユウフラテ川に傾けられると、龍と獣とにせ預言者の口から三つの悪霊が出 て、全世界の王達をハルマゲドンという所に招集したのです。「ハルマゲドン」という言葉はこれ一回の使用です。これは大殺戮ほどの意味で、「最終戦争」の意味で後世に使われるようになります。

  第七の鉢を空中に傾けますと、稲妻と雷鳴と激しい地震がおこり、町は倒れ、島や山は見えなくなりました。そして雹の災害が襲います。やはり人々は災難をもたらした神を呪うのです。つまり神のさばきでヤハウェの神が絶対的で強力だったと分かり、真の神だと思い知らされた筈ですから、懺悔して当然なのです。それが出来ないというイメージを描いたのは、人間は本質的に不信仰だとヨハネが見なしていたからです。つまりヨハネ自身が、異教徒に対する神のホロコーストのイメージなしで、神を信仰することができない不信仰を抱えていたのです。

  次に大いなる欲望の都バビロンが審判にあいます。バビロンは世界中の国々の王を意味 する七つの頭と十の角を持つ赤い獣に乗った大淫婦のイメージなんです。バビロンは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊と鳥の巣窟であり、地の王は彼女と姦淫し、商人たちは巨大な奢侈によって富を得ていたから裁かれるのです。

  一日のうちに死と悲しみと飢饉が彼女を襲い、彼女は火で焼かれてしまいます。世界中の王や商人たちは嘆きますが、天の大群衆はこの神のさばきを賛美します。東京、ニューヨーク、ロンドン、上海などが大炎上するイメージですね。これを神の正しいさばきだと歓声をあげる者達の存在をイメージして みてください。その仲間には入りたくない、むしろ焼かれる側に回った方がましだと思う人も多いでしょう。

  ところでこの欲望の都バビロンの崩壊は、近代文明の末路を暗示しているようにも受け 取れます。欲望を数量化して、それを無限大に肥大させた近代資本主義文明は、自然の均衡を崩壊させることによって、自然からの報復でカタストロフィ(大崩壊)を遂げる危険性が大きいのです。まったく神のさばきと捉えられてもおかしくありません。

 そして天が開かれ、白い馬に乗った「王の王、主の主」という名のイエスとおぼしき男が登場し、獣と地の王の軍勢と戦い、勝利します。そしてイエスは、義の為に犠牲になった人々、偶像崇拝を拒否して殺された人々を復活させ、千年王国を築きます。

  千年が過ぎると、サタンが解放されて、周縁部の国々ゴグ、マゴグの海の砂ほど多くの人々を惑わして、エルサレムを包囲させます。すると天から火が降ってきてサタンの軍勢を焼きつくすのです。サタンは、獣やにせ預言者のいる火と硫黄の池に投げ込まれ、世々限り無く日夜苦しめられます。

  そして残りのすべての死者が、その仕業に応じて、命の書に従ってさばきを受けます。そして死も黄泉も火の池に投げ込まれるのです。命の書に名前が記されていない者はみんな火の池に投げ込まれます。こうして新しい天と新しい地が仕上がり、聖なる都エルサレムは完成します。

  神が人と共に住み、人は神の民となります。もう死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもありません。他方これまでの人類の大部分は、その時ヨハネに言わせれば当然の報いかもしれませんが、火と硫黄の池で絶え間無い責苦に苦しんでいるのです。神の民に成った選民たちは、自分たちだけ幸福に成って、胸は痛まないのでしょうか。それが本当の幸福なのでしょうか。

          
参考文献 

山谷牧師の「オウム真理教を総括する」と「ヨハネ黙示録の位置づけ」

救世軍山谷真少佐による
 
--------------オウム真理教を総括する------------------

□オウム真理教の開祖に対する死刑判決が、最高裁判所によって確定された。この時にあたって、小生は、自分なりに、この事件の要因を論考し、総括してみたいと思う。

□この悲劇的事件の要因を列挙すれば、次のようなことが、あるであろう。

1.タントラ仏教原理主義

 末期仏教であるタントラは、インドからヒマラヤを越えチベットに移植されて開花したわけだが、チベット仏教のある宗派においては、修行者が悟りを得るのに、導師への無条件の絶対的服従を要求した。

 そこで絵画的に用いられたのは、導師が「だれそれを殺して来い」と言ったので、弟子はその通りに行い、「殺して来ました」と師に報告した、という寓話である。もちろん、チベットの仏教者は、この寓話を「入門するには、それぐらいの覚悟が必要」という心構えとして学ぶのである。

 しかし、オウム真理教においては、この寓話が字義的に解釈され、なんと、文字とおり実行されてしまったのだ。これすなわち、タントラ仏教原理主義である。なぜこんな原理主義になってしまったかと言えば、そもそも麻原という人が、導師に入門して、服従を学び、心得を学び、経文を学ぶ、ということを、していなかったからである。独学、独力で、あるいは、動物的直感にたよって、タントラ仏教を追求し、「ある境地」に達してしまった。

  しかし、導師について学ばなければ、修行者は容易に「魔道」に落ちてしまうことは、禅の世界では常識中の常識。かの禅カルトムービー「スターウォーズ」で物語られている通りである。

教訓「導師についたことのない者が、導師になってはいけません」

2.疑似科学的仏教

  カウンターカルチャーの元祖アレン・ギンズバーグは、悟りを求めてインドに渡り、そこにて座禅したばかりでなく、ドラッグにも手を染めた。ギンズバーグの後を追ってインドに渡った北米の若者の多くも、右へ倣えをしたのである。

  かくして、カウンターカルチャーの根の部分に、ドラッグが持ち込まれた。その落とし子である「精神世界ブーム」においては、そも悟りとは、大脳皮質のレベルにおける、ある種の化学反応が引き起こす「変性意識」にほかならぬと、安易に結論してしまったのである。

 悟りを開いた(と称される)ヨーギ・マヘリシ・ヨーギが、弟子のいたずらでLSDを呑まされても、アチャ、とひとことつぶやいただけで、別段何も起きなかったという「伝説」が、まことしやかに伝えられ、「ほらね。意識が覚醒したブッダには、LSDは何ら作用しない。それは逆を言えば、凡人がLSDを呑めば、インスタントブッダになれるということだ」と曲解されてしまった。かくして、大脳生理学的仏教、あるいは、薬物生理学的仏教が、「科学的仏教」という看板のもとに誕生した。きちんとした導師につかずに、精神世界の本をひとりで読んで、不幸にも「変性意識」を経験してしまった麻原が、それを繰り返し体験するために、あるいはまた、自分の弟子たちに追体験させるために、熱湯だの電気だのクスリだのを用い、さらには、工場を建てて自力で覚醒剤からLSDまで生産供給しようとしたのは、疑似科学的仏教の、ひとつの末路であった。

教訓「宗教と科学は、きちんと住み分けしましょう」

3.終末論的集金システム

  当初はヨガ教室の月謝で、ぼちぼち運営していたオウム真理教であったけれども、弟子たちに「出家」させることによって、多額の資金を獲得できることに、目をつけた。出家、すなわち、家督のすべてを捨てて、導師についていくことにほかならぬ。

  ところが本来、出家して家督を捨てることと、出家者が財産を教団に献金することとは、まったく別の話である。ここをオウム真理教は巧妙に創作して、出家イクオール全財産を教団に差し出すこと、と決めてしまった。この結果、教団に多額の資金が入って来ることとなった。そうして、そのお金を、思いつく限りの(衆院選出馬を含む)あらゆる新奇な事業につぎ込んで、使い果たしてしまった。

  そのときに「はた」と気づいた。全財産を教団にささげて出家した信者の、その全部を教団が使い果たしてしまった後には、教団が一から十まで面倒を見なければならない、無収入の出家者だけが残っている、という現実に、である。

  多くの出家者を抱え込んで養わなければならなくなった教団は、資金源として新たな出家者を獲得するために、短時間で最も効果が挙がる方法を編み出さなければならなかった。それが「終末論セミナー」である。

  この種のものとしては初めて行われた石垣島セミナーでは、「世界の終末が近い。文明は崩壊し滅亡する。財産を持っていても役に立たない。出家して教団のシェルターに入りなさい。それが唯一の生き残る道だ」と教え込まれた。諦観した若者は、仕事を辞め、預金を解約し、財産を手放し、家族と縁を切り、教団に入り、「末法の世に仏種を存続させる」という高邁な使命にコミットしたのである。その後も教団は、どんどんお金を使い、そのためには、どんどん出家者を獲得しなければならないから、教団の「終末論シフト」は、どんどん過激になって行き、教団の存在理由が終末論一色で塗り固められ、ついには、自分たちの手で、世界の終末を引き起こす計略(ハルマゲドン戦争)を実行するに至ってしまった。

教訓「最後の審判で問われるのは、家督をきちんと管理したかどうかだと、心得ましょう」

4.二元論世界観的自己防衛

 出家者がどんどん増え、資金がだぶつきはじめ、当面の使い道が思いつかないような「逢魔が時」には、野心家なら、政治への進出を考えるであろう。出家者は導師への絶対服従を誓っている。「さあ、行って、ポスター五万枚貼って来い」と言えば、「はい」と行って、べたべた貼って来る。弟子たちは、それが悟りへの道と心得ているからだ。

  「日本のインド」と形容されることもある中央線沿線の中野・高円寺・阿佐ヶ谷あたりの住民の中には、自宅だのアパートの自室だのに、小さな祭壇を設け、シヴァやシャクティの御絵を掲げ、ガネーシャの小神像をまつり、甘ったるいインドのお香を焚き、朝に晩に般若心経を唱えるような人たちが、まとまった数、いるだろう。ゆえに、中野・杉並に重点を置いて選挙に出れば、当選間違いなしだ・・・

  こんな皮算用をはじきだした教団は、明らかに、中野・杉並の住人の「コモンセンス」(良識)を見落としていた。ガネーシャは「マイ・スペース」の存在なのに、それを国会の赤絨毯という「パブリック・スペース」に引きずり出そうとする教団のセンスを、中野・杉並の住人は、「気色わるっ」と感じたのである。当然の結果である衆院選惨敗に、しかし、教団は、自分たちのセンスが間違っていたとは、認めることが出来なかった。悪かったのは教団ではなくって、「彼ら」でなければならなかったのだ。

  では、「彼ら」とは、だれなのか? 必死にはじまった「彼ら」探しの途上で、手っ取り早く見つけてしまったのが、日本陰謀界御三家、太田龍、小石 泉、宇野正美らの「ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ陰謀論」であった。革マル派理論家からキリスト教を経て陰謀論者となった太田 龍、フリッツ・スプリングマイヤーの代弁者でチャーチオブゴッドの牧師である小石泉、ブラザレンの巡回教師から中東問題シンクタンクを経て陰謀論者となった宇野正美。これら三人の「キリスト者」が説く陰謀本に飛びついたオウム真理教は、「フリーメーソン・イルミナティが、地球上から仏教を根絶するため、陰謀を着々と進めている。その手先が、合衆国政府であり日本政府だ。この戦いに勝てなければ、地上から仏種は消え去り、衆生の救済は永遠に不可能となる」という、壮大な妄想に取り付かれて行くこととなる。

  中野・杉並の住人の良識に打ち負かされた教団は、ほんとうならガネーシャ帽をかぶって太鼓を叩きながら「中央線の呪い」をお祓いすべきはずだったのに、キリスト教仕込みの二元論的世界観というカプセルに固く閉じこもって、外部の敵、すなわち、ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティの「彼ら」を、サリン・ソマン・タブン・炭疽菌で消し去る道を選んでしまったのである。

教訓「ユダヤがわかると世界がわかる、と思い込むと、自分も他人もわからなくなる」

5.結論に代えて

さて、以上四つの教訓を総合して、その上で、「いま」という時代を逆照射してみよう。

「導師についたことのない者が、導師になってはいけません」
「宗教と科学は、きちんと住み分けしましょう」
「最後の審判で問われるのは、家督をきちんと管理したかどうかだと、心得ましょう」
「ユダヤがわかると世界がわかる、と思い込むと、自分も他人もわからなくなる」

あなたの、また、自分の属している、キリスト教なり仏教なり神道なり諸宗教なりの「教団」は、果たして上記の教訓にあてはめてみて、大丈夫であろうか? そうして、以上の四つの教訓に比べて、それに勝るとも劣らず重要なのが、中野・杉並の住人の「良識」を、ゆめゆめ軽く見てはならぬ、ということである。

山谷真牧師の『ヨハネの黙示録』の位置づけ
 

> (1)福音書、使徒行伝、パウロ書簡、公同書簡は、ローマ帝国に代表される「国家権力」に対して、おおむね好意的かつ楽観的である。それらの文書が執筆された年代においては、国家権力によるキリスト教徒迫害は開始されておらず、使徒たちにとって、ローマ帝国とは、治安を維持し、道路を建設し、海運を扶翼し、通商を盛んにし、人の移動を容易ならしめて、伝道に良好な環境を提供してくれる「世界管理者」(オイクメネー)にほかならなかったからである。それゆえ、パウロは、「おのれの良心のために統治者に服従せよ」と命じ、ペトロは「主キリストのために統治機構に服従せよ」と命じた。使徒たちは、国家権力を、キリストのしもべと見ていた。

>

> (2)黙示録において、トーンは一転する。ディオクレティアヌス帝によるキリスト教徒迫害が開始され、小アジアのユダヤ系キリスト者共同体は、大きな痛手を蒙った。ここから、小アジアのキリスト者の国家観は「悪鬼的国家」と言うべきものとなった。悪鬼的国家(国家性悪説/バビロン)においては、国家権力は、法の「かせ」をふりはらい、国家そのものを至高絶対の神として礼拝し奉仕するよう国民に要求し、逆らう者には過酷な罰を下す。キリスト者は、悪鬼的国家の圧倒的暴力の前になすすべがなく、残された道は殉教のみである。しかし、悪鬼的国家の横暴が極致に達した時、主キリストが再臨し、国家権力を滅ぼし、千年王国を樹立したまい、新天新地が到来する。かくして、小アジアのキリスト者は「終末待望」「再臨待望」に生きることとなる。


> (3)ローマ皇帝コンスタンティヌスが十字架の旗をかかげて戦い、敵を破り、洗礼を受け、キリスト教を帝国の国教と定めたとき、「ヨハネの黙示録」が提示する世界観は、現実に合致しなくなった。それゆえ、教会史家エウセビオスは、歴史の修正を行い、小アジアのユダヤ系キリスト者の終末論的信仰を「迷妄」として退け、ヨハネの黙示録を「字義通りに解釈すべきでない隠喩の書」と位置づけ、小アジアの教会指導者パピアスを、ぼろくそにこきおろし、返す筆で、ローマ皇帝を「地上におけるキリストの代理人」「神の子」と誉め称え、ローマ帝国を「主キリストの統治したもう千年王国」と見るに至った。この「神の子たる皇帝の世界観」は、東ローマ帝国に継承され、オスマントルコに打倒されるまで、命脈を保った。


> (4)一方、蛮族襲来によって西ローマ帝国は滅亡。皇帝を「キリストの代理人」「神の子」とし、ローマ帝国を「千年王国」と見た、エウセビオス流の歴史観は、帝国と共に瓦解した。残った瓦礫に外科手術を施して救ったのが、ヒッポ司教アウグスティヌスである。アウグスティヌスは、国家権力の歴史を「地上の国」と「神の国」に切り分け、世界史とは「地上の国」から「神の国」への長大な移行期間にほかならぬ、と捉え、教会を「地上の国」から「神の国」へ旅する巡礼者として、位置づけた。こうして、聖界と俗界が緊密に統治を分かち合う、中世的世界観への扉が開かれた。


> (5)中世的世界観の終焉である宗教改革期には、「地上の国」か「神の国」かをめぐる二項対立図式の世界観論争が激しく燃え上がった。「地上の国」を滅ぼして、「神の国」を樹立すべしと説いた、ミュンスター千年王国再洗礼派は、暴力で統治者を打倒し、法を廃棄し、統治機構を解体し、「解放区」を設置した。しかし、この左翼的実験は、大失敗に終わった。再洗礼派の狂気に震え上がった宗教改革者たちは、再洗礼派の革命思想を激しく弾圧すると共に、「地上の国」と「神の国」の間に明確な境界線を引き、両者の住み分け、すなわち、「政教分離」を唱えて、事態の収拾にあたった。


> (6)20世紀に入り、「神の国」(宗教思想)を廃絶して、楽園としての「地上の国」(共産主義国家)を建設せんと目指したマルクス主義の台頭に伴い、キリスト教徒は防衛体制に入った。左派キリスト者は、キリスト教を社会民主主義的に再解釈することで、マルクス体制/ケインズ体制下での生き残りに賭け、右派キリスト者は、キリスト教を原理主義化することで、マルクス体制/ケインズ体制への抵抗を試みた。原理主義的キリスト者の中から、全体主義国家、共産主義国家、軍産複合国家を批判的に捉えるために、黙示録の「悪鬼的国家」の概念が再発見され、国家の専制と横暴を、終末論的文脈に位置づけ、キリストの再臨をひたすら待望する信仰姿勢が強調されて行った。「悪鬼的国家」の概念は、全体主義国家、共産主義国家、軍産複合国家を厳しく批判する道具としての「陰謀説」を醸成し、極右の原理主義的キリスト者の終末信仰を陰謀説と不可分一体に結びつけることとなった。かくして、黙示録を素材にした、ユダヤ人陰謀説、フリーメーソン陰謀説、イルミナティ陰謀説、カトリック陰謀説、共産主義陰謀説、スカルアンドボーンズ陰謀説が、絶えず再生産され、現在に至っている。

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