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2024年04月03日16:08

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(読書)『日本人のための宗教原論』(小室直樹著:徳間書店)

以前に『世界がわかる宗教社会学入門』(橋爪大三郎著:ちくま文庫)という本を読み、大変面白く感じたので、その中で推薦されていた本書を読んでみようと思った。この本も、『世界がわかる宗教社会学入門』と構成は比較的似ており、キリスト教、仏教、イスラム教、儒教を小室さん独自の視点で分析している。目次は以下のようになっている。いくつか注目すべきポイントを紹介してみよう。

【目次】
第1章 宗教は恐ろしいものと知れ
第2章 宗教のアウトラインを知る
第3章 神の命令のみに生きる【キリスト教】
第4章 【仏教】は近代科学の先駆けだった
第5章 【イスラム教】は絶好の宗教の手本
第6章 日本に遺された【儒教】の負の遺産
第7章 日本人と宗教

(1)キリスト教は戒律というものをいっさい認めないという点が指摘されている。こう聞くと、「あれ、そうだっけ。例えばカトリック教会の修道院の内部では、厳しい戒律を順守する生活と修行とが行われているのでは?」のようにいぶかる人もいることだろう。ところが、小室氏の分析によると、キリスト教のバックボーンは「予定説」である。例えば「戒律を順守した生活や修行」というのは、その宗教のバックボーンが「因果律」でできていることが必須だという。そして、「予定説」と「因果律」とは相いれない。世界を因果律で理解するからこそ、戒律を順守する生活や修行が意味を持つのであって、因果律が否定され、「予定説」が採用されているキリスト教では、「戒律を順守した生活や修行」のようなものは意味を持たないのだという(P100〜)。

(2)キリスト教は「人間の意志の自由」というものを認めないということが解説されている。5世紀の初め、ペラギウスという宗教学者が「人間には意志の自由がある」と主張したところ、アウグスティヌスがこの見解を真っ向から否定し、両者の間で大論争になったという。この論争の結果、ペラギウスは異端として弾劾された。正統的キリスト教哲学では、あるのは神の意志のみ、人間はただ神の意志のままに行動すべき、というのが予定説の帰結であり、キリスト教の本質であると解説されている(P105)。しかし、もし人間には意志の自由がないとすると、キリスト教と実存主義(特に無神論の実存主義)とは相互に相容れないのではないだろうか。例えばサルトルは、「人間は自由の刑に処せられている」と主張している。人間は自由に意志決定できるので、逆に自分の選択したことや行動にたいして圧倒的に責任がある、というのがサルトルの主張である。

(3)キリスト教には、人間の内面と外面とを分けて考える「二分法的思考法」が内包されており、これが資本主義を生み出す原動力になったと解説されている(P328〜329)。キリスト教には、戒律や規範など、人間の外面的行動を律するものは存在しない。では、キリスト教徒がキリスト教徒であるためには、どういう条件が充足されるべきかというと、内面で信仰すればいいのである。内面では厳格に信仰する、外面(行動面)では自由に行動する、そういう二分法が許容されているのである。この二分法は、日本人の「ホンネとタテマエ」のダブルスタンダードとどう違うかというあたりは大変興味深い考察のポイントである。まず、日本人の「ホンネ」とは、「本心」のことではない。日本人の「ホンネ」とは、なんらかの「タテマエ」が必要になったとき、その反射的バランスとしてその都度発生する仮構された「ホンネ」に過ぎない。このあたりがキリスト教徒の「内面の信仰」とは大きく異なるポイントである。

(4)キリスト教と「法の支配」という概念との関係も、興味深い考察のポイントである。本書のP330には、次のような記述がある。

−−
 人間の間の契約が絶対でなければ、資本主義は機能しえない。(中略)このように、資本主義とデモクラシーと近代法とが成立し、機能するためには、パウロ的な、人間の外面と内面、行動と内心とを峻別する二分法がどうしても必要だったのである。
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 上の引用部分には、「近代法」という言葉が出てくるが、この近代法の概念の中には、当然「法の支配」の概念も含まれる。キリスト教(イスラム教のような一神教も同様)では、言葉というのは、基本的に神との関係から生まれると考えられている。そして、「法の支配」における「法」は、この神との関係で生まれた言語で記述されていると考えられているのではないだろうか。逆に言えば、個々のシチュエーションにおける人と人との間でその都度紡がれた言語では、「法の支配」における「法」を記述することはできないと考えられているのではないだろうか。

(5)本書のP386に60年安保闘争に関する興味深い記述がある。私は正直なところ、安保闘争のデモなどに参加した学生、労働者、国会議員、左翼、新左翼の運動家などが、何を求めて闘争運動に参加しているのか、よくわからなかった。だが、本書の安保闘争に関する記述を読んで、多少は分かったような気がした。私が読んだ限りでは、著者の小室さんは、安保闘争を次のように理解している。すなわち、日本におけるキリスト教、仏教、イスラム教、儒教の現状を見る限り、日本には宗教による紐帯が実現するほど宗教は定着していない。このため、日本には、人々の心にアノミー(無連帯)が生じている。安保闘争における運動家は、「要するにわっしょいわっしょいと騒ぐことが目的だったのである。(中略)騒げば連帯ができる。連帯ができれば気持ちが楽になる。参加する人間にとってみればカルト教を信ずることと全く同じことである」というのである。

【関連項目】

(読書)『世界がわかる宗教社会学入門』(橋爪大三郎著:ちくま文庫)

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