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2026年01月15日04:15

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[新聞等ネタ]2026.1.14 ほんとパズルみたい

いつもの新聞しばきですが

突然面白い記事が連発すると

こうしてぱちりっして、

この頃はぐーぐるにまかせますと

テキストを抜き出してくれます。


ほーんと、ほぼ正確なのですが、

ときに、行の中が入り組んでいたりするので、

KEEPにもっていってからの

切り貼りに結構時間がかかって


でも、完成すると、、、うーん、いい達成感が(^^♪

smile(^O^)



山根純佳「自立」「依存」二元論の先へ

日本經濟新聞
2025年(令和7年)11月13日(木曜日)
ケアの倫理と現代��
「自立」「依存」二元論の先へ
山根純佳 実践女子大学教授
やまね・すみか 1976年生まれ。東京大院修了、同大博士(社会学)。専門は社会学、 ジェンダー研究

 他者との関係性や責任にもとづく「ケアの倫理」は、 普遍的な権利や公正性にもとづく「正義の道徳」のオルタナティブとして登場し、現任、哲学、政治思想における一大潮流となっている。新自由主義がもたらした格差や環境問題まで現代社会の課題に挑む倫理として期待を集める。
 米国の心理学者、キャロル・キリガン氏が「ケアの倫理」を発見したのは、心理学の実証研究において無視されてきた少女たちの声からだった。定説とされてきた、男性被験者のみを対象にしてきたローレンス・ コールバーグ氏の道徳性発達の理論では、男性が正義の道徳を追求するのに対し、女性の道徳的発達は途中で止まるとされた。
 これに対し、ギリガン氏は、関係性と責任を重視する女性たちは、正義の道徳を実現する道筋とは異なる倫理を語っているのだと主張した。そして伝統的に女性の善さとされてきた他者のニーズをケアし、感受性を発揮するという特性こそ下性を道徳性の発達において欠陥ありときめつけているのだ、と続けた。
 ケアの倫理も段階的に発達していく。大学生や、中絶に直面した女性たちへの調査からは、自己犠牲の倫理にとどまることなく、他者の要求と自己のニーズや権利を調停し、「誰も傷つけられるべきではない」という普遍的道徳命法に到達する女性たちの発達が論じられている。ギリガン氏は、 ケアの倫理を支配や競争を是とする家父長制への抵抗の倫理と呼んだ。
 こうしたギリガン氏の研究に対しては、女性の声を女性の本質と同一視する、「他者の期待に応える」女性の位置を固定化するものだという批判も生まれた。 また、研究対象が白人中産階級の少女に限定されていたことに対しても、人種・ エスニックマイノリティーや階層の低い人々を対象にした場合には、道徳的判断に関して、男女の差異は見いだすことができないという指摘もされた。
 それでも、白人中産階級の男性をモデルとした「正義の道徳」の普遍性を相対化した点において、ギリガン氏の研究のインパクトは大きかった。ケアの倫理は、 男並みの権利の獲得や平等を志向するリベラル・フェミニズムとは一線を画し、 女性の経験に根ざした哲学や政治理論の礎を提供したといえる。ギリガン氏の議論に触発された女性研究者たちは、ケアの倫理を、母親をはじめ他者をケアする人の倫理として定義し、家庭のなかで子育てや介護を担ってきた女性たちの倫理を、政治の世界に拡大すべきだと主張した。
 そもそも、18世紀以降の西洋の思想が前提にしてきた自立・自律した個人とは、 他者のニーズや自己の責任に無関心でいられる特権を有した人々である。誰かのケアに依存している子どもや高齢者、そして依存する人々のニーズに応えるケアする人々は、こうした自立した市民のカテゴリーからは排除されてきた。
 米国のケアの倫理学者、 ジョアン・トロント氏は、 他者のニーズへの責任を認識し、適切にケアする倫理をすべての市民が実践する 「共にケアする」民主主義社会を提唱している。共には、移民や女性に割り当てられているケア責任を再分配し、お金のある人だけがケアを受ける不平等を是正する「ケアに満ちた社会」が実現しうるのだと。
 では、ケアの倫理やケアの民主主義は、家父長制を変革し、ケアを担う人々の不平等を是正する力をもちうるのだろうか。この問いについて考える際に思い出すエピソードがある。
 ある女性研究者が双子の赤ちゃんの世話が大変だ、 と同僚に伝えた際に、返ってきた言葉が「ケアの倫理の実践ですね」であったという。そのひとは、双子を育てる困難というケアの現実が、ケアの美徳に置き換えられたことにショックを受けていた。もちろんケアの論理を支持する人はこう述べるだろう。ケアに満ちた社会であれば、人々は双子の乳児を育てる親の困難に耳を貸し、また手助けをするだろう、としかしそうだろうか。さきほどの同僚は、ケアする市民として自分も学生や上司をケアしている、お互いがんばろう、と思って、そう伝えたのかもしれない。ここでの問題は、乳児を育てる人が直面する 苦労や困難に関する知識を、この同僚かもっていないことにある。
 女性たちは長らく、女性の本質とされてきた「適切にケアする」ことを求められてきたかゆえに、ケアの大変さを公に語れない立場に置かれてきた。さらに、 階級、人種、障害などのカケアする民主主義の下でテゴリーによって「適切にケアできない」「ダメな母親」というレッテルが貼られることもある。
 ケアの不平等を是正するためには、こうした難しい状況でケアをしている人たちのケアの現実を知り、学ぶ必要がある。その意味で、 女性たちが「できない」「これは私の賞任ではない」と声を上げることこそ、男性中心的な社会を変える契機になるはずだった。
 しかしケアが倫理として評価されるとき、大変なケアを担う人々の声は封じられる。結果として、市民は不平等なケアの現実を学ぶことができない。
 ケアすることに「倫理」 的な意味を付与することは、現実にケアされる人々の声をも封ずることになる、という認識は重要だ。
  障害者運動が問題視してきたのは、何が当事者のニーズであるかを、外部から決めてかかる親や専門家のパターナリズム(家父長主義)である。障害者の運動は自分たちが利益やニーズの当事者であり、自己の利益やニーズを語れる条件の整備を訴えてきたのだ。
 その立場からみれば、よい市民であれば「よりよくケアできる」という発想は、 ケアする側のおごりといってもよい。誰かの生活や生命を支えるというケアの活動は、社会において必要不可欠である。しかし私たちが相手のためになると判断したことは、正しいかもしれないし間違っているかもしれない。これは子どもや高齢者のケアにおいても同様である。こうした不確実性を直視するなら、「善さ」 を問うことなく、自分が「何がわからないのか」を愚直に考えるしかない。 なによりギリガン氏をはじめ「ケアの倫理」の議論は、ケアを通じて成長する個人を前提としている。「ケアに満ちた社会」でも、ケアする能力・責任を有する市民と、ケアされる脆弱な人々の二分法は維持される。これは自立と依存を区分し、後者を不可視化してきた近代社会の延長にすぎない。「自立・自律」の対概念としての
「依存」も、自己利益と対比される「他者への責任」も、特定の人(多くは女性)にケアを委ねてきた近代の文脈依存的な概念である。特定の人にケアの責任が付与され、無償や低賃金でケアをしている不平等を解決するには、「倫理」から離れた場所で、ケアにかかわる人たちの「ケアの現実」が語られなければならない。

ポイント
・ 他者へのケアは女性の本質との思い込み
• 皆が共にケアし合う民主主義がありうる
・倫理がケアの負担を不可視化する懸念も

コールバーグとギリガンの道徳の発達段階
�‘仔舛慮桐�
•第一段階: 前慣習的
個人的見解 

•第二段階: 慣習的
社会的見解

•第三段階: 後慣習的
普遍的見解

コールバーグ
�\亀舛筝�平
段階1:罰と服従
 罰を回避し、権威に服従
段階2:道具主義的相対主義者
 取引や有効性の観点から判断する

段階3: 対人関係の調和あるいは 「良い子」志向
 多数意見や承認されることを重視した判断をする
段階4: 「法と秩序」志向
 規則や社会的秩序を守ることを重視する

段階5:社会契約的法律志向
 個人の権利や社会全体の価値に従って合意することを重視する
段階6:普遍的な倫理的原理志向
 人間の権利や平等性などの倫理に従って判断する

ギリガン
�.吋△叛嫻�
段階1:自己の生存にケア
段階2:移行期
「責任」と自己中心性概念の登場

段階3:責任概念の内容:
 他者へのケア「母性的な道徳」
段階4:移行期
 伝統的な女性の美徳であるケアと自己犠牲の混同に気づく

段階5:責任概念の内容:
 自己と他者へのケア 
段階6:誰も傷つけられるべきではないという命題
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