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2024年04月17日06:40

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4月17日に亡くなった主な人々

269年(神功皇后69年)、第14代天皇である仲哀天皇の皇后、神功皇后が数え100歳で薨去。仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされますが、その約70年間は天皇不在ということになります(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。 仲哀天皇2年、1月に立后。天皇の熊襲征伐に随伴。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成します。同年10月、海を越えて新羅へ攻め込み百済、高麗をも服属させました(三韓征伐)。12月、天皇の遺児である誉田別尊を出産。翌年、誉田別尊の異母兄である香坂皇子、忍熊皇子を退けて凱旋帰国。この2皇子の母は仲哀天皇の正妻であり、神功はクーデターを起こしたことになります。 クーデターの成功により神功は皇太后摂政となり、誉田別尊を太子としました。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い聖母(しょうも)とも呼ばれます。明治時代までは一部史書で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていましたが、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外されました。

1354年(正平9年/文和3年)、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿、歴史家、北畠親房が賀名生で死去、享年62。後醍醐天皇が即位すると、吉田定房・万里小路宣房とならんで「後の三房」と謳われるほどの篤い信任を得ました。観応の擾乱で足利尊氏が南朝に降伏して正平一統が成立すると、これに乗じて親房は一時的に京都と鎌倉の奪回にも成功しました。著書の『神皇正統記』で名高く、南朝を実質的に指導していました。陸奥国白河の結城親朝はじめ関東各地の反幕勢力の結集を呼びかけましたが、宇都宮公綱・芳賀高貞が北朝方に味方したため伊達行朝・中村経長を遣わし芳賀高貞・高朝の父子を討ち取りました。

1790年、アメリカの政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者のベンジャミン・フランクリンがフィラデルフィアで、84歳で死去。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をしました。また、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られています。現在の米100ドル紙幣に肖像が描かれている他、ハーフダラー銀貨にも1963年まで彼の肖像が使われていました。勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像を象徴する人物。己を含めて権力の集中を嫌った人間性は、個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられます。『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つです。

1817年(文化14年)、蘭学医の杉田玄白が83歳で息を引き取りました。明和8年(1771年)、自身の回想録である『蘭学事始』によれば、中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れます。玄白はオランダ語の本文は読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入。偶然にも長崎から同じ医学書を持ち帰った前野良沢や、中川淳庵らとともに「千寿骨ヶ原」(現東京都荒川区南千住小塚原刑場跡)で死体の腑分けを実見し、解剖図の正確さに感嘆します。玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』を和訳し、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行するに至ります。友人桂川甫三(桂川甫周の父)により将軍家に献上されました。

1942年、フランスの物理学者、ジャン・ペラン(Jean Baptiste Perrin)が71歳で死去。物質が分子からできていることを実験的に証明しました。1926年、ノーベル物理学賞を受賞しました。1890年代は陰極線の研究を行いました。1901年には原子核のまわりを電子が回っているという、現在に連なる原子模型を最初に発表していますが、この当時は注目されませんでした。1908年から、ブラウン運動に関する精密な実験を行い、分子理論を実証しました。1913年著書『原子』を出版しました。

1948年、海軍軍人、政治家の鈴木貫太郎が肝臓癌で薨去、享年81。死の直前、「永遠の平和、永遠の平和」と、非常にはっきりした声で二度繰り返したということです。海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任。予備役編入後に侍従長に就任、さらに枢密顧問官も兼任しました。二・二六事件において襲撃されますが一命を取り留めました。枢密院副議長(第14代)、枢密院議長(第20・22代)を務めたあと、小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任しました。一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任しました。陸軍の反対を押し切って、ポツダム宣言受諾により第二次世界大戦を終戦に導きました。
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/113/

1976年、デンマークの生化学者、カール・ピーター・ヘンリク・ダムが81歳で亡くなりました。彼はビタミンKの発見と人体におけるその働きの解明によりエドワード・アダルバート・ドイジーとともに1943年度のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。彼は、ニワトリにコレステロールを全く含まない食事を与える実験を行ってビタミンKの機能を解明しました。ニワトリは数週間経つと出血が制御できないようになりました。ダムは血液を凝固させるのに必要な成分を単離し、凝固ビタミンと呼びました。このビタミンは、凝固を意味するドイツ語Koagulationsの頭文字を取ってビタミンKと呼ばれるようになりました。手の指や足がつる私は青汁でビタミンKを摂取しています。

1988年、漫画家の武内つなよしが肺癌のため死去。65歳没。1954年、福井英一が「少年画報」に『赤胴鈴之助』の連載を開始しましたが、第一回が掲載された直後に急死したため、これを描き継ぎ、大ヒット作品に育て上げました。1957年にはラジオドラマ化を皮切りに、映画化、そしてテレビドラマ化と立て続けにメディアに進出。さらに1972年にはアニメ化されています。また、1959年から「ぼくら」に連載された『少年ジェット』はテレビドラマ化され大人気となり、連載も3年間継続されました。晩年には『小説 赤胴鈴之助』などの小説にも挑戦。また古典落語の漫画化や『まんがでわかる新道交法』などのハウツーものなど、最後まで創作意欲に衰えを見せませんでした。

2014年、コロンビアの小説家、ガブリエル・ガルシア=マルケスが肺感染症などで入院し、退院して自宅療養していましたが、メキシコ市内の自宅で死去。87歳没。代表作は『百年の孤独』『族長の秋』で、1982年にノーベル文学賞受賞。 特に『百年の孤独』は、大江健三郎や筒井康隆、池澤夏樹、寺山修司、中上健次など多くの作家に影響を与えました。
https://www.shinchosha.co.jp/writer/341/

2017年、英語学者、政治経済評論家の渡部昇一が心不全により、86歳で没。『知的生活の方法』を書いた時はまだ良かったのですが、マスメディアに出るようになると、分厚い眼鏡に山形弁で「色盲は遺伝するから、結婚してはいけない」などという差別感・ファシスト気質を露わにし、田丸(美里)美寿々から「そういえば先生もヒトラーに似ていらっしゃいますよね」と皮肉を飛ばされていました。
https://www.youtube.com/watch?v=BLxJEvP0baI

2019年、漫画原作者の小池一夫が肺炎のため死去。82歳。漫画原作作品に『子連れ狼』(画: 小島剛夕)、『御用牙』(画: 神田たけ志)、『高校生無頼控』(画: 芳谷圭児)、『修羅雪姫』(画: 上村一夫)、『クライング フリーマン』(画: 池上遼一)、『オークション・ハウス』(画: 叶精作)、小説に『乾いて候』、『夢源氏剣祭文』があります。初期の『ゴルゴ13』(さいとう・たかを)にも関わっていました。「漫画はキャラ起てが大事だ」が信条。インパクトのあるキャラクターを動かし、世界的な謀略劇の中を鍛え上げた肉体を駆使して駆け抜けるというハッタリの効いた壮大な筋が身上。「キャラクター原論」の提唱者でもあります。
http://www.goma-books.com/kazuokoike


引用・参照したサイト

4月17日は何の日?記念日、出来事、誕生日などのまとめ雑学
4月17日、今日は何の日〜毎日が記念日〜
4月17日は何の日
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トラッドジャパン 4月17日
マイナビウーマン 4月17日
Wikipedia「4月17日」
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