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2025年10月06日09:26

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松原照子の「世間見」(転載)

本日の世見  2025年10月06日(月曜日)

『魯迅』

清国から留学生が来日したのは、日清戦争が終わった翌年の1896年(明治29)でした。
その数は13名。
奈良時代には、中国の文物を学ぶために日本は中国に遣唐使を派遣したものですが、日清戦争後は日本の立場が逆転しました。

1902年(明治39)の4月4日、清国から8人の留学生が横浜港に着きました。
陳師曽(ちんしそう)だけが自費留学生で、後の周樹人、すなわち魯迅(ろじん)は、政府機関である江南督練公所から派遣された官費留学生でした。
『狂人日記』や『阿Q正伝』は、世界の文学史にも名を残した魯迅の作品です。
魯迅が日本へ来て数年も経つと、清国の留学生は8,000に近い数になったといいます。

魯迅は浙江省紹興の出身。
もしかして、あの紹興酒と縁があるのかなあ。
この地で、魯迅は地主の子として生まれました。
長男の魯迅は、13歳で質屋通いをしました。
父の医療費のために行っていたのです。
父の死後、魯迅は官費で学べる、日本でいえば海軍兵学校のような学校に入りましたが、授業は今ひとつで、1年で退学。

この年、日本は日清戦争で獲得した台湾の対岸にある福建省を、諸外国には割譲しないと清朝に約束させました。
「戊戌の変法」の時、改革派の一人、譚嗣同(たんしどう)は「どんな国の改革でも流血なしに成功したためしはない。しかるに中国では、改革のために血を流した例がない。自分は改革のために血を流す最初の人となろう」と言って、亡命はせず、処刑されたのです。
魯迅は、この譚嗣同が書いた『仁学』を20歳前に読み、何を思ったのでしょうか。

横浜に着いた魯迅は、汽車で新橋までやって来て、麹町区(今の千代田区)平河町にある三橋旅館に宿泊しています。
日本で暮らしていた魯迅に、今日会ってみたくなりました。
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