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2008年08月31日00:04

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「夢見るようにご覧下さい」

今回の身体詩「光る旅〜PILGRIM2008〜」のオープニングは映像から始まる(今回だけではないのかもしれないが・・・)。

それはルーマニアで撮影されたもので、満月が海面を照らし一筋の銀色の道のように見えている・・・というかなり詩的な映像である。

そのほかいくつかのカットがあって(これらの映像はもちろん作品の中身と有機的に関連している)、テロップが流れる。


「どうか夢見るようにご覧下さい・・・・TAICHI−KIKAKU」


おそらく「光る旅」(あるいはその他の身体詩作品もおそらくは)は、その内容を頭で考えたり、論理的にドラマの筋道を追っかけよう・・・とするとかなり困惑するのではないか?・・・と思う。そういうこともあって、「夢」というリアリティがこの作品を観る為には大変ふさわしい。


・・・我々が夢(睡眠中にみる夢のことね)を見ているとき、その夢がどんなにハチャメチャにぶっ飛んでいる状況が展開していてヘロヘロに翻弄され苦しめられていても、その中で「生きている」私は決してその状況自体を「非日常的でおかしい」とか「理解不能で困惑する」という風には感じない・・ただそのリアリティの中で必然的合理性でもって活動している。

その状況設定を、???と思うことが出来るのは「夢から覚めてから」である、現実的・日常的な思考の回路で今体験していた夢の内容を「体系化」しよう・・・と試みるがゆえに???であり、納得できるようにこじつける為に悪戦苦闘するわけである(笑)

夢の中のドラマにもテーマとモチーフがあるし、それはどちらかというと具象的ではなく「象徴的」な展開であったりする、また空間的・時間的にもかなり飛躍したり逆行したり同時並列であったり・・・と決して「日常的」リアリティのようなリニアな展開ではない(もっとも正確には、エゴは「リニア」的な概念把握しか出来ないからそう感じられているだけ・・である)。



劇中に何度も繰り返し登場するモチーフがいくつかある・・それは「月」だったり「赤い布」だったり「汽笛」や「ノックの音」だったりなのだが、おそらくこれらが登場するたびに、見ている側で必ず何かしらの喜怒哀楽を伴った普遍的メッセージとして伝わるものがあるだろう。


であるからこのパフォーマンスはそれを理解しようということではなく、そこに展開される世界を体験する・・・だけで良いのだ、ある意味では大変「音楽的」であるともいえるだろう!

・・どんな音楽でもそうだが聴いている最中に、いちいちその音楽の中身や構成や展開を頭の中で理解しようと試みる必要はどこにもないではないか?(笑)音楽の構成を知らなくたって、素敵な音楽なら聴いているだけで感動してしまうではないか!!


そして伝えようとしているメッセージは、ウルトラ前衛的な「難解・晦渋・韜晦・理解不能」といったスノッブなものでは決してない。


むしろ極めてシンプルなメッセージである!


・・・・どのシーンであってもそこに展開される俳優の演技、そして時々背景に展開される映像のクオリティが織り成すパフォーマンスは、あるものは楽しく・可笑しく・悲しく・切なく・・・時に強烈なインパクトを持ち、あるいは極めて静謐なグラデーションを描き出し熱く力強くそしてひたひたと染み入るように、観ている人の魂を揺り動かすことであろう。



・・・劇中には言語的な意味を持つ台詞は全くないのだが、そのかわり世界のどこで上演しても「ふへん的」に全ての人類に通用する「非言語コミュ二ケーション」を使ってメッセージを伝え、共感・共有していこう!というのが身体詩の基本スタンス、というか殆どそれだけで「勝負?」しているのではないか?と感じる(故に、妙に「説明的」な演技をすると厳しく注意されてしまうのだ!)。


実際TAICHI−KIKAKUはこれまで25年の歳月に渡って、20カ国50都市で身体詩の公演を重ねてきて、どこの国のどんな年齢層(子供から老人まで)の観客にも確実にそのメッセージを伝えてきた!・・という実績と確信と誇りがある。


3500円(当日券4000円、関係者の友人価格?3000円)というのは、小劇団の公演にしては高い感じがなくもないのだが(笑)、コンサートに行くのだ!・・・と思っていただければ誠に幸いである、ライヴでしか伝えられない感動がそこにあるざんす!!!


・・・さあてところでこの「夢を見ている」のは誰なのだろうか?




ここからはまた別の哲学的命題・・作品はそこまで踏み込んで解釈する必要は特にはないが「お好きな方」?(笑)には、暇つぶしの種ではあろう。

インド哲学の中の概念として、マーヤー(幻)というものがある。

夢であろうが現実(我々が「身体的に生きている」領域・現象世界のこと)であろうがあるいは霊性の次元であろうが、そこには実体はなくただ「リアリティ」だけがある・・・我々はあれこれの「リアリティ」を生きているのであるから実はその中身には意味はなく、様々な「リアリティ」を生きているところの「私」という感覚とは何か?を探求するのがジュニャーナ・ヨーガの根本命題である。


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