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2007年03月12日01:32

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公案・・「祝福を手渡してみよ!」

今年のTAHICHI−KIKAKUの「冬〜春の身体詩ワークショップ」に参加していて、講師のオーハシさんが語る言葉の中で印象的なのは、「感動を手渡していく」ということである。

また同時にそれが「自己プロデュース」ということでもあるし、「社会に対するコミットメント」につながって行くのだ・・という事。


さてさて私は「ヨーガの先生」ということで看板を掲げているのだが、しかし・・何かこう「ヨーガの先生」らしからぬ要素?というのがかなり大きい(だから閑古鳥が鳴くのかも?・・笑)

・・その最たるものというのが、「過剰なる表現意欲」なのだ!


まあ何らかの分野の「表現者」であるのなら「自己顕示欲」も「表現する」為のエネルギー源であるし、優れた表現者というのは要するに「自己顕示欲」を「芸術的レヴェル」に創造的に「変容・昇華」出来る者、とも言えるだろう。

で、私は実際「挫折した演劇青年」だったのだが、やんぬるかな、挫折した位で「俳優根性」というのは早々簡単に消滅するものではない(笑)

しかし「自己顕示欲」というものは、それはもう疑いなく「エゴ」という始末の悪いものだ・・霊性の道を真面目に歩いている方々に最も「忌み嫌われる」ものである。

そんなわけで私はその二律背反するものを抱え込んでいて、ある意味ではそれが人生の「根深い問題」でもある。


前置きが長くなってしまった(毎度のことだ・・笑)、今回の「感動を手渡していく」という言葉にその問題解決の一つの道筋を見つけたような感じがするのだ。

それは内なる「大いなる至福」を、「祝福」として「世界に手渡して贈る」・・ということが、私にとっては自らの「自己顕示欲」を「意義の在る自己実現・自己表現」に「変容・昇華」していく・・ことになるのではないか?・・という発見であるのだ!


「大いなる至福」(それは「マハナンダ」という名前の意味でもある)それ自体は、「ただそこに在る」という事自体が至福!・・ということでもあるから、「私」の「中身」が「何」であるか?は全く無意味である。

つまり「私の中身」=アイデンティテイが、「ヨーガの先生」でなくても、更には「バガヴァン信奉者」である必要すらない。

そしてこの境地には厳密には「他者」も存在しない・・のだが、真にその境地に安住出来るのはやはり「本物の聖者」さんだけだと思うし、「本物の聖者さん」なら「ただ存在する」だけで「他者・世界」を祝福可能だ。(彼には一切の「区別」がない・・他者も世界も存在も至福も「彼そのものそれ自体」なので)

しかし私にはそんなことは逆立ちしたって出来やしない・・のは明白である。だから「至福に浸る」だけでなく、それを「祝福」として「手渡していく」というスタンスが重要なのではないか?「ヨーガの先生」というのは、アイデンティテイではなくそのスタンスの為の装置なのだ!と捉えたら?・・・


「至福」というのは実際「生もの」なのである・・保存することは出来ない。故に「私」というエゴの円環に閉じ込めてしまうとそれはもう「至福」そのものではなくなってしまうのだ。


一般世間で言う「経済」も同じだ、「モノ・カネ」は流れていくゆえに「利益」が生じるではないか?

そしてこの「至福」は、「祝福として贈り出す」ことにより空いたスペースに今度は何倍にもなって戻ってくるものであるらしい・・贈り出せば贈り出すほど「至福に満ち溢れる」という不思議な循環・・ポジティヴ・スパイラルが生成されていくのではないだろうか?

それは「芸術的」ではないにしても大いに「創造的」ではないだろうか?

私にとって「ヨーガの先生」であること・・の本義はそこにあるのだとしたら?・・・

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