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2006年01月11日00:27

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「耽奇館主人の日記」自選其の七

2003年07月03日(木)
絵を描くということ。

私が美術部に入ったのは、中学に上がってすぐだった。いや、入ったというより、自分で創設したというのが正確だ。私の他に誰もいなかったのだ。だから、最初の一年間は部どころか、同好会でも何でもなくて、個人授業だった。美術の先生は優しい女性で、絵を描く技術を本格的に学びたいという私を快く迎えてくれた。
それまでは父のマニュアル式の一眼レフカメラで、心霊写真の偽造を多重露出で撮ったりするくらい、写真にのめり込んでいた。マミヤというメーカーのそのカメラはシャッター音が独特の音で、ファインダーごしに被写体をそのまま自分の世界に取り入れる時の儀式的な合図だった。
写真さえあれば、絵を描くという面倒な作業なんていらないと思っていたのだが、サルバドール・ダリの展覧会に行った時、かなりの衝撃を受けた。なんなんだ、このわけのわからない世界は。そして、心の中で何かがざわめくのは、一体なぜなんだ。
シュールレアリスムは私の心を完全にとらえて、人間の心の奥深い部分を表現することこそが、私の進むべき道ではないのかと考え出したのである。
絵を本格的に学ぼうと決心したきっかけは、ヴァン・ダインの推理小説の中で述べられていた、写真と絵画の違いについての講義である。同じ構図を撮ったり、描いたりしたとして、写真は撮影者の意図しなかった余計な物体も撮ってしまうが、絵画は完全に描き手の意図するままに、心の中で構図を再構築して描くのだ、という内容だった。
先生は優しい女性だったが、個人授業は厳しかった。観察眼を鍛えるために、ケヤキの木をまるまる一本写生させられたことがある。葉っぱの数がちゃんと合うくらい、見たままを忠実に描いていかなければならないと教えてくれた。風景画が風景写真よりも風情的に美しいと感じるのは、描き手の心を感じるからだとも教えてくれた。
「絵を描くにはね、心を脱いで裸にならなきゃだめなの。分かる?余計なことは考えないで、見ているものの裏側まで見えるように、自分自身を感覚そのものにしてしまうのよ。あなた、お寺の子なんだから、座禅くらいはしたことあるでしょ?あの感覚に近いわ」
本当に厳しかったのは、記憶の中の観察力の鍛練で、先生の運転する車の窓から眺めた風景や人物を記憶して、次の日に忠実にキャンバスに再現するのだ。いいかげんに描こうものなら、先生の叱責が飛び、先生はさっさと教室を出て行って、それっきり戻ってこなくなる。
一人残された私は、唇を噛み、涙目で頭の中の風景や人物を思い起こし、ラフスケッチから始めて、構図を決めると、それを見ながらキャンバスに木炭でアウトラインを描いていって、色を塗っていく。
中学を卒業する頃には、絵の技術はともかく、観察眼は先生に認められるまでに発達した。一度記憶したものは決して忘れないという能力は、現在でも役に立っている。
静物、人物、風景を順番に学び、いよいよシュールレアリスムに挑戦する段階になった時、先生は私に優しく語ってくれた。
「あなたは最初からシュールを描きたがっていたけど、最初からシュールを描き始めた画家なんていないのよ。みんなちゃんと手順を踏まえて、初歩から学んで、シュールに到達したんだから。現実を知らなければ、夢を描けないことと同じよ。そして、夢も現実なしには存在出来ないことも忘れないでね」
先生の言葉は、今でも私の心に生きている。素晴らしい先生だった。彼女の存在なしには、私はまともな人間には決してなれていなかっただろう。異常な世界に身を置いても、常識を忘れない存在になるためには、陰陽の考え方を持ち、強い意志を持つ必要があるのだ。先生は私をそういう存在に育て上げてくれた。
現在では、シュールも私の世界の一部であり、最近は水墨画に挑戦している。風景だけでなく、神仏も描いているのだが、なかなか納得するような神々しさが出なくて苦労している。もっともっと裸にならないとだめなのだろうか。今日はここまで。
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