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2024年05月11日13:12

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【復刻】 第二部 第一章 T・H・グリーンの思想とその継承者  ー 主権理論を中心として

一 グリーンの主権理論

 グリーンの主権理論は、今世紀の理想主義的国家理論に大きな影響を与え続けてきました。グリーンの系統を引く主権理論を理想主義的主権理論と呼ぶとすれば、それは、細部を眺めれば種々の難点を含んではいても、全体としての流れや傾向をつかみ、不明確な点を明確にし、足りない点を補えば、今日の主権国家についての考え方に寄与するところがすこぶる大きいと思われます。これから、特に主権理論を中心にして、グリーンの思想とその発展形態について検討するのは、そうした理由によるのです。

 グリーンの主権理論は、彼が『政治的義務の原理』において、主としてオースティンとルソーの主権理論を批判している個所に示されています。そこでまずその批判を検討し、グリーンの主権理論の持つ意味を明らかにするところから始めてみることにします。グリーンがオースティンの『法学講義』の中から、批判のために引用しているのは、例えば次の文言です。「一切の実定法、あるいは……法と呼ばれる一切のものは、主権を有する人または人の集団によって、独立の政治社会の成員に対して課せられたものである。そしてそうした社会では、そうした人または集団が、主権者であり、最高である」。「もしも一定の優越者が、同様な優越者に服従する習慣を持たず、特定の社会の大多数の者から習慣的服従を受けているなら、その一定の優越者は、その社会における主権者であり、その社会は……政治的独立社会である」。

 グリーンは、オースティンの考え方の特色を、次の二点に要約しています。第一点は、主権が一定の人または人々に認められていることであります。第二点は、主権の本質が、そうした一定の人々の側の力として、就中、被治者に無制限な強制力を及ぼして、一定の人々の望むことを実行させる力として認識されていることであります。グリーンは、政治が法律に基づいて運営される段階に達している国家のことを考えて、主権をさらに「法律を作成し執行する最高の、すなわち法的に抑制されない権力」と呼んだり、「法律設定及び法律執行権力」といい換えたりしています。

 グリーン自身は、法的に抑制されないという意味でではなく、法的に規定された範囲内でなら、「法律を設定し、それを遵守させる力」を、特定の人、あるいは人々に見出すことはできると言います。また、ルソーの説く一般意志というような意志にではなく、国家の最高の強制機能を委ねられている人、あるいは人々に主権を認める方が、主権という言葉の通常の使用法に適っていることも認めています。しかしオースティン主義者は、そういう考え方をはるかに越えて、強制力を持った主権者が、「人々の習慣的服従の真の決定要素」であることを主張しようとします。グリーンが最も問題にするのはその点でした。

 オースティン主義者がいう、主権者の有する強制力というのは、グリーンによれば、単に被治者の恐怖心との上にのみ作動する力に過ぎない、と。グリーンは、こういう意味での主権理論をオースティン以前に展開した人物として、ホッブズとスピノザを挙げます。両者共に、自然権を人間の有する自然力と同一視し、しかも国家権力をそうした自然権と質的に異なったものとは考えていません。従って、そこから出てくる結論は、グリーンによれば次のようになるのです。「主権者に属することのできる唯一の権利は"自然権"であり、それは、主権者の力の卓越性に依拠している。そしてこの権利は、被治者がそれに抵抗できない程度に従って評価されなければならない」と。しかし、主権がそのように、被治者の恐怖心の上にのみ支えられることは可能なのでしょうか。恐怖心を通してのみ人間に作用するような力が、果たしてよく、人間の様々な生活関係の「真の決定要素」になり得るのでしょうか。グリーンはそのように問うことで、ホッブズ--スピノザ--オースティンを経て、近代ヨーロッパの法律政治理論の中に深く定着した主権理論に、根本的な批判を加えようとしていたのです。

 強制力の性格に関するグリーンの考え方は、彼が歴史上の実例を引用しながら、オースティン的な主権理論を批判している個所に、最もよく示されています。例えばグリーンは、イギリスの法制史家メーン(Henry Summer Maine)に依拠しながら、「古代の専制帝国」や「近代東洋の帝国」は、主として租税徴収制度として機能し、それ以外の機能はほとんど果たされなかったといいます。つまりこうした国々では、一定の時に一定の目的(すなわち徴税、時に徴兵)のためには、被治者に対して過酷な強制力が行使されましたが、被治者の生活全般の行程は、国家の強制力の及ばない、様々な権威によって規制されたいたのです。そうしてこうした権威は、オースティンのいう一定の人あるいは人々にあるとはいい難く、強いて求めるなら、僧侶、慣習的な宗教の代表者、家長、村の会合などの混合の中にあるとしかいいようがない、とグリーンは説明しています。しかしオースティンのように、主権を「より強い力によって支配されることが全くないこと」と解すれば、そうした権威が主権でないことは明らかであるとグリーンはいうのです。

 グリーンにとって重要なことは、ある面では冷酷苛烈な支配力を行使する強制権力が、人間生活の全面を吸収し得ないという事実なのです。専制国家といえども手出しができない前述の各種の権威とは、グリーンに従えば、共同社会の一般意志の表示されたものに他なりません。要するに、人間生活の多くの分野にわたって指針や規範を与え、実質的な規制を加えているのは、こうした一般意志であって、決して強制権力ではないということになります。
 次にグリーンは、独自の組織的な共同生活を所持していた人達に、外国権力が支配を及ぼした例について検討するのです。最初に取り上げるのは、北イタリアに対するオーストラリアの支配にみられるような統治形態です。この場合、北イタリア社会は、自らの成文不文の法律を継承し、維持することができました。そしてオーストラリアの権力は、暴力からの保護を市民に与えるためにのみ行使され、法作成の機能を果たすことはありませんでした。それ故に、主権の廃棄は常に無秩序を引き起こすとみたホッブスの見解に反して、上の場合には、外国権力が無くなっても無秩序は起こらない、とグリーンはいうのです。

 外国権力が、法作成と法維持の機能を果たした例としては、ローマ帝国の支配があげられています。ローマは被征服国のの慣習法や成文法を廃棄しました。しかしその代わりに、被征服国民にローマの市民権を付与し、以前に彼らが享受していたのよりも手厚い保護を与えました。従って、ローマの支配に捧げられた被治者の習慣的服従は、彼らの好意、あるいは一般意志にしっかりと支えられていたとグリーンはみます。さらに彼は、インドにおけるイギリスの支配権力を、前述の租税徴収及び徴収権力と、ローマ帝国の支配との中間にあるものとして位置づけます。つまりイギリスの権力は、単に税の徴収に向けられるだけでなく、インドの慣習法を維持し、実施することにも向けられているとグリーンはみるのです。慣習法とは一般意志の表示されたものに他ならないので、グリーンの立場からは、インドにおけるイギリスの支配も、インド人の一般意志に支えられる側面を持っていたことになります。グリーンは、慣習法の力を極めて重要視し、皇帝が絶対的な強制権力を有しているロシアでも、皇帝の支配は、慣習法にまでは及び得ないことを強調しています。皇帝への強制力ではなくて、慣習法でありました。グリーンにいわせれば、いかなる専制政府であれ、それが不文法と絶えず抗争を続ける限り崩壊せざるを得ないのであります。

 政治理論史の上からみると、グリーンのいうところの強制力と一般意志の関係は、近世主権理論形成の当初から、主権の観念につきまとっていた問題点でありました。例えばセイパイン(George H. Sabine)が指摘しているように、主権が法律を作成し、解釈し、執行する無制限な権利であることを認めたボダンは、同時に主権者が変更することのできない、古来からの「国宝」(Ieges imperii)が存在することも認めていました。主権に無制限の強い力が認められなければならなかったのは、宗教上の内乱にゆさぶられていた近世初頭のヨーロッパで、旧来の宗教的信条に代わって、この観念が、国家統一のための新たな手段として案出されたものだからであります。宗教的信条の国民的一体性がもはや確保し得なくなった状況下で、国家統一の必要から、政治的手段を強化する道が求められたのだと言えるでしょう。

 主権の観念は、上のような特殊な状況の必要から生み出されているため、社会関係の実態を、あるいはグリーンの言葉でいえば、人間関係の「真の決定要素」や「一般意志」を、大幅に検象することによって成り立っていました。ボダンの場合には、まだ主権の「論理」と主権の「実際」とが矛盾する形で併存していましたが、ホッブズ以後、純粋な主権の「論理」のみが発展し、ヨーロッパ近代の一つの典型的な主権理論として定着することになります。つまりそこでは、実態とは遊離した、主権の論理的整合性のみが尊重されていたといえましょう。こうした議論の抽象性を衛き、社会関係の実態に即して主権理論を考え直そうとしているところに、グリーンの議論の大きな意味を認めることができるのです。

 グリーンにとっては、主権者というのは、単に強制力の行使者として抽象的に考えられるべきものではなく、政治社会の諸制度の全複合物と関連させて捉えられるべきものでありました。単なる強制力のみでは、習慣的服従を確保することはできません。彼はこのように述べています。「週刊的服従を決定しているのは……人間の意志と理性に備わっている力である。だがその際の人間というのは、種々の社会関係によって決定されるものとして、また相互に関心を持ち合うものとして、さらにまた共同目的のために共に活動するものとして捉えられた存在である」。政治社会の諸制度は、こうした様々な社会関係の中に表示されている一般意志を代弁し、それによって維持されるべきものであります。

 グリーンは、法的に認められていた法律の作成者と執行者を主権者としながらも、主権者が自らの職務を全うするためには、一般意志の実現に貢献しなければならないと考えました。このように、主権者の働きを一般意志に緊縛しようとしているところに、グリーンの主権理論の重要な特色が認められます。「主権能力が、習慣的で忠実な服従をかち得ることができるためには、それは人々の心に提示されなければならない」という言葉や、「服従は強制されたものではなくて、忠実なものでなければ、習慣的にならないだろう」といういい方は、主権能力を一般意志の表示とみる立場から手せてくるものであることはいうまでもありません。

 それでは、グリーンはルソーをどうみたのでしょうか。すでみた通り、グリーンは主権と一般意志の緊密な結びつきを強調していますが、だからといって、一般意志に主権を認めたルソーの理論に完全に同意しているわけではありません。グリーンによれば、ルソーの理論の最大の問題点は、それが「一方において、主権者を一般意志と同一視する立場をしっかりと保持することができず、他方において、主権者を単に、最高の法作成及び法執行権力という意味に結びつけることもできない」ところにあります。

 グリーンによれば、ルソーはホッブズやスピノザと同様、主権者の一切の行為を正当なものと考えていた。自然権を自然力と同一視するホッブズやスピノザの場合には、自然状態には正も不正もあり得ず、ただ主権者が定められた後に、主権者の命ずることのみが正当とされた。そして法律は全て、主権者によって制定されて始めて法律になるのであるから、「不正な法」というのはあり得ない。だがルソーの場合には、最高の強制権力としての主権に正義の源泉を認める立場からではなく、「全ての人の善を目差す意志」である一般意志に主権を認める立場から、主権者の一切の行為の無謬性が主張されました。
 しかし、ルソーの主張は単にそれに留まりません。グリーンによれば、ホッブズの場合には、主権者の制定する法は不正ではなくても、自然法と衝突するという意味で「不公正」であったり、個人や社会を弱体化するという意味で「有害」ではあり得ました。主権者が人である以上、そうした可能性を排除することはできません。ところが一般意志に主権を認めるルソーの立場からは、主権者の制定する法は不正でも有害でもあり得ません。しかしいうまでもなく、このような主権は、ルソーの考える理想国家においてしか成立しません。従ってルソーの理論を実地に適用しようとすると、ルソー自身がそうであったように、どうしても、現実に最高の権力を行使している者を「事実上の」(de facto)主権者と呼んで、「正当な」(de jure)主権者と区別せざるを得なくなる、とグリーンはみるのです。しかしこれは、主権者という言葉の使用法の混乱を示すものでしかありません。もしも主権者が一般意志であるならば、特定の欲求や利害が一般意志であるかどうかだけが問題であって、一般意志に正当なものか、事実上のものかの区別をつけようとすることは無意味なのです。またもし、主権者が最高権力であるなら、誰がそうした権力を保持しているかが問題であって、正当か事実上かの区別は、ここでも適用することはできないのであります。

 前回まで述べてきた一般意志の観念と最高権力の観念とを主権という言葉の下に結合しようとすると、人民多数をもって正当な主権者とする考え方ができ上がる、とグリーンはいいました。何故なら、「一般意志の主権という、感知しにくい、不自然な意味での主権」よりも、投票で確認できるだけに、「多数の主権という、自然な、証明し得る意味での主権」の方が設立し易いし、人民多数は、最高の強制権力の行使者と考えられ易いからである(尤も人民多数は、実際には常に最高の強制力を持っているわけではないので、事実上のではなくて、正当な主権者と呼ばれざるを得なくなる)。しかし人民多数は、強制力の保持者とみることはできても、「共同善に対する利己的でない関心という意味での一般意志」の保持者とはとうてい考えられない、というのかぜグリーンの言い分なのです。
 こうして、ルソーの主権理論を実地に関して考えると、その意味は破綻せざるを得なくなります。グリーンによるルソー批判の場合と同様、主権理論を実地に即して考えると、その意味は破綻せざるを得なくなります。グリーンによるルソー批判の狙いは、オースティン批判の場合と同様、主権理論を抽象的な観念や論理の呪縛から解き放ち、それに現実的な基礎を与えるところにあったといえましょう。

 グリーンとルソーの重要な相違点は、両者は共に一般意志という言葉を用いながらも、それぞれ異なった用い方をしているところに示されています。ルソーのいう一般意志とは、「常に正しく、常に公の利益を目指す」共同の自然であり、しかも国家共同体全体にわたって成り立つ唯一の意志でありました。これに対してグリーンのいう一般意志とは、既に掲げた例や説明からも窺われる通り、様々な社会集団や社会関係のおのおのにおいて、見出すことが可能なものでありました。そしてまたルソーの一般意志のように、一般民衆の容易に把握し得ない理想ではなくて、彼らが現実に理解し、実践することが可能なものであったといえるのです。

 グリーンのいう一般意志を、彼の用いている他の言葉で置き換えるとすれば、「共同善」という語がそれに当たります。あるいはより正確には、先に引用した「共同善に対する利己的でない関心」こそ一般意志なのです。グリーンがルソーの理論を批判しながらも、そこに真理が潜んでいることも認めるのは、共同善が政治社会の基礎でなければならないという意味合いが、ルソーの主権理論から引き出せるからなのです。ただルソーの関心が専ら国家共同体にのみ向けられていたといえるのです。つまりグリーンは、国家共同体の意志よりも前に、様々な社会関係の下で形成される自発的な意志に注目し、それをできる限り尊重して行こうとする姿勢を示しているのです。次回に述べますが、グリーンのこの影響こそ、彼の思想の後継者達に影響を与えたものでありました。

 ルソーとグリーンの間では、主権と一般意志の関係に関する見方が微妙に食い違っています。ルソーの場合には、一般意志は主権そのものであり、両者は完全に一体化されているといえます。これに対してグリーンは、主権が一般意志のを表示し、それに制約されるべきことは認めながらも、両者が完全に一体化されるものとはみていません。グリーンにとっては、一般意志は主権そのものではなくて、いわば主権をコントロールしている基盤であるといえるのです。ルソーのように考えれば、現実に主権が成立することは困難になりますが、グリーンのように考えることで、現実に主権を認めながら、なおかつそれを一般意志に付託し、その向上を計って行くことが可能になるのです。主権の基盤を重視するというこの方向も、グリーンの後継者達の採った方向でありました。

 但しグリーンのいう一般意志は、単に主権、あるいは政治的人間関係の基盤であるばかりでなく、今まで述べてきたところからも明らかなように、政治以外の様々な人間関係、社会関係の基盤でもある点に注意しなければなりません。こうして一般意志が政治も含めて多様な人間関係の中に反映され、それらを動かし、規定しているとすれば、社会を統合調整する上で主役を演じているのは、主権ではなくて、一般意志であるということになります。グリーンが、オースティン批判を通していおうとしているのもそのことなのです。グリーン自身、はっきりこう述べています。「どのような社会においても、権利の全般的な構成は……最高権力を所持している人、または人々の決定によってなされるのではない。それは、共同の利害を承認している社会が、一定の原理に基づいて人間行動を統制することによってなされるのではない。それは、共同の利害を承認している社会が、一定の原理に基づいて人間行動を統制することによってなされるのである」。そしてそうした統制は、「例外的に強制力によって支えられることを必要としているだけ」なのです。
 ここに、後に多元的国家論によって展開された国家理論のの原型が示されています。多元的国家論者は、グリーンの示した方向に従って、国家を強制力一方のものとしてみる見方を退け、国家を支えている基盤とか、国家の奉仕すべき目的の観念を明確にしようとしました。そして、グリーンが国家よりも前にあるものとして重視した社会的諸関係を、結社の活動と共同体の活動に細分化し、それらの自立性を確保することを通して、個人の自由を増進しようとしました。次にグリーンの系譜につながるいくつかの多元的国家論を検討することで、理想主義的理論の含んでいる問題点と意義について考えていきます。

※ 2023年1月21日・24日・26日・28日・31日・2月2日の投稿文をup to date.


参考文献

 『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』河合栄治郎全集第1巻、第2巻
     河合栄治郎(著) 社会思想社
 『グリーンの倫理学』 行安茂(著) 明玄書房
 『トマス・ヒル・グリーン研究』 行安茂(著) 理想社
 『T・H・グリーン研究』
     行安茂・藤原保信(著) イギリス思想研究叢書 御茶の水書房
 『近代イギリスの政治思想研究――T・H・グリーンを中心にして』
     萬田悦生(著) 慶応通信


 次回は「ニ ラスキの多元的国家論」。

 今日のmixiもここまでです。明日もよろしくお願いします
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