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2024年05月24日04:47

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5月24日に亡くなった主な人々

1408年、元(モンゴル)の武官、李氏朝鮮の創始者(初代国王)になった李成桂(イ・ソンゲ)が74歳で薨去。死後の1401年に明に朝鮮国王と冊封された太宗によって、初代李氏朝鮮国王の称号が送られ、大韓帝国期に太祖高皇帝の称号を送られました。咸鏡南道の永興(金野郡)の出身。『李朝太祖実録』によれば本貫は全州李氏だとか。
1543年、ポーランドの天文学者のニコラウス・コペルニクスが脳卒中で倒れ、半身不随となった後、70歳で死去。1529年ごろからコペルニクスは地動説についての論考をまとめ始め、推敲と加筆を繰り返していましたが、これを出版するつもりは全くありませんでした。しかしコペルニクスの考えは友人たちを通じてこのころにはかなり知られるようになっており、1533年には教皇クレメンス7世にこの考えが伝えられています。1535年にはヴァポフスキがコペルニクスの元を訪れ、地動説についての話を聞いています。1536年には枢機卿の一人であるニコラス・シェーンベルクがコペルニクスに賞賛の手紙を送っています。しかし、このころはいまだコペルニクスはこの考えを出版する気持ちを持っていませんでした。このころにはヘウムノの司教となっていた親友のギーゼは何度も出版を勧めたが、それでもコペルニクスは動きませんでした。1539年、ヴィッテンベルク大学の教授であるゲオルク・レティクスがコペルニクスのもとを訪れ、地動説の話を聞き、感銘を受けて弟子入りを申し込んで、コペルニクスの唯一の弟子となりました。レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収するとともに、この理論の出版を強く勧めました。ここに至ってコペルニクスも重い腰を上げ、自らの理論の集大成に取り組み始めました。1539年にはレティクスが自らの天文学の師であったヨハネス・シェーナーに長い手紙を送り、このなかでコペルニクスの理論の要約を載せています。この手紙の写しをレティクスはグダニスクの出版業者に持ち込み、1540年には「最初の報告」との名で出版されました。この書物の中でレティクスはコペルニクスの理論の要約を広めるとともに、完成版の出版を予告。コペルニクスとレティクスは理論のチェックを進め、1542年にはコペルニクスの主著となるであろう『天体の回転について』の草稿が完成し、ニュルンベルクの印刷業者であるヨハネス・ペトレイウスのもとで印刷されました。しかしここでレティクスがライプツィヒ大学の数学教授に招聘されたため、レティクスはルター派の神学者アンドレアス・オジアンダーに校正を依頼した。完成品がコペルニクスのもとに届けられたのは、彼の死の当日でした。

1636年(寛永13年)、出羽国と陸奥国の戦国大名で仙台藩の初代藩主、伊達政宗が死去。享年70(満68歳没)。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名があります。天正17年11月、後北条氏が真田領へ侵攻したことにより、豊臣氏により征伐が行われることになりました。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたということです。秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)中である天正18年(1590年)5月に、豊臣配下浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立すると米沢・小国を経て同盟国上杉景勝の所領である越後国・信濃国、甲斐国を経由して小田原に至りました。秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は会津領を没収したものの、伊達家の本領72万石(おおむね家督相続時の所領)を安堵しました。このとき遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させたということです。この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられています。政宗が秀吉に服属してほどなく、北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、秀吉は宇都宮城で奥州仕置(宇都宮仕置)を行いました。ここに秀吉の日本統一が達成されましたが、政宗は会津領などを失い陸奥出羽のうち13郡、およそ72万石に減封されています。関ケ原の戦いのあと、徳川家康の許可を得た政宗は慶長6年(1601年)、居城を仙台に移し、城と城下町の建設を始めました。ここに伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生。石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位でした。徳川幕府からは松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称しました。仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台の城下町は全面的な開発であるため、のべ100万人を動員した大工事となりました。藩内の統治には48か所の館を置き家臣を配置しました。政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、慶長18年(1613年)、仙台領内において、エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・ファン・バウティスタ号を建造しました。政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣しました(慶長遣欧使節)。

1971年、評論家、婦人解放運動家の平塚らいてうが自伝の作に取り掛かるも、1970年(昭和45年)に胆嚢・胆道癌を患い、東京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院。らいてうは入院後も口述筆記で執筆を続けていましたが、85歳で逝去しました。本名は平塚明(ひらつか はる)。戦前と戦後にわたって活動した女性解放運動家。戦後は主に反戦・平和運動に参加しました。平塚は、特に、大正から昭和にかけ、婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られます。結局、その実現は、第二次世界大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たざるを得ませんでした。しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」発刊を祝い、自らが寄せた文章の表題『元始、女性は太陽であった』は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなりました。
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/380/

1974年、ジャズピアニスト、作曲家、ビッグバンドリーダーのデューク・エリントンが75歳で死去。20世紀最大のジャズ・ポピュラー界の音楽家と言われています。1930年代から第二次世界大戦後にかけて『A列車で行こう』(作曲はビリー・ストレイホーン)など、音楽史に残る様々な作品を世に出しました。異色の録音はベースのチャールズ・ミンガス、ドラムスのマックス・ローチと組んだ『マネー・ジャングル』、ジョン・コルトレーンとの共同名義、 『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』。エリントンの音楽の幅広さが知られます。またオーケストラでの『極東組曲』もチャルメラ音楽に終わっていません。
https://www.youtube.com/watch?v=cMIdHuEAAug

1977年、時代劇俳優の近衛十四郎が、長男・松方との共同出資で京都府亀岡市に作った釣堀「天国」で松方とヘラブナ釣りを楽しんでいた最中に脳内出血で倒れ、近所の南丹病院に搬送されました。一時意識を取り戻すも左半身が麻痺、収縮期血圧は260を示します。脆くなった血管は次々と切れていく状態で近衛の病状は悪化の一途を辿り、昏睡状態となりました。意識が戻らないまま近衛は息を引き取りました。63歳没。東映の時代劇役者の中でも抜群に太刀裁きが上手い人でした。テレビの時代劇では品川隆二と組んだ『素浪人 月影兵庫』『素浪人 花山大吉』でユーモラスも交えた演技を見せていました。トルコ風呂(ソープランド)やモーテル、釣堀の経営者でもありました。
https://www.youtube.com/watch?v=7Elus275KWc&list=PL12PZJctpA0plvQFX1Bl0qm1XyOUAF63q

1991年、元プロレスラー、元レフェリー、俳優のマンモス鈴木が塩竈市の病院で内臓疾患により死去。50歳没。日本プロレスではジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎とともに若手四天王と呼ばれました。1961年7月にジャイアント馬場とともに武者修行のため渡米。その後、ジャイアント馬場よりも早く帰国。帰国後に広島県福山市で凱旋試合が組まれましたが、この際に相手のアントニオ猪木と引き分けました。凱旋試合を台無しにした猪木は力道山の怒りを買いました。巨体を生かしたファイトに将来性があふれ期待が高かのですが、私生活の乱れと本番で取り乱すことが多かった神経の細さから伸び悩みました。不甲斐なさゆえに力道山から「ゴリラ鈴木」に改名されてしまいました。のちに国際プロレスで選手を務めた後レフェリーになりました。
https://www.youtube.com/watch?v=B4dEEQdq72k

2002年、喜劇女優の清川虹子が肺出血のため神奈川県川崎市高津区の病院で死去。満89歳没(享年91)。 1928年、川上貞奴主宰の児童劇団へ入団し、川上貞奴の最後の弟子となる。1929年、市民座へ入り、座員の中条金之助と結婚(1男を儲けるが、のちに離婚)。1929年、山村聡主宰の新劇へ移籍。1933年、笑の王国に参加。1934年、東宝製作の『只野凡児・人生勉強』でスクリーンデビュー。1942年、東宝社長・大沢善夫の弟である大沢清治と結婚して芸能界を引退しましたが、1947年に死別。その後、芸能界に復帰して『サザエさん』シリーズに磯野フネ(舟)役で出演。1952年、新東宝などの喜劇作品で多数共演した伴淳三郎と結婚しましたが、あまりの女癖の悪さが原因で1959年に離婚(但し、交流は伴の死まで続きました)。1960年代後半からは藤純子主演の『緋牡丹博徒シリーズ』、若山富三郎主演の『極道シリーズ』などに助演して東映の仁侠映画で活躍。1983年、『楢山節考』に出演。70歳にして初ヌードを披露しました。榎本健一・伴淳三郎らと並ぶ喜劇役者として大成すると同時に日本を代表する喜劇女優ともなりました。
https://www.youtube.com/shorts/E_f_TTirc2o

2005年、ファッションデザイナーの石津謙介が肺炎のため東京都青梅市の病院で死去。93歳没。「ヴァンヂャケット(VAN)」の創業者。高度経済成長期にあたる1960年代の日本に登場した男性ファッション「アイビールック」の生みの親で、“メンズファッションの神様”と呼ばれました。青山にあったイベントの入場料を99円に統一したホール「VAN99ホール」も設立しました。1978年、株式会社ヴァンヂャケットが約500億円の負債を抱えて経営破綻(その後再建)。その後はフリーのファッションデザイナーとして活動する傍ら、衣・食・住のライフスタイルを積極的に提案しました。
https://showa-g.org/men/view/236

2010年、元力士、元プロレスラーのラッシャー木村が腎不全による誤嚥性肺炎のため、68歳で死去。大相撲廃業後、1964年10月に日本プロレスに入団。1965年4月2日、リキ・スポーツパレスに於いて、高崎山猿吉戦でデビュー。豊登の付き人をしていた関係から、翌1966年に豊登が興した東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍。1969年1月1日にリングネームをラッシャー木村に改名。同年4月20日、サンダー杉山と組んでスタン・スタージャック&タンク・モーガンを破り、TWWA世界タッグ王座を獲得、初戴冠を果たします。以降、ドリー・ディクソン&モーガン、ジャン・ウィルキンス&チーフ・ダニー・リトルベア、スタン・ザ・ムース&ニキタ・マルコビッチなどのチームと防衛戦を行った後、8月に王座を返上して渡米。アメリカでは中西部のカンザスおよびミズーリを拠点とするNWAセントラル・ステーツ地区を主戦場に、後に日本で流血の抗争を展開することになるキラー・トーア・カマタとタッグを組み、ロニー・エチソン、モンゴリアン・ストンパー、アーニー・ラッド、KO・コックス、ボブ・ガイゲルなどと対戦。1970年2月21日には当時のNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアにも挑戦しました。覆面を被り、シャチ横内とジ・インベーダーズ(The Invaders)なるタッグチームを結成していたこともあります。1970年8月に凱旋帰国し、10月8日には大阪府立体育館にてドクター・デスを相手に、日本初の金網デスマッチを行いました。同デスマッチ第2戦となる12月12日のオックス・ベーカー戦で左足を複雑骨折する重傷を負うも、第3戦となる1971年3月2日のザ・クエッション戦はギプスを装着して強行出場しました。以降もバスター・マシューズ、ダニー・リンチ、カーティス・イヤウケア、バロン・シクルナ、バディ・オースチン、ラーズ・アンダーソン、スカンドル・アクバ、リック・フレアー、オレイ・アンダーソン、ザ・ブルート、レネ・グレイ、セーラー・ホワイト、バロン・フォン・ラシク、レイ・スティーブンス、マッドドッグ・バション、カマタ、ブッチャー・ブラニガン、ジプシー・ジョー、ピエール・マーチン、ギル・ヘイズ、リッパー・コリンズらに連勝。金網デスマッチでは不敗を誇り、「金網の鬼」の異名が定着しました。1974年6月5日には米沢にて、ホワイトと日本初の金網チェーン・デスマッチを行っています。タッグでは1971年9月、TWWA世界タッグ王座戴冠時のパートナーだった杉山と組み、グレート草津の海外遠征による返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座をレッド・バスチェン&ビル・ハワードと争います。9月7日の新王者チーム決定戦では敗退するも、9月23日に再び杉山と組み、新王者チームのバスチェン&ハワードを破ってIWA世界タッグ王座を初奪取。以降、1972年の木村の再渡米に伴う王座返上まで、リンチ&ラシク、ブロンド・ボンバーズ、ダン・ミラー&イヤウケア、モンスター・ロシモフ&イワン・バイテンなどを相手に7回防衛しました。帰国後の1973年4月30日には、グレート草津を新パートナーにバション&イワン・コロフが保持するIWA世界タッグ王座に挑戦。敗退したものの、5月14日の再戦で勝利し同王座を再び奪取。草津とのコンビでは、1975年4月にタイトルを返上するまで、テキサス・アウトローズ(ダスティ・ローデス&ディック・マードック)、ミネソタ・レッキング・クルー(オレイ&ジン・アンダーソン)、ハリウッド・ブロンズ(ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)、ザ・キウイズ(ニック・カーター&スウィート・ウィリアムス)、スーパースター・ビリー・グラハム&ラシク、ワフー・マクダニエル&バスチェン、AWA世界タッグ王者チームのニック・ボックウィンクル&スティーブンスなど、当時のアメリカでもトップクラスの強豪チームを相手に11回の防衛に成功しました。このうち、1974年3月31日に釧路市厚生年金体育館で行われたジム・ブランゼル&ブルートとの防衛戦は、木村初の金網タッグ・デスマッチとなりました。
1973年6月19日、茨城県笠間大会にて、国際のエースだったストロング小林がローデスを下しIWA世界ヘビー級王座を防衛した直後、小林に挑戦状を突きつけ、同年7月9日の大阪府立体育会館で小林VS木村の同門対決となるIWA世界ヘビー級王座戦が実現、1954年12月22日の力道山VS木村政彦戦以来となる大物日本人選手同士のタイトルマッチとなりました(小林が勝利し王座防衛)。同年10月には『IWAワールド・シリーズ』第5回大会の決勝戦でブラックジャック・マリガンを破り、シリーズ初優勝を果たしています。
1974年の小林離脱後は、一度はマイティ井上に先を越されるも、1975年4月19日にバションを金網デスマッチで破りIWA世界ヘビー級王座を獲得(これに伴い、IWA世界タッグ王座を返上)、以後、国際プロレスが消滅する1981年夏まで、6年間に渡ってエースとして活躍しました。1975年6月6日にはアントニオ猪木に挑戦状を突きつけ、同年12月20日にはジャイアント馬場にも挑戦を表明。全日本プロレスとの交流戦では馬場やジャンボ鶴田と対戦、1976年3月28日の蔵前国技館における鶴田戦は、東京スポーツ新聞社のプロレス大賞において年間最高試合に選定されています。1977年3月には、4年ぶりに開催された『IWAワールド・シリーズ』第6回大会の決勝戦でバションに勝利、シリーズ連覇を果たしました。1978年11月には、鶴田、草津、井上、アニマル浜口、キム・ドク、ミスター・サクラダ、ミスター・ヒト、ディーン・ホーらが参加した『日本リーグ争覇戦』において、決勝戦でプロフェッサー・タナカを破り優勝。1979年8月26日の『プロレス夢のオールスター戦』では、セミファイナルで因縁の小林と対戦、リングアウト勝ちを収めました。IWA世界ヘビー級王者としても、前王者バションをはじめ、カマタ、ジョー、ホワイト、ワイルド・アンガス、リップ・タイラー、アレックス・スミルノフ、キラー・ブルックス、ベーカー、ジョン・トロス、ジョー・ルダック、ストンパー、上田馬之助などのラフファイターを挑戦者に流血戦を繰り広げる一方、ビッグ・ジョン・クインやマイク・ジョージと正攻法のパワーレスリングを展開しました。1979年10月5日には後楽園ホールにてAWA世界ヘビー級王者ボックウィンクルとのIWAとAWAのダブル・タイトルマッチを行い、反則勝ちを収めています(反則勝ちのためAWA王座は移動せず)。同年は7月にアンドレ・ザ・ジャイアント、11月にバーン・ガニアとのIWA王座戦もそれぞれ行われました。1980年12月13日には新日本プロレスのリングで、7年前とは逆に小林を挑戦者に迎えての防衛戦が実現、小林から初のフォール勝ちを収めました。このほか、得意技ブルドッギング・ヘッドロックの開発者であるカウボーイ・ボブ・エリス、前WWWFヘビー級王者として久々に国際プロレスに参戦したビリー・グラハム、東京プロレス以来の対戦となるジョニー・パワーズ、後にNWAの主要テリトリーで活躍するロン・バス、他団体から移籍してきたキラー・カール・クラップやレイ・キャンディ、当時の米マット界における成長株だったランディ・タイラーやスティーブ・オルソノスキーらの挑戦も退けました。途中、上田、スミルノフ、ガニアに王座を奪われるも、いずれも短期間で奪還。1976年から1979年にかけては、元王者の小林が記録していた25回を上回る26回の連続防衛に成功しています。1981年8月6日、室蘭で行われたジ・エンフォーサー戦が最後の防衛戦であり、最後の金網デスマッチでもありました。国際プロレス解散後は新日本プロレスで屈辱的なマッチメークを組まれるも奮闘。やがて新生UWFに移籍。さらに全日本プロレスに舞台を移し、ジャイアント馬場と組むも、仲たがいを演じ、敵対。しかしマイクで「兄貴」と呼んで再びタッグを組み、永源遥、渕正信らの悪役商会相手に銭座戦線を盛り上げました。特に試合後に渕の独身をネタにしたいじりマイクパフォーマンスは有名。やがて馬場が死去すると、三沢光晴についていって、終身選手名誉会長になりました。
https://www.youtube.com/watch?v=7O63Ar_9iJU

2012年、食生態学者、エッセイスト、探検家、登山家の西丸震哉が死去。若い頃から鮮明な幻覚を見る事がよくあり、幽霊やいわゆる超能力現象に興味を示し、科学者として可能な限り客観的な記録や解析を行おうと努めました(「未知への足入れ」、「山だ原始人だ幽霊だ」、「山とお化けと自然界」など)。さらに、登山中や農林水産省勤務中に経験した動物の珍しい行動(タコが陸上に上がり、大根を引き抜く。実際にタコは白い物体に興味を示す)も記録しています(「動物紳士録」、「山歩き山暮し」など)。1970年代はじめから環境汚染による悲観的な未来予想を唱えるようになりました。特に西丸がアドバイザーとして参加した映画『ノストラダムスの大予言』およびその関連として出版された『実説・大予言』(祥伝社・五島勉との対談)はその集大成といえるものです。『実説・大予言』に記されていた「21世紀初めには環境汚染の影響で日本人の平均寿命が大幅に下がる」「今の若者はナチスのガス室にいるのも同然であり、昭和34年(1959年)以降に生まれた世代は41歳までしか生きられない」という見解を、1990年に『41歳寿命説』として世に送りマスコミで大きな話題となりました。西丸が釜石で体験した幽霊話(転勤先までつきまとわれた)はある種の神経変性疾患の症状に極めて類似している事が報告された例があります。

2023年、アメリカのロック歌手、ティナ・ターナーがスイス・チューリッヒ近郊キュスナハトの自宅で死去。死因は不明ですが、長い闘病生活を送っていました。脳卒中や腎臓病などを患っていたと言われています。83歳没。
1960年に結婚したアイク・ターナーとの「アイク&ティナ・ターナー・レヴュー」というデュオユニットで数々のヒット曲を生み、アイクとの離婚後もソロで大活躍しました。
友人による橋渡しで創価学会さんに入信。その縁で、西武球場で開かれた同教団の大会に、ジャズピアニストのハービー・ハンコックともども出演するということを、西武鉄道の車内吊り広告で私は知りました。
https://www.youtube.com/watch?v=oyINr8M4SfU



引用・参照したサイト

5月24日は何の日?記念日、出来事、誕生日などのまとめ雑学
5月24日、今日は何の日〜毎日が記念日〜
5月24日は何の日
5月24日の雑学。今日は何の日?記念日、誕生日、カレンダー
トラッドジャパン 5月24日
マイナビウーマン 5月24日
Wikipedia「5月24日」
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