舞台裏のこぼれ話
23歳の小澤征爾は、ピアノを弾くためではなく、スクーターとギターを積んだ貨物船でフランスへ渡った。
なぜ、将来を決めるほど好きだったピアノを離れ、そんな無謀な旅に出たのか。
幼い頃から音楽の才能を見込まれ、家族は中古のピアノを立川の自宅まで3日かけて運んだ。
小澤自身もピアニストを目指していた。
ところが中学時代、ラグビーの試合で右手の人差し指を骨折する。
演奏家にとって致命的なけがだった。
そこで人生の進路を変え、齋藤秀雄の指揮教室へ入る。
厳しい指導を受けながら指揮を学び、1959年、23歳で単身渡欧。
スクーターとギターを連れて貨物船に乗り込んだ。
決して余裕のある旅ではない。
支援者から贈られたのは約45万円相当の1200ドルだった。
それでもパリ滞在中、第9回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。
ここから小澤征爾の名前は、日本の若手指揮者ではなく、世界へ向かう音楽家として知られていく。
ところが帰国後、最大の壁が待っていた。
1962年、NHK交響楽団との関係が悪化し、N響は「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には一切協力しない」と表明。
小澤も契約不履行と名誉毀損でNHKを訴えた。
そして彼は、日本では音楽をやらないと決めて渡米する。
ここが大きな転機だった。
28歳のとき、急病で出演できなくなった指揮者の代役として、ラヴィニア音楽祭に開催数日前で呼ばれる。
公演を成功させ、その名は全米へ広がった。
38歳でボストン交響楽団の音楽監督に就任すると、在任は29年に及んだ。
やがて日本との距離も変わる。
59歳でN響と32年ぶりに共演し、66歳では日本人として初めてウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを指揮。CDは100万枚を超えた。
晩年、食道がんの手術や腰の手術を乗り越えても楽譜を手放さなかった。
息子が「自分が横に立っても気づかないくらい」と語るほど、音楽に集中していたという。
2022年、87歳でサイトウ・キネン・オーケストラを指揮し、その演奏は国際宇宙ステーションにも届けられた。
翌年9月、松本でカーテンコールに姿を見せたのが最後の公の場となった。
2024年2月6日、88歳で死去。
右手の指を折り、ピアニストの道を失った青年が、23歳で貨物船に乗った。
あのときスクーターとギターを積んだ青年が向かった先は、音楽家としての終着点ではなかった。
世界へ進むための、最初の船出だった。
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